龍淵寺(読み)りゆうえんじ

日本歴史地名大系 「龍淵寺」の解説

龍淵寺
りゆうえんじ

[現在地名]熊谷市上之

国道一七号熊谷バイパスの北に位置する。曹洞宗、大平山天鈞院と号し、本尊釈迦如来。かつては越前国慈眼じげん(現福井県今庄町)末。開山は和庵清順、開基は成田家時。応永一八年(一四一一)家時が皿尾さらお(現行田市)阿弥陀堂に寓居していた清順を招いて開創したという(以上「風土記稿」)。これに対し、「延宝伝灯録」は慈眼寺開山の自性天真が開いたとしており、龍淵寺年代記(東京大学史料編纂所影写本)には応永一九年正月一三日の慈眼寺開山天真の死去記事のあとに「十八年七月七日、龍淵岡トナル、則寺ヲ建、実ニ成田五郎家時建立之也」とあるが、これは後筆の可能性がある。


龍淵寺
りゆうえんじ

[現在地名]増毛郡増毛町畠中町

市街地中央部、暑寒別しよかんべつ川河口の右岸にある。山号は護国山、曹洞宗。本尊は釈迦如来。増毛町域最古の寺院。慶応年間(一八六五―六八)幕府の許可を得て出羽国光禅こうぜん(現山形市)により建立された(「各県支配地十三ヶ条取調書」道立文書館蔵)出願は一八六五年四月、建立は六六年四月、寺号公許は六七年九月とされる。初代住職には出羽国杉下世尊すぎしたせそん(現山形県山辺町)住職の徳翁があたった(曹洞宗北海道寺院誌)。明治維新期に増毛郡を支配した周防国山口藩は、現米三石六斗を寺給として与えている(前掲取調書)


龍淵寺
りゆうえんじ

[現在地名]板柳町板柳 土井

板柳集落北西、通称なか町にあり、岩木川を背に建っている。木山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。もと弘前梅林ばいりん寺末。

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)に「慶安二年建立之寺也 梅林寺七世不歩和尚勧請開山ニ相定末寺ニ罷成候」とあり、「平山日記」正保三年(一六四六)の記事に「禅寺も小庵之処大寺ニ成」とある。曹洞諸寺院縁起志(宗徳寺蔵)には、建立の時に道ノ川市左衛門が協力し、檀家六〇戸くらいであったが、その後四、五百戸になったとする。


龍淵寺
りゆうえんじ

[現在地名]建部町中田

津山線建部駅北西山裾にあり、白玉山と号し、日蓮宗、本尊は十界大曼荼羅。金川かながわ(現御津町)の松田氏が永正二年(一五〇五)に創建したと伝える。慶安元年(一六四八)の妙圀寺寄進(妙圀寺文書)に「竹部村龍円寺」とあり、寛永一〇年(一六三三)の京都妙覚寺末寺帳(内閣文庫蔵)に「武部壱ケ寺」とあるのが、これにあたると思われる。同時期と推定される妙圀寺本末寺檀連印状(妙覚寺文書)に「龍円寺ノ本行坊・大円坊」の名がみえ、寛文元年(一六六一)妙圀寺本末諸寺誓状(同文書)に「建部龍淵寺」とある。


龍淵寺
りゆうえんじ

[現在地名]池田町山田

山田やまだの北山麓にある。法珠山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば、開基は池田いけだ谷の領主池田遠江守時忠で、明応年中(一四九二―一五〇一)創立という。府中ふちゆう(現福井県武生市)竜門りゆうもん寺末。以後池田氏の菩提寺となったが、元亀三年(一五七二)池田氏の滅亡後は衰微した。


龍淵寺
りゆうえんじ

[現在地名]福山市西町一丁目

福山城跡の西南方、能満のうまん寺の南にある。瑞雲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊十一面観音。寛永年中(一六二四―四四)福山城中に寄食していた照岩玄恵を開山とし、藩主水野勝成の建立した寺で、最初から檀家も少なく無住がちで、元文(一七三六―四一)以来ほとんど荒廃の有様であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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