「吾妻鏡」によると、暦仁元年(一二三八)三月二三日、浄光が勧進となり相州
これよりさき浄光は、延応元年(一二三九)九月、新大仏造営勧進のため北陸・西国などに人別一文を課したいと幕府に請うている(「新大仏勧進上人浄光跪言上写」一条家本古今集秘抄裏書)。大仏造営の趣旨は「東土利益」の本尊とすることであり、すでに「東土助成之下知」も受けていると記す。下知により勧進したことは、幕府の力強い支援のもとに大仏造営が企てられたことを示している。仁治二年四月二九日、幕府は囚人を逃した罰として新田太郎政義から三千疋、毛呂五郎入道連光から五千疋の過怠料をとって新大仏の造営費にあてているのは(吾妻鏡)、大仏建立に幕府が深くかかわっていたことを示す一例であり、「新編追加」所載建長七年(一二五五)八月九日の鎌倉幕府奉行人連署奉書には「人倫売買銭事、被寄進大仏畢、而自国々運上之事、有其煩之由、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺。大異山(だいいざん)と号する。本尊の金銅阿弥陀如来(あみだにょらい)の巨像(露座、像高11.5メートル)により、「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる。開基は不詳。1195年(建久6)源頼朝(よりとも)は東大寺供養(くよう)に参列しているが、「大仏縁起」によると、このときに頼朝は鎌倉大仏建立を誓願したと伝えている。また生存中に果たせなかった頼朝の遺志を実行に移したのは稲田野局(つぼね)であるとしている。大仏殿は僧浄光の勧進(かんじん)により営造が計画され、1238年(暦仁1)3月に営造の儀が行われた。ついで5月に仏像の頭をあげたが、当初の大仏は木造であった。大仏殿は1243年(寛元1)6月に完成。現在の金銅仏は1252年(建長4)8月に鋳造を開始したが、完成時は不明。またいつごろ露座となったか明らかでないが、1486年(文明18)にはすでに露座となっていることが『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』によって知られる。1498年(明応7)の大地震と水害以降、荒廃の一途をたどったが、1712年(正徳2)増上寺の裕天(ゆうてん)僧正がこれを再興、高徳院とし、以後浄土宗となる。1733年(享保18)住職の養国上人(しょうにん)は大仏修補を発願し、39年(元文4)開眼供養を行った。現在は露座仏の周りに鉄筋の回廊、書院がある。大仏は1958年(昭和33)に国宝に指定された。
[清水 乞]
『清水真澄著『鎌倉大仏』(1982・有隣堂)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗鎮西派の寺。大異山高徳院清浄泉寺と号す。開山・開基ともに不詳。建長寺末寺になった時期もあり,のち真言宗の寺。1712年(正徳2)増上寺の祐天(ゆうてん)上人が再興した際に浄土宗となり光明寺末寺になった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…神奈川県鎌倉市の高徳院(浄土宗)にある大仏。はじめは僧浄光の勧進により幕府の財政的援助と民衆の喜捨を得て1243年(寛元1)に完成した木像の阿弥陀如来であったと伝えられる。…
※「高徳院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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