岩井半四郎(読み)イワイハンシロウ

デジタル大辞泉 「岩井半四郎」の意味・読み・例文・類語

いわい‐はんしろう〔いはゐハンシラウ〕【岩井半四郎】

歌舞伎俳優。屋号、大和屋
(初世)[1652~1699]大坂の人。通称、長四郎。座元立役を兼ねた。
(4世)[1747~1800]江戸の人。俳名、杜若とじゃく。通称、お多福半四郎。岩井家初の女形おやまで、写実的な世話物を得意とした。
(5世)[1776~1847]4世の子。俳名、梅我、のち杜若。通称、大太夫おおたゆう。名女形とうたわれ、毒婦悪婆役を得意とした。

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精選版 日本国語大辞典 「岩井半四郎」の意味・読み・例文・類語

いわい‐はんしろう【岩井半四郎】

  1. 歌舞伎俳優。三世までは大坂の立役で座元を兼ねた。四世からは江戸の女形。
  2. [ 一 ] 初世。元祿期大坂で座元と立役を兼ねた。承応元~元祿一二年(一六五二‐九九
  3. [ 二 ] 四世。岩井家初めての女形。通称、お多福半四郎。延享四~寛政一二年(一七四七‐一八〇〇
  4. [ 三 ] 五世。四世の子。化政期に悪婆役を確立。通称、大太夫・杜若(とじゃく)の半四郎。安永五~弘化四年(一七七六‐一八四七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩井半四郎」の意味・わかりやすい解説

岩井半四郎
いわいはんしろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号大和屋(やまとや)。3世までは大坂の座元を兼ねた立役(たちやく)の俳優で、4世から江戸に名跡(みょうせき)が移って女方(おんながた)の名優が名のり、現在10世まである。4世、5世がとくに有名。

[古井戸秀夫]

4世

(1747―1800)人形遣い辰松(たつまつ)重三郎の子。3世の娘婿4世市川団十郎の門下で、岩井家に養子に入り、1765年(明和2)襲名。当時は初世の次男半三郎を家系に数えたので、5世を名のった。江戸で生まれ育った根生(ねおい)の女方として大成した最初の立女方(たておやま)で、従来の傾城(けいせい)役を得意とした上方下(かみがたくだ)りの3世瀬川菊之丞(きくのじょう)と拮抗(きっこう)した。女方全般から若衆方、荒事(あらごと)まで演じたが、当時の下町娘の気質(きしつ)を写した「おちゃっぴい」とよばれるお転婆(てんば)娘の役を本領とした。また下膨れの丸顔だったので「お多福の半四郎」とよばれた。

[古井戸秀夫]

5世

(1776―1847)4世の子。1804年(文化1)襲名。化政(かせい)期(1804~1830)に女方の座頭(ざがしら)格として活躍した。父が先鞭(せんべん)をつけた生世話(きぜわ)物の役々を受け継ぎ、とくに悪婆(あくば)役を大成、立役の相手役でしかなかった女方の芸に新境地を開いた。4世鶴屋南北(なんぼく)は『お染の七役』を書き与えた。立役、荒事も演じ、なかでも父譲りの白井権八は半四郎の家の芸とまでいわれた。面長で受け口の美貌(びぼう)、切れ長であいきょうのあふれた目元は「眼千両(めせんりょう)」とたたえられた。晩年は俳名の杜若(とじゃく)を芸名とし、長男で粂三(くめさ)の半四郎とよばれた6世(1799―1836)、および次男で紫若(しじゃく)の半四郎とよばれた7世(1804―1845)とともに江戸三座の立女方として君臨し、「大太夫(おおだゆう)」と称された。

[古井戸秀夫]

8世

(1829―1882)7世の子。幕末から明治にかけて東都劇壇を代表する立女方。1872年(明治5)襲名。お嬢吉三(じょうきちさ)、十六夜(いざよい)、三千歳(みちとせ)などの初演はこの人である。

[古井戸秀夫]

10世

(1927―2011)本名仁科周芳(にしなただよし)。舞踊家花柳寿太郎の長男で、1951年(昭和26)に襲名。立役の脇役(わきやく)。

[古井戸秀夫]


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改訂新版 世界大百科事典 「岩井半四郎」の意味・わかりやすい解説

岩井半四郎 (いわいはんしろう)

歌舞伎俳優。10世まであるが,3世までは大坂の立役で,太夫元をも兼ねた。4世,5世,6世,8世が有名。(1)4世(1747-1800・延享4-寛政12) 3世半四郎の娘婿である4世市川団十郎は,岩井家が絶えるのを惜しみ,江戸の人形遣い辰松重三郎の子で団十郎門下の松本七蔵を,1765年(明和2)11月岩井家の養子とし,半四郎をつがせた。〈お多福半四郎〉の名で親しまれた。1792年(寛政4)11月江戸河原崎座で《大船盛鰕顔見世(おおふなもりえびのかおみせ)》の三日月お仙を演じたが,この時,三田三角の局見世を実地に観察して,切見世女郎の描写を試み,〈生世話〉の演技を開拓した。3世瀬川菊之丞と並び女方の両横綱と称された。(2)5世(1776-1847・安永5-弘化4) 4世半四郎の子で江戸生れ。1787年(天明7)11月江戸桐座で岩井粂三郎を名のり初舞台。1804年(文化1)11月江戸中村座で半四郎を襲名。22年(文政5)11月には,半四郎が江戸市村座,長男2世粂三郎が中村座,次男岩井紫若が江戸森田座と,それぞれが江戸三座の立女方(たておやま)をつとめ,岩井家全盛を示した。愛嬌に富み〈眼千両〉〈大太夫(おおたゆう)〉と称賛され,南北物の生世話の〈悪婆〉から,白井権八や荒事まで演じた。(3)6世(1799-1836・寛政11-天保7) 5世の長男で,1804年11月中村座で2世粂三郎を名のり初舞台。22年中村座で立女方となり,5世瀬川菊之丞とともに若手女方の双璧といわれた。32年(天保3)11月中村座で半四郎を襲名。病いがちで大成を見なかった。(4)7世(1804-45・文化1-弘化2) 5世半四郎の次男。幼名小紫。岩井松之助を経て1822年11月森田座で岩井紫若を名のり,立女方となる。44年(弘化1)3月中村座で半四郎をついだが,1年余りで病没した。(5)8世(1829-82・文政12-明治15) 7世の子。1832年11月中村座で3世粂三郎を名のり初舞台。51年(嘉永4)11月河原崎座で,8世市川団十郎の相手役で立女方となる。64年(元治1)2月中村座で2世岩井紫若,72年(明治5)2月守田座で半四郎を襲名。74年6月中村座の座頭(ざがしら)となる。大変な美貌で4世市川小団次の相手を多くつとめ,《三人吉三》のお嬢吉三,《十六夜清心》の十六夜などで艶姿を讃えられた。幕末の名女方の一人である。(6)9世(1882-1945・明治15-昭和20) 5世粂三郎を追贈された。(7)10世(1927-2011・昭和2-平成23)初世花柳寿太郎の長男。市川猿翁の門で市川笑猿を名のったが,1951年10月歌舞伎座で半四郎を襲名した。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「岩井半四郎」の解説

岩井 半四郎(9代目)
イワイ ハンシロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
岩井 久次郎

別名
前名=岩井 粂次郎(5代目),俳名=燕子

屋号
大和屋

生年月日
明治15年 6月28日

出生地
東京・浅草花川戸

経歴
父は4代目岩井粂三郎、祖父は東都劇団随一といわれた立女形の8代目。明治20年初舞台、28年3月明治座で紀の丸から久次郎と改名、39年10月東京座で「異風行列」の濃姫で5代目岩井粂三郎襲名、名題昇進。市村座から四谷大国座に移り、関西に住み、さらに東京に戻って小芝居を歩いた。得意芸は「日高川」の清姫、「金閣寺」の雪姫、「先代萩」の政岡、「嫗山姥」の八重桐など。死後半四郎の名跡が追贈された。

没年月日
昭和20年 4月13日 (1945年)

家族
祖父=岩井 半四郎(8代目),父=岩井 粂三郎(4代目)

伝記
女形の運命 渡辺 保 著(発行元 岩波書店 ’02発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

朝日日本歴史人物事典 「岩井半四郎」の解説

岩井半四郎(5代)

没年:弘化4.4.6(1847.5.20)
生年:安永5(1776)
文化文政期の歌舞伎役者,名女形。屋号大和屋。4代目半四郎の子として江戸に生まれた。粂三郎の名の子役時代から将来を嘱望され,娘形から若女形となり,文化1(1804)年父の死後4年で5代目を継ぐ。4代目鶴屋南北の多くの作品に出演し,父が三日月おせんの役名で創始した悪婆役を完成した。悪婆は老女ではなく,一見伝法肌の悪女だが根は純情といった役柄で,その傑作は文化10年「お染久松色読販」で5代目松本幸四郎の鬼門の喜兵衛とのコンビの土手のお六である。ほかに「隅田川花御所染」の清玄尼,「杜若艶色紫」の土手のお六,「桜姫東文章」の桜姫などが著名。美貌で愛嬌と色気にあふれ「眼千両」といわれたが,当時の役者絵からも納得される。リアルな台詞回しに長じ,これは七五調に慣れた現代の女形を悩ませている。女形の中の女形として,現代までただひとり「大太夫」と称される。文政5(1822)年11月,江戸三座の立女形を,彼と長男粂三郎,次男紫若の3人で独占する記録を作った。長男は「東海道四谷怪談」のお袖で活躍して6代目を継いだが,38歳で夭折,次男が7代目となったが,これも父より早く42歳で没した。5代目は晩年杜若を名乗り,72歳で病没した。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』,井草利夫『近世劇文学便覧』

(井草利夫)


岩井半四郎(4代)

没年:寛政12.3.29(1800.4.22)
生年:延享4(1747)
江戸中期の歌舞伎役者。江戸生まれ。人形遣い辰松(西川)重三郎の子。2代目松本幸四郎(のちの4代目市川団十郎)の門弟。松本長松,2代目七蔵を経て明和2(1765)年に半四郎を襲名。屋号雑司谷屋,大和屋。俳名杜若。俗称は容貌から「お多福半四郎」,別荘の地から「目黒の太夫」「白金の太夫」。明治前期の8代目半四郎に至る後期江戸歌舞伎界の女形の名家岩井家の元祖。岩井半四郎の名跡は3代まで大坂の座本を兼ねた立役であったが,3代目半四郎の女婿でもあった師の団十郎がその名が絶えるのを惜しんで,門弟を岩井家の養子として継がせたのである。娘役,世話女房役をはじめとして女形芸全般に秀で,若衆形から荒事に至るまで広く演じて成功した。所作事にも長じている。当たり役も多数知られているが,女形としては次の時代に多く演ぜられる生世話物の女房芸の創始者とされている。同時代の3代目瀬川菊之丞と共に当代女形の双璧と称えられた。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』

(池上文男)


岩井半四郎(8代)

没年:明治15.2.19(1882)
生年:文政12.10.2(1829.10.29)
幕末明治期の歌舞伎役者。7代目半四郎と,4代目瀬川菊之丞の次女きいとの子として,江戸住吉町に生まれる。幼名久次郎。天保3(1832)年に4歳で3代目岩井粂三郎として初舞台。2代目紫若を経て明治5(1872)年半四郎を襲名。芸風は消極的であったが,舞台姿は艶麗で美しく,明治前期の女形の最高位にあった。お家騒動のもとになる美貌の側室といった役が最も似合ったといわれる。日常もつつましく女性的に暮らすなど,江戸時代の女形の習俗を守り通した最後の人でもあった。この名跡は平成期の10代目におよぶ。<参考文献>伊原敏郎『明治演劇史』,竹柴其水「明治初年の女形」(『演芸画報』1920年10月号)

(石橋健一郎)

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20世紀日本人名事典 「岩井半四郎」の解説

岩井 半四郎(9代目)
イワイ ハンシロウ

明治〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治15(1882)年6月28日

没年
昭和20(1945)年4月13日

出生地
東京・浅草花川戸

本名
岩井 久次郎

別名
前名=岩井 粂次郎(5代目),俳名=燕子

屋号
大和屋

経歴
父は4代目岩井粂三郎、祖父は東都劇団随一といわれた立女形の8代目。明治20年初舞台、28年3月明治座で紀の丸から久次郎と改名、39年10月東京座で「異風行列」の濃姫で5代目岩井粂三郎襲名、名題昇進。市村座から四谷大国座に移り、関西に住み、さらに東京に戻って小芝居を歩いた。得意芸は「日高川」の清姫、「金閣寺」の雪姫、「先代萩」の政岡、「嫗山姥」の八重桐など。死後半四郎の名跡が追贈された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「岩井半四郎」の意味・わかりやすい解説

岩井半四郎【いわいはんしろう】

歌舞伎俳優。現在10世。初世〔1652-1699〕から3世までは大阪の立役(たちやく)だったが,4世から江戸に移り,8世まで代々女方(おんながた)の名優として知られた。屋号大和屋。4世〔1747-1800〕は俗にお多福半四郎と呼ばれたが,技芸すぐれ,写実的な世話物(せわもの)の芸を開拓。5世〔1776-1847〕は4世の子。4世鶴屋南北の世話物を得意とした。美貌で目に魅力があったため〈目千両(めせんりょう)〉といわれ,晩年は杜若(とじゃく)と名乗った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩井半四郎」の解説

岩井半四郎(10代) いわい-はんしろう

1927-2011 昭和-平成時代の歌舞伎役者,俳優。
昭和2年8月8日生まれ。初代花柳寿太郎の長男。3代市川寿海に師事し,昭和10年初舞台。2代市川猿之助のもとで2代笑猿を名のる。26年10代を襲名。東宝,松竹などの映画に出演し,テレビでも活躍。また日舞岩井流宗家をつとめた。長女に岩井流宗家を継いだ女優・岩井友見,次女に女優・仁科亜季子。平成23年12月25日死去。84歳。東京出身。明大卒。本名は仁科周芳。屋号は大和屋。

岩井半四郎(8代) いわい-はんしろう

1829-1882 江戸後期-明治時代の歌舞伎役者。
文政12年10月2日生まれ。岩井半四郎(7代)の子。天保3年初舞台。嘉永4年河原崎座の立女方となり,座頭の8代市川団十郎の相手役をつとめた。明治5年8代を襲名。幕末-明治にかけて江戸・東京の代表的な立女方として活躍した。4代市川小団次らと共演し,「お嬢吉三(きちさ)」「十六夜(いざよい)」などを初演。明治15年2月19日死去。54歳。江戸出身。前名は岩井粂三郎(3代),岩井紫若(しじゃく)(2代)。俳名は燕子,杜若。屋号は大和屋。

岩井半四郎(5代) いわい-はんしろう

1776-1847 江戸時代後期の歌舞伎役者。
安永5年生まれ。4代岩井半四郎の子。文化元年5代を襲名。文政5年長男の2代岩井粂三郎と次男の初代岩井紫若のふたりの子とともに江戸三座の立女方を独占した。4代鶴屋南北の生世話物(きぜわもの)を得意とし,悪女役に新機軸をうちだした。弘化(こうか)4年4月6日死去。72歳。江戸出身。前名は岩井粂三郎(初代)。俳名は梅我,杜若。通称は杜若半四郎。屋号は大和屋。

岩井半四郎(初代) いわい-はんしろう

1652-1699 江戸時代前期の歌舞伎役者。
承応(じょうおう)元年生まれ。生家は扇商。立役(たちやく)をつとめて天和(てんな)のはじめ大坂で名をあげ,元禄(げんろく)元年京都での「けいせい玉手箱」で坂田藤十郎とともに好評をえた。翌年座本をかね,嵐三右衛門とならぶ地歩をきずいた。実事を得意とした。元禄12年4月3日死去。48歳。摂津有馬(兵庫県)出身。前名は岩井半之助,半太夫。屋号は大和屋。

岩井半四郎(3代) いわい-はんしろう

1698-1760* 江戸時代中期の歌舞伎役者。
元禄(げんろく)11年生まれ。初代岩井半四郎の3男。正徳(しょうとく)5年(1715)襲名して3代,座本となった。若衆方として好演し,和事を得意とした。大坂,京都で興行したが,寛保(かんぽう)3年が最後の座本。宝暦9年11月26日江戸の娘婿4代市川団十郎のもとで死去。62歳。初名は岩井竹松。俳名は梅我,九花。屋号は大和屋。

岩井半四郎(6代) いわい-はんしろう

1799-1836 江戸時代後期の歌舞伎役者。
寛政11年生まれ。5代岩井半四郎の長男。文化元年に初舞台。文政5年江戸中村座の立女方をつとめ,5代瀬川菊之丞と若手の双璧(そうへき)といわれた。天保(てんぽう)3年(1832)6代を襲名。父の芸風をつぐ。老女役にもすぐれた。天保7年4月8日死去。38歳。江戸出身。前名は岩井粂三郎(2代)。俳名は梅我,袖歌。通称は粂三半四郎。屋号は大和屋。

岩井半四郎(4代) いわい-はんしろう

1747-1800 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
延享4年生まれ。2代松本幸四郎(のち4代市川団十郎)に入門。岩井家の断絶をおしむ団十郎の配慮で,明和2年半四郎を襲名。女方の名優として生世話物(きぜわもの)に新時代をひらいた。三日月お仙が当たり役。荒事にもすぐれた。寛政12年3月29日死去。54歳。江戸出身。前名は松本七蔵。俳名は杜若。通称はお多福半四郎。屋号は雑司谷屋,大和屋。

岩井半四郎(9代) いわい-はんしろう

1882-1945 明治-昭和時代前期の歌舞伎役者。
明治15年6月28日生まれ。4代岩井粂三郎の子。4代沢村源之助の門下となり,明治20年初舞台。39年東京座で5代岩井粂三郎を襲名し,若女方をつとめた。昭和20年4月13日死去。64歳。死後9代岩井半四郎を追贈された。東京出身。前名は岩井久次郎(4代)。俳名は燕子。屋号は大和屋。

岩井半四郎(7代) いわい-はんしろう

1804-1845 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文化元年生まれ。5代岩井半四郎の次男。文化3年に初舞台。文政5年江戸森田座の立女方となる。弘化(こうか)元年7代を襲名した。世話物が得意。弘化(こうか)2年4月1日死去。42歳。江戸出身。前名は岩井松之助,岩井紫若(初代)。俳名は扇朝,紫若。通称は紫若半四郎。屋号は大和屋。

岩井半四郎(2代) いわい-はんしろう

?-? 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。
初代岩井半四郎の長男。元禄(げんろく)12年(1699)2代を襲名,座本もつぐ。翌年「南都十三鐘」で玉姫役をつとめたが,元禄の末ごろから立役(たちやく)に転じた。実悪も得意とした。宝永7年ごろ死去という。初名は岩井亀松。屋号は大和屋。

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367日誕生日大事典 「岩井半四郎」の解説

岩井 半四郎(9代目) (いわい はんしろう)

生年月日:1882年6月28日
明治時代-昭和時代の歌舞伎役者
1945年没

岩井 半四郎(8代目) (いわい はんしろう)

生年月日:1829年10月2日
江戸時代;明治時代の歌舞伎役者
1882年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岩井半四郎の言及

【スケ】より

…役者の場合,年間契約で他座に属しているスター役者が何らかの事情でその興行だけ一座に特別加入するとき,やはり〈スケ〉と肩書して特別扱いをする。例えば,1783年(天明3)森田座の顔見世興行の座組に,4世岩井半四郎がスケとして出勤した。この年度の半四郎は中村座と契約していたが,たまたま火災のため中村座が興行できなかったため,当興行だけ乞われて,女方が弱体だった森田座に加入出演したのである。…

【春駒】より

…民俗芸能の春駒をとり入れたもので正月の曾我狂言の中で演じられた。古くは1758年(宝暦8)3月江戸市村座の七変化(しちへんげ)《雛祭神路桃(ひなまつりかみじのもも)》で初世中村富十郎が,87年(天明7)3月桐座の《門出新春駒(かどいでしんはるこま)》で4世岩井半四郎が演じた。元禄年間(1688‐1704)には《参会名護屋(さんかいなごや)》でも踊られた。…

【歌舞伎】より

…だが,南北の才能も,個性の強烈な実力派の役者たちがいてこそ花開いたものである。初世尾上松助(松緑),5世松本幸四郎,5世岩井半四郎,3世坂東三津五郎,7世市川団十郎,3世尾上菊五郎らの実力と個性をよく見きわめ,彼らの芸の魅力を十分に計算した上での作劇の成功が,南北を名作者たらしめたのである。南北の作品の中で,とくに〈色悪〉〈悪婆〉という新しい人間像の典型が確立したことも忘れられない。…

【変装】より

…はじめ,女方の領域は舞踊が中心であったが,しだいにドラマへも進出し,主演するようになった。たとえば,〈眼千両〉といわれた名女方5世岩井半四郎のために4世鶴屋南北(大南北)が書き下ろした《お染の七役》と通称される作品(《お染久松色読販(うきなのよみうり)》)は,半四郎が一人で性や身分や年齢を異にする七役を演ずるように書かれている。文化・文政期には,一人の俳優が男役と女役とをとりまぜた何役にも変わる例がさかんとなり,それら市井の風俗を取り入れた踊りは〈変化(へんげ)舞踊〉と呼ばれた。…

【八百屋お七】より

…浄瑠璃《八百屋お七恋緋桜(こいのひざくら)》(1717),《伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)》(1773)などがあり,歌舞伎では多く曾我の世界に結びつけて脚色され,八百屋お七物の一系統を形成した。《其往昔(そのむかし)恋江戸染》(1809年3月,森田座,福森久助作)で,5世岩井半四郎がお七を演じ,浅葱麻の葉鹿の子の着付を用い,お七の形象が定着した。そのほか河竹黙阿弥にも諸作があり,恋に死ぬ女性として共感を得た。…

【宗清】より

…振付4世西川扇蔵。3世坂東三津五郎,2世岩井粂三郎(6世岩井半四郎)の所演。義太夫節の《源氏烏帽子折(げんじえぼしおり)》2段目の翻案。…

【三千歳】より

…作詞河竹黙阿弥,作曲2世清元梅吉(清元お葉の説もある)。1881年3月,5世尾上菊五郎,8世岩井半四郎ほかで東京新富座初演。《天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)》の6幕目〈大口屋寮の場〉の狂言浄瑠璃。…

【女方(女形)】より

…2人の没後,初世中村富十郎はじめ多くの名優が輩出。代々の瀬川菊之丞,4世から8世までの岩井半四郎は女方の名優で,瀬川家と岩井家は,江戸時代を通じて女方の二大名門であった。一座の中で最高位にある女方を〈立女方(たておやま)〉といったが,明治・大正期の5世中村歌右衛門に至るまでは,女方は座頭(ざがしら)にはなれなかった。…

※「岩井半四郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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