鵤荘(読み)いかるがのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「鵤荘」の意味・わかりやすい解説

鵤荘 (いかるがのしょう)

播磨国揖保郡の荘園で,現在の兵庫県揖保郡太子町を中心とする地域。大和の法隆寺領。598年(推古6)4月15日(推古14年秋7月ともいう),聖徳太子が天皇の施入をうけて法隆寺に寄進したのに始まるという。11世紀中葉ころ四至が確認されて再興されたらしく,鵤荘政所を兼ねる斑鳩寺が建立されるのもこの時期らしい。鎌倉時代,源頼朝は後白河院院宣に従って1187年(文治3)地頭金子家忠の押領停止(ちようじ)を命じ,また1227年(安貞1)には承久の乱後の新補地頭青木重元が,本所法隆寺の訴えによって停止されている。法隆寺には嘉暦4年(1329)4月の鵤荘絵図が伝存するが,四至の牓示石,斑鳩寺,太子堂,佐岡寺,新善光寺孝恩寺,寿福寺,筑紫大道や用水路が条里の小字名とともに記入されており,また〈弘山押領〉〈太田庄押領〉などから隣接する荘園との間に境相論のあったことがわかる。1336年(延元1・建武3)足利尊氏に味方した赤松円心と新田義貞とが当荘付近で合戦したが,法隆寺雑掌はそのために当荘損亡と訴えている。斑鳩寺には《鵤荘引付》と題する1398年(応永5)以降の当荘の記録が伝存しているが,これは室町戦国時代の鵤荘を具体的に示す史料として貴重で,嘉吉の乱以後山名氏の軍政支配,応仁の乱以後の混乱などとともに,用水争論,一向宗検断,太子信仰などの当時の村落生活をも詳しく知ることができる。
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百科事典マイペディア 「鵤荘」の意味・わかりやすい解説

鵤荘【いかるがのしょう】

播磨国揖保(いぼ)郡の荘園。現兵庫県太子(たいし)町を中心にした地域。奈良法隆寺領。598年聖徳太子が推古天皇の施入を受けて法隆寺に寄進した播磨国の水田219町余が前身とみられる。平安時代中葉に四至(しいし)確認の上,公田360町の不輸不入官省符(かんしょうふ)荘として確立。荘内の斑鳩(いかるが)寺が政所(まんどころ)を兼ねたという。鎌倉時代に地頭の違乱が続き,下司(げし)の不祥事幕府に収公。1329年寺僧の奔走で返付され,直後に実検を行って《鵤荘絵図》(法隆寺蔵,重要文化財)が作成された。絵図中の【ぼう】示(ぼうじ)に相当するとみられる石が太子町内に現存する。南北朝や応仁の乱などの戦乱で荘内は損亡,斑鳩寺に残る《鵤荘引付》は混乱期の動向や村落生活の実態を詳細に記録した史料として重要。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鵤荘」の意味・わかりやすい解説

鵤荘
いかるがのしょう

播磨(はりま)国の法隆寺領荘園(しょうえん)。現兵庫県揖保(いぼ)郡太子(たいし)町を中心とする地域。747年(天平19)の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)」では、揖保郡に水田219町余のほか、薗地(えんち)、山林、池、庄倉(しょうそう)と封戸(ふこ)50戸があり、これがのちに鵤荘に発展したと思われる。嘉暦(かりゃく)4年(1329)卯月(うづき)の荘絵図があり、全容をうかがうことができる。法隆寺の「根本荘園」とよばれて15世紀末にも田地360町余を保持していた。しかし「惣荘名主(そうじょうみょうしゅ)、百姓」らの結合による寺家への対捍(たいかん)、大名領国形成過程の紛争のなかで、しだいに実を失い、16世紀前半(天文(てんぶん)ごろ)には年貢17貫500文が納入されるのみであった。当荘関係史料のうち『鵤荘引付(ひきつけ)』は中世村落の実情を示す貴重な史料である。

[阿部 猛]

『阿部猛・太田順三編『播磨国鵤荘資料』(1970・八木書店)』

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