高徳院(読み)コウトクイン

デジタル大辞泉 「高徳院」の意味・読み・例文・類語

こうとく‐いん〔カウトクヰン〕【高徳院】

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺。山号は大異山。寺号は清浄泉寺。「鎌倉の大仏」と通称される本尊の金銅大仏は建長4年(1252)鋳造に着手されたもので国宝。→鎌倉の大仏

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精選版 日本国語大辞典 「高徳院」の意味・読み・例文・類語

こうとく‐いんカウトクヰン【高徳院】

  1. 神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺。山号は大異山。寺号は浄泉寺。天平年間(七二九‐七四九)の開創と伝えられる。はじめ真言宗臨済宗建長寺派を経て、正徳二年(一七一二)祐天が再興して以来浄土宗となる。本尊の阿彌陀如来像は「鎌倉の大仏」として知られ、国宝。

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日本歴史地名大系 「高徳院」の解説

高徳院
こうとくいん

[現在地名]鎌倉市長谷四丁目

長谷はせ寺の北方、大谷おおやとの入口にある。大異山高徳院清浄泉寺と号し、浄土宗。もと光明こうみよう寺奥院で、通称は鎌倉大仏。高徳院は大仏の別当。本尊阿弥陀如来坐像(大仏)。開山・開基未詳。享保二〇年(一七三五)住持養国が撰した相模国鎌倉大仏縁起は、天平九年(七三七)聖武天皇が開創した東国総国分寺跡で、開基行基、清浄泉寺と号したといい、建久六年(一一九五)奈良東大寺供養に参列した源頼朝は大仏建立を発願したが成就せずして没したため、侍女稲田野局が遺志を継いで勧進に努力し、浄光によって造立されたと伝える。

吾妻鏡」によると、暦仁元年(一二三八)三月二三日、浄光が勧進となり相州深沢ふかさわ里大仏堂建立事始が行われ、五月一八日に頭部をあげた。仁治二年(一二四一)三月二七日には大仏殿が上棟したが、これが完成し供養を行ったのは寛元元年(一二四三)六月一六日であった。導師は勝長寿しようちようじゆ院別当、大蔵卿僧正良信。北条泰時没後一周忌にあたっていた。

これよりさき浄光は、延応元年(一二三九)九月、新大仏造営勧進のため北陸・西国などに人別一文を課したいと幕府に請うている(「新大仏勧進上人浄光跪言上写」一条家本古今集秘抄裏書)。大仏造営の趣旨は「東土利益」の本尊とすることであり、すでに「東土助成之下知」も受けていると記す。下知により勧進したことは、幕府の力強い支援のもとに大仏造営が企てられたことを示している。仁治二年四月二九日、幕府は囚人を逃した罰として新田太郎政義から三千疋、毛呂五郎入道連光から五千疋の過怠料をとって新大仏の造営費にあてているのは(吾妻鏡)、大仏建立に幕府が深くかかわっていたことを示す一例であり、「新編追加」所載建長七年(一二五五)八月九日の鎌倉幕府奉行人連署奉書には「人倫売買銭事、被寄進大仏畢、而自国々運上之事、有其煩之由、小聖(浄光か)申之、然者為地頭之沙汰、可送進之由、可令下知給之旨候也」とあり、幕府の命で人倫売買銭が大仏に寄進されている。建治三年(一二七七)一一月二〇日の日蓮書状(県史一)には「なこへの一門の善(光)寺・長楽寺・大仏殿立させ給て其一門のならせ給事をみよ」とあって、大仏殿が善光ぜんこう寺・長楽ちようらく寺とともに北条氏(幕府)の外護により建立されていたことがわかり、元亨三年(一三二三)の東寺申状案(東寺百合文書)に新大仏造営の棟別銭を除外して欲しい旨の院宣を願出ているのも、その一例であろう。


高徳院
こうとくいん

[現在地名]弘前市西茂森町一丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。長勝ちようしよう寺を主座とする上寺のなかにある。福寿ふくじゆ院と嶺松れいしよう院の間に位置。金毘羅山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。もと隣松りんしよう末寺

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、山号は新岡山とあり、天正年間(一五七三―九二)新岡にいおか(現中津軽郡岩木町)に創立されたとあり、開山は中岳祖玄。開基不詳。曹洞諸寺院縁起志(宗徳寺蔵)によれば、開基は藩祖津軽為信の家来新岡但馬で、慶長年間(一五九六―一六一五)弘前へ移ったとある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高徳院」の意味・わかりやすい解説

高徳院
こうとくいん

神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺。大異山(だいいざん)と号する。本尊の金銅阿弥陀如来(あみだにょらい)の巨像(露座、像高11.5メートル)により、「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる。開基は不詳。1195年(建久6)源頼朝(よりとも)は東大寺供養(くよう)に参列しているが、「大仏縁起」によると、このときに頼朝は鎌倉大仏建立を誓願したと伝えている。また生存中に果たせなかった頼朝の遺志を実行に移したのは稲田野局(つぼね)であるとしている。大仏殿は僧浄光の勧進(かんじん)により営造が計画され、1238年(暦仁1)3月に営造の儀が行われた。ついで5月に仏像の頭をあげたが、当初の大仏は木造であった。大仏殿は1243年(寛元1)6月に完成。現在の金銅仏は1252年(建長4)8月に鋳造を開始したが、完成時は不明。またいつごろ露座となったか明らかでないが、1486年(文明18)にはすでに露座となっていることが『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』によって知られる。1498年(明応7)の大地震と水害以降、荒廃の一途をたどったが、1712年(正徳2)増上寺の裕天(ゆうてん)僧正がこれを再興、高徳院とし、以後浄土宗となる。1733年(享保18)住職の養国上人(しょうにん)は大仏修補を発願し、39年(元文4)開眼供養を行った。現在は露座仏の周りに鉄筋の回廊、書院がある。大仏は1958年(昭和33)に国宝に指定された。

[清水 乞]

『清水真澄著『鎌倉大仏』(1982・有隣堂)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高徳院」の意味・わかりやすい解説

高徳院
こうとくいん

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺。山号は獅子吼山 (以前は大異山) ,寺号は清浄泉寺。創建は天平年間に行基によると伝えられるが,真言宗,臨済宗 (建長寺派) に属すなどの経緯ののち,江戸時代の中頃,祐天が中興してから浄土宗光明寺の末寺となった。本尊阿弥陀如来像は,暦仁1 (1238) ~寛元1 (43) 年鎌倉幕府の命を受けた勧進聖浄光の尽力で木造で建立され,建長4 (52) 年青銅製で造り直された。これが今日,鎌倉の大仏として広く知られる高さ約 13m (台座部分約 2m) の大仏で,国宝に指定されている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高徳院」の解説

高徳院
こうとくいん

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗鎮西派の寺。大異山高徳院清浄泉寺と号す。開山・開基ともに不詳。建長寺末寺になった時期もあり,のち真言宗の寺。1712年(正徳2)増上寺の祐天(ゆうてん)上人が再興した際に浄土宗となり光明寺末寺になった。

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デジタル大辞泉プラス 「高徳院」の解説

高徳院

神奈川県鎌倉市にある寺院。浄土宗。山号は大異山。「鎌倉大仏」の名で知られる本尊、銅像阿弥陀如来坐像は国宝で、高さは13.35m(含台座)。境内一帯は「鎌倉大仏殿跡」として国の史跡に指定。

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事典 日本の地域遺産 「高徳院」の解説

高徳院(鎌倉大仏)

(神奈川県鎌倉市長谷4-2-28)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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世界大百科事典(旧版)内の高徳院の言及

【鎌倉大仏】より

…神奈川県鎌倉市の高徳院(浄土宗)にある大仏。はじめは僧浄光の勧進により幕府の財政的援助と民衆の喜捨を得て1243年(寛元1)に完成した木像の阿弥陀如来であったと伝えられる。…

※「高徳院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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