馬英九(読み)バエイキュウ

デジタル大辞泉 「馬英九」の意味・読み・例文・類語

ば‐えいきゅう〔‐エイキウ〕【馬英九】

[1950~ ]台湾政治家香港に生まれ、直後に台湾に移住。米国で弁護士として活動し、1981年に帰国。蒋経国李登輝のもと中国国民党で累進。台北市長などを経て2008年の総統選挙に勝利して就任した。

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現代外国人名録2016 「馬英九」の解説

馬 英九
バ・エイキュウ
Ma Ying-jeou

職業・肩書
政治家 台湾総統 元台湾国民党主席,元台北市長

国籍
台湾

生年月日
1950年7月13日

出生地
香港

学歴
台湾大学法律系〔1972年〕卒,ニューヨーク大学大学院(法学)〔1976年〕修士課程修了

学位
法学博士(ハーバード大学)〔1981年〕

経歴
中国湖南省出身で台湾国民党幹部の父ら一家が国共内戦後に避難していた香港で生まれた。台湾大学卒業後、軍務を経て、1974年渡米、ハーバード大学で法学博士号を取得。メリーランド大学法学院研究顧問、’81年台湾総統府第1局副局長、蔣経国総統英文通訳、国民党副秘書長、’88年7月行政院研究発展考核委主任委員、’89年2月大陸工作会会報執行秘書長(兼)、’90年10月国家統一委研究委員、’91年行政院大陸委副主任委員(兼)を歴任。この間、’88年第13期国民党中央委員、中央副秘書長。’93年2月〜’96年1月連戦内閣で法務部長(法相)。’93年8月第14期党中央委員。のち、李登輝総統の行政院政務委員(上級無任所相)となるが、’97年5月治安悪化の責任をとって辞任、政治大学法学部副教授を務める。’98年12月国民党から台北市長選に出馬し、現職の陳水扁を破って当選。’99年8月国民党中央常務委員。2002年12月市長に再選。2003年3月国民党副主席を経て、2005年7月全党員による初の直接投票で党主席に当選。2006年12月台北市長を退任。2007年2月台北市長時代の公金横領などの罪で検察に起訴され、責任を取って党主席辞任。8月台北地裁により無罪が言い渡される。2008年3月総統選に国民党候補として出馬し、与党民進党の謝長廷元行政院長を220万票の大差で破り当選。5月総統に就任。2009年7月国民党主席選挙で当選し、10月再任。政府と党の最高権力を掌握した。2012年1月の総統選で再選、5月2期目就任。2013年11月国民党主席再任。2014年12月党主席辞任。“ひとつの中国”を認め、対中融和政策を主張する。甘いマスクで流暢な英語を話し、女性に抜群の人気を誇る。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「馬英九」の意味・わかりやすい解説

馬英九
ばえいきゅう / マーインチウ
(1950― )

台湾の政治家。香港(ホンコン)生まれ。父親は軍人。1950年、両親とともに台湾に移住した。本籍は中国湖南省。アメリカのハーバード大学法学博士。5人の子供のなかで唯一の男児としてだいじに育てられ、台湾大学で法律を学んだあと、中国国民党の奨学金の給付生としてアメリカに留学、ニューヨーク大学で修士、ハーバード大学で博士号を取得。博士論文のテーマは沖縄・尖閣諸島(せんかくしょとう)(中国語名、釣魚島(ちょうぎょとう))の領有権に関するものだった。アメリカで銀行の法律顧問を経て台湾に戻り、1981年から蒋経国(しょうけいこく)総統の通訳を担当した。大陸委員会副主任委員兼スポークスマン、法務相などを歴任した後、1998年から台北(タイペイ)市長。2005年に国民党主席に選出され、2008年から台湾総統、2012年再選された。台湾の将来については、独立の動きには反対で、「最終的に中国との統一を目ざすが、いまは現状維持」との立場をとっている。総統選挙では「独立しない、統一しない、武力行使もしない」という「三つのノー」をスローガンに掲げた。政治姿勢は中国寄りとの批判もある。尖閣諸島問題従軍慰安婦問題などで対日強硬姿勢を示す発言が多い。妻の周美青は同じく香港出身の外省人。2人の娘はアメリカの大学を卒業後、いずれもアメリカに残って芸術関係の仕事をしている。

[矢板明夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「馬英九」の意味・わかりやすい解説

馬英九
ばえいきゅう
Ma Ying-jeou

[生]1950.7.13. 香港
タイワン(台湾)の政治家。総統(在任 2008~16),中国国民党主席(在任 2005~07,2009~14)。中国共産党が 1949年に国共内戦で勝利したのち,イギリス領香港(→ホンコン特別行政区)に移った両親のもとに生まれた。1951年に家族とともに台湾に移り,タイペイ(台北)市で育つ。1972年国立台湾大学法学部を卒業し,奨学金を得てアメリカ合衆国に留学,1976年ニューヨーク大学で法学修士号,1981年ハーバード大学で法学博士号を取得。帰国後公職につき,1991年台湾国民大会代表に選出されて大陸委員会副主任委員に就任。李登輝総統時代の 1993~96年,連戦政権で法務部長(法務大臣)を務めた。1998年台北市長選挙で現職だった陳水扁を破って当選,2002年再選を果たした。2005年中国国民党主席に就任。2007年に台北市長時代の横領容疑で起訴され,党主席を辞したが,1審,2審とも無罪判決を受けた。2008年3月総統選挙に中国国民党から出馬し,台中関係の強化を訴えて与党民主進歩党(民進党)の謝長廷に圧勝,5月に総統に就任した。在任中は台中間の空路・海路の直行便解禁,台湾企業の対中投資規制やタイワン(台湾)海峡の軍事的緊張の緩和など,台中関係の改善に努めた。2009年再び中国国民党主席となり,2012年の総統選挙では民進党の蔡英文を破って再選されたが,2014年地方選挙での大敗をうけ党主席を引責辞任。2016年5月任期を満了して総統を退任した。

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百科事典マイペディア 「馬英九」の意味・わかりやすい解説

馬英九【ばえいきゅう】

台湾の政治家。法学博士(ハーバード大学)。1950年,香港九龍で出生,台湾に移住。中山奨学金の給付生としてアメリカに留学。1984年帰台,蒋経国の英語通訳担当,国民党中央委員会副秘書長に。1993年,連戦行政院長の下,法務部長に就任,地方の汚職・不正政治資金の摘発に力を振るう。1996年,台北市長選に国民党候補として出馬,民進党現職の陳水扁を破って当選,2002年再選。2005年第4代国民党主席に選出される。2008年3月の総統選挙で,民進党の謝長廷候補を破り当選,8年ぶりに国民党政権への復帰を果たした。伝統的な中国国民党の大中国としての統一を目指して共産党とは対立する路線をとってきたが,総統選挙以降,台湾主体意識にも配慮しつつ,中国市場を意識した経済政策重視の路線を進め,〈両岸対等,共同協議,市場拡大〉を掲げて,中国との間で〈三通〉(〈通商〉〈通航〉〈通郵〉)を実現させた。2012年1月の総統選挙で民進党の蔡英文らに勝利して再選を果たした。しかし中国との関係では,かならずしも大陸一辺倒ではなく,領有権を主張している尖閣諸島問題でも,2013年3月,領有権問題を棚上げにして同諸島の近海の漁業権をめぐる日台漁業権交渉を台湾に有利な合意成立に持ち込むなど,台湾の独自色を強く意識した政権運営を展開している。2014年3月,中台サービス貿易協定締結に反対する運動で学生たちが立法院を占拠する事件が起こり多数の市民が支持。馬政権の対中政策にとって大きな打撃となった。2014年11月の統一地方選で国民党は惨敗,次期総統選に不安を残す結果となっている。
→関連項目台湾中国国民党

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