皇極天皇の皇居。所在については飛鳥川東岸、大字
伝飛鳥板蓋宮跡の宮殿遺構は、昭和三四年(一九五九)奈良国立文化財研究所によって発掘調査が行われ、その後奈良県教育委員会によって継続して進められている。現在まで発見されている遺構・遺物の概要は次のとおりである。この宮殿遺構は上下二層に大きく分けることができる。上層遺構は掘立柱建物群を掘立柱の塀によって二重に囲った形をとっている。その内郭はほぼ東西一五八メートル、南北二一二メートルの長方形をなし、内部に掘立柱建物・井戸などが存在する。この内郭はその規模・遺構の内容からみて宮の中心部分、おそらくは内裏部分にあたるものと考えられる。平城宮や藤原宮の例から類推すれば、検出した建物は内裏の北半部分にあたるものと思われる。内郭内で検出された主要な掘立柱建物は、三棟の東西棟と大井戸跡であり、それぞれの建物・井戸の周りは石組の溝と石敷で囲まれている。またこの石組の溝から出土した土器から、これらの上層遺構は七世紀末のものと考えられる。外郭の塀は、内郭の東の塀から約七〇メートル東の所で検出されている。この東面の塀は、幅一・五メートルほどの玉石組の大溝をその外側にめぐらしている。この外郭内の施設は内郭の北に接した所で掘立柱建物・溝などが検出されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
日本古代の皇極朝および斉明朝の宮。蘇我入鹿誅滅事件の舞台となったことで有名。642年(皇極1)9月に造営が開始され,翌年4月に,皇極女帝は東宮南庭の権宮(かりみや)から飛鳥板蓋宮に移った。同年10月,群臣や伴造(とものみやつこ)に,朝堂の庭で饗した記事がみえ,また,645年6月の蘇我入鹿誅滅に際し,飛鳥板蓋宮の12通門を閉じ,大極殿で入鹿を殺害したことになっている。12通門や大極殿の語は,《日本書紀》編者の潤色であろう。皇極女帝は重祚し,655年(斉明1)1月に飛鳥板蓋宮で即位したが,この年の冬,板蓋宮に火災がおこり,飛鳥川原宮に移った。
所在地については,従来から,明日香村岡地区が考えられてきた。飛鳥川の西に,飛鳥板蓋神社が所在することによる。伝飛鳥板蓋宮跡は,1959年から発掘調査が継続されている。その結果,この地に営まれた宮が飛鳥板蓋宮であるのか,疑問視されるに至っている。文献資料によっても,飛鳥板蓋宮の所在地は不分明である。《扶桑略記》は一説云として,飛鳥岡本宮と同地とする説を掲げている。《日本書紀》によれば,飛鳥岡本宮は舒明2年(630)10月~8年6月,後飛鳥岡本宮は斉明2年,天武1年(672)に存在していたことが確実であり,飛鳥板蓋宮の存続していた時期は飛鳥岡本宮と後飛鳥岡本宮の中間であるから,《扶桑略記》の一説が成立する可能性はある。後飛鳥岡本宮の南に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)が造営されたから,飛鳥板蓋宮,(後)飛鳥岡本宮,飛鳥浄御原宮は相互に近接し,また,一部分が重層している可能性がある。
発掘調査の結果,伝飛鳥板蓋宮跡の範囲や構造の一部分が判明した。特筆されるのは,この地域の遺構を少なくとも上下2層に分けることができ,また,火災の痕跡が存在しないこと,上層の宮殿遺構は伴出遺物によれば,7世紀後半,それも藤原宮造営直前のものという事実であり,ここから飛鳥浄御原宮説が有力視されるに至っている。上層宮殿遺構は,内郭(北・東・南の一本柱列を検出)と外郭(東の柵列を検出)に分かれ,内郭の南北の長さは約197m,東西幅は約158mであり,また,外郭の東柵列は内郭の東一本柱列から約108mのところで検出されている。内郭の中軸線は飛鳥寺伽藍中軸線の南延長線から約10m東にあり,南面中央に東西5間(14.6m),南北2間(5.5m)の門がある。門の北には,東西7間(20m),南北4間(11.2m)の大殿がある。内郭の北半部には大井戸を中心に複数の大型建物や長廊状建物(いずれも東西棟)が密集している。内郭の中心部分は未発掘であるが,藤原宮以降の内裏と共通した地域とみてよい。なお,内郭の南東に接した小字エビノコにおいて,東西9間(29.2m),南北5間(15.3m)の四面庇の建物が検出されている。このエビノコ大殿が,後の大極殿相当の建物とすれば,内裏と朝堂が南北にまっすぐに連ならない構造となる。下層宮殿遺構は,東西189m,南北は上層宮殿遺構内郭のそれと同じ197mで,前・後期難波宮の内裏や平城宮第2次内裏とほぼ同じ大きさである。下層宮殿遺構では2ヵ所から木簡が出土している。とくに,第51次調査では〈大花下〉〈白髪部五十戸〉と記したものが出土しており,他の伴出遺物とあわせて,下層宮殿遺構の年代が7世紀中ごろであることを示している。
執筆者:和田 萃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
皇極・斉明天皇の宮。642年(皇極元)東は遠江国,西は安芸国に至る諸国から丁を徴発して,4カ月間の造営を計画し,翌年遷宮する。大化の改新の舞台となるが,大極殿(だいごくでん)や十二門の表記は潤色か。645年(大化元)の孝徳天皇による難波遷都後も宮は存続し,655年(斉明元)同宮で斉明天皇として重祚(ちょうそ)するが,冬に焼失する。奈良県明日香村岡に伝承地があり,国史跡に指定されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…しかし岡本田と飛鳥岡本宮を結びつけるのは少し難しいし,田村説では飛鳥岡にふさわしい丘陵がない。近年,有力になりつつある飛鳥浄御原宮比定地は,現在,伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡として,発掘調査が継続されている場所である。出土遺物により,藤原宮直前の宮殿遺構であることが確実である。…
…このうち内裏の内側の築地には12の門がもうけられ,それぞれ近衛(このえ),兵衛(ひようえ)が守護することになっていた。 このような内裏は,古代のどの都城にもあったはずであるが,平城宮,藤原宮,難波宮,伝飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)などの発掘調査で,その存在が確認されている。このうち,最も詳しくわかっているのは平城宮の場合である。…
※「飛鳥板蓋宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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