高須村(読み)たかすむら

日本歴史地名大系 「高須村」の解説

高須村
たかすむら

[現在地名]尾道市高須町・新高山しんたかやま三丁目・長者原ちようじやがはら一―二丁目、福山市高西たかにし川尻かわじり

西にし村の南にあり、沼隈郡に属した。藤井ふじい川の南岸を村域とし、西北に一部山地があるが全体として丘陵地が多く、松永まつなが湾に面して干拓地が広がる。近世山陽道が通過し、防地ぼうじ(一息坂)御調みつぎ後地うしろじ村に入る。海岸近くに大田おおた貝塚があり、その北東方面に大元山おおもとやま前方後円墳跡と黒崎山くろさきやま前方後円墳跡があり、今宮いまみや古墳跡などがある。古代・中世は福田ふくだ庄に含まれ、中世には高洲たかす庄とも称し、最初山鹿氏、のち杉原氏の勢力下にあった。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳の村高は七二五・九八石。福山藩領。「福山志料」に畝数一一三町七反余、高一〇九五・四九二石とあり、「備陽六郡志」に、田方六四町四反余で高七五三・九三二石、畑方四九町二反余で高三四一・五六石(うち屋敷一町九反余で高一七・九六一石)、定免六七・五パーセントとある。


高須村
たかすむら

[現在地名]岡崎市福岡ふくおか

村域東部を土呂とろ村よりなか村に抜ける中島なかじま道が通る。東は土呂村、西は坂左右さかそう村・国正くにまさ村、南は永井ながい村、北は土呂村と接する。中世、深溝ふこうず庄土呂郷に属した。土呂村よりの分村である。ボーリング調査の結果、集落立地の場所は鎌倉期には、矢作川の河道筋にあたるという。

村域内の臨済宗妙心寺末の高須山越崇えつしゆう寺は、旧記では応永一〇年(一四〇三)妙心寺第三世の創立と伝え、同一九年に山門守護神として神明宮を勧請した。また松平信光が参籠の際に備前長船則光作の太刀一口を奉納と伝える。「土呂山畑今昔実録」によると、洪水の被害で越崇寺のみを残し、住民は南の高河原秣場野に引越した。移転場所は土呂郷のうちの元高須と称している。また越崇寺の伝承では、天正(一五七三―九二)の頃に土地が開け一村をなし、神明宮を村の鎮守産土神にしたと伝える。


高須村
たかすむら

[現在地名]三郷市高州たかす

現三郷市最南端の村。久兵衛きゆうべえ村の南に位置し、東は小合こあい溜井。正保国絵図には高須村のみで周囲の村は記載されず、田園簿では田四六九石余・畑三八六石余、ほかに野銭永五貫四八八文がある。元禄郷帳では高須久兵衛村とあり、「高須久兵衛村ノ内」の肩書のもとにしも新田が記される。またその並びに徳島とくしま村・小向樋口こむかいひのくち村・長戸呂ながとろ村、頭注に「長戸呂村ノ内」として横堀よこぼり村・一本木いつぽんぎ村を載せていることと、田園簿・元禄郷帳の石高の増減から「風土記稿」は、これらの村がすべてもとは高須村に含まれ、のち分村していったと推測している。


高須村
たかすむら

[現在地名]高知市高須・葛島かずらしま一―四丁目・高須新たかすしん町一―四丁目

介良けら村の西にある新田村。北側を舟入ふないれ川が南西流する。長岡郡に属した。「土佐州郡志」は「高洲村」とし「東西十九町余南北二十町余、以渚洲為田故名、戸凡四十余、其土多砂、有経新規加古、通赤岡径路曰新道」と記す。葛島・新規・左衛門潮田がある。また同書は「大島村」を記して「東西六町余南北一町余、古在海汐中故名、戸凡二十余」というが、この村は郷帳類では当村に含まれていたと考えられる。


高須村
たかすむら

[現在地名]若松区高須北たかすきた一―三丁目・高須東たかすひがし一―四丁目・高須南たかすみなみ一―五丁目・高須西たかすにし一―二丁目・高須

大鳥居おおとりい村の南西、曲流する川の北岸に位置する。西は山鹿やまが(現芦屋町)、江川を隔てて南は浅川あさかわ(現八幡西区)。集落は本村と猿渡さるわたりの二ヵ所(地理全誌)。中世の史料に麻生氏の所領としてみえる高津たかづ村の遺称地と推定される。小早川時代の指出前之帳では有毛村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付されている。


高須村
たかすむら

[現在地名]海津町高須

高須町の西に位置する。元禄四年(一六九一)高須藩主の転封後、当地は幕府領となるが、この折町分四五〇石余・村分一千一〇九石余に分けられた(高須旧記)。「濃飛両国通史」所引の宝生ほうじよう(現名古屋市中区)経蔵図書目録の釈摩訶衍論巻一奥書に、嘉暦四年(一三二九)二月一五日高須寺において書写を終えるとある。慶長郷帳に高須とあり、高九〇七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では高須藩領。正保郷帳でも同藩領で、田六六七石余・畑四四二石余のうち新開二〇二石余、ほかに池川役銀一貫三四三匁余。


高須村
たかずむら

[現在地名]臼杵市高山たかやま 高須・はた

山路やまじ村の西、臼杵川上流域右岸の山間部にある。西は小切畑こぎりはた村。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高二〇五石余、うち一八五石余は稲葉通孝領であった。仁王座村組(野村組とも傍記される)に属し、村役人に弥右衛門を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では左津留村組に所属、のち掻懐組に属した(万用集)。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では小切畑村の枝村大工川だいくがわ村を合せて高二四三石余(田方一一四石余・畑方一二八石余)、うち本高一四六石余・出来高九六石余。


高須村
たかすむら

[現在地名]杵築市片野かたの

古くは海であったが、海砂の堆積によって砂洲となり陸地になったと伝える。南は山に接し、北西に細長く延びた村で、北東に漁業集落の納屋なや村がある。東方の海岸に小高い丘があり、慶長元年(一五九六)の大地震で東半分が海中に陥没し、断崖絶壁となったという。小倉藩元和人畜改帳では木付きつき廻のうちに村名がみえ、高一一九石余、家数五・人数二八(うち百姓五・名子五)、牛五とある。元禄郷帳では高一一三石余、杵築藩主松平英親が上・下二段の夫婦めおと池を築造し、用水路も開発された。文久三年(一八六三)の田畑根付目録(工藤家文書)では田一七町八反・畑九町一反、五歳以上が二一〇人とある。


高須村
たかすむら

[現在地名]藤代町高須など

小貝こかい川西岸に所在。南は大留おおどめ村。相馬二万石の一部で、「寛文朱印留」には「田数村」とみえ下総佐倉藩領。寛政二年(一七九〇)の地頭性名村高控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によれば徳川三卿の清水家領二〇五七・三四三石のほか寺院除地一・九三九八石があった。嘉永三年(一八五〇)の岡堰三拾弐ケ村組合田畑反別控帳(同文書)によると田一二四町余、畑一〇三町余。


高須村
たかずむら

[現在地名]大豊町高須

穴内あなない川の西岸にある山村。南はすぎ村。本山もとやま郷内の一村。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に「高須名」とみえ、検地面積一町一反一六代五歩、うち田分四反六代一歩、畠分二反二二代四歩、屋敷数五で四反三八代。すべて長宗我部氏家臣豊永弥太夫の給地。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば五筆三反一〇代に大麦が作られている。

元禄地払帳では総地高四四石余、うち本田高一一石余、新田高三三石余。


高須村
たかすむら

[現在地名]清和村須原すばる

東は西原にしのはる村、西は貫原ぬきはる村に接し、北に大矢おおや川を隔てて平野ひらの村がある。近世は阿蘇郡菅尾手永に属し、「国誌」によると高一一石余。明治五年(一八七二)の菅尾郷七ノ小区川口組戸数人員調根帳(原田種興氏蔵)によると戸数三・人員一三であった。


高須村
たかすむら

[現在地名]福井市高須町

高須山の南東中腹に位置する。村名は正保郷帳にみえ、同帳によると村高一五九石余のうち八七石余が畠。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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