片岡仁左衛門(読み)カタオカニザエモン

デジタル大辞泉 「片岡仁左衛門」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐にざえもん〔かたをかニザヱモン〕【片岡仁左衛門】

歌舞伎俳優。延宝期(1673~1681)の若女方豊島春之丞の弟、片岡仁左衛門に始まる上方で最も古い家系。7世以後の家号は松島屋。
(7世)[1755~1837]京都の人。敵役かたきやくで名を挙げたが、女形も兼ね、所作事にもすぐれていた。
(11世)[1857~1934]江戸の生まれ。8世の子。前名、我当。和事実事敵役老け役と芸域が広く、新作でも活躍した。
(13世)[1903~1994]東京の生まれ。11世の子。前名、我当。芸域の広い立役で、特に上方の世話物にすぐれ、上方歌舞伎の伝統保持に努めた。

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精選版 日本国語大辞典 「片岡仁左衛門」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐にざえもん【片岡仁左衛門】

  1. 大坂の歌舞伎俳優。七世以後の屋号、松島屋。
  2. [ 一 ] 初世。大坂で座元をつとめ、敵役、実事を得意とした。明暦二~正徳五年(一六五六‐一七一五
  3. [ 二 ] 七世。俳名、我童。中絶していた仁左衛門の名跡を再興して襲名。寛政から天保にかけて江戸・上方の実悪の名優として活躍した。宝暦五~天保八年(一七五五‐一八三七
  4. [ 三 ] 八世。七世の養子。前名、片岡我童。上方・江戸の人気俳優として活躍。色立役を本領とし、実事もよくした。文化七~文久三年(一八一〇‐六三
  5. [ 四 ] 一一世。八世の四男。前名、我当。東京に生まれる。大阪の花形俳優として活躍した。のち東京の劇壇で重鎮となる。和実(わじつ)を得意とした。安政四~昭和九年(一八五七‐一九三四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「片岡仁左衛門」の意味・わかりやすい解説

片岡仁左衛門
かたおかにざえもん

歌舞伎(かぶき)俳優。7世以後の屋号松島屋。


初世
(1656―1715)若女方(わかおんながた)豊島春之丞(とよしまはるのじょう)の弟で、初め三味線弾きだったという。のち山下半左衛門(1652―1717)の門に入り、1696年(元禄9)に大坂で座頭(ざがしら)の地位についた。座本を勤めたこともある。敵役(かたきやく)の随一と称されたが、晩年は立役(たちやく)に転じ、実事(じつごと)を得意にした。


2世
生没年未詳。初世の子。1716年(享保1)2世を継いだが早世。


3世
生没年未詳。初世の妹婿藤川繁右衛門(しげえもん)。2世が早世したため名義を預かり、家系上の3世となる。


4世
生没年未詳。藤川繁右衛門の養子で、初め2世藤川半三郎。1747年(延享4)4世を襲名。実悪(じつあく)の名手。


5世
生没年未詳。4世の養子。3世藤川半三郎と名のり、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)(1751~1772)のころ京都の敵役の第一人者となる。5世仁左衛門を襲名したとの説もあるが明らかでない。


6世
初世の門流であった2世三保木儀左衛門(みほきぎざえもん)が、血統の絶えた片岡の名跡(みょうせき)を預かったので、この人を6世に数える。


7世
(1755―1837)京都生まれ。俳名我童(がどう)。初世浅尾国五郎(?―1776)の弟で、2世浅尾国五郎。1787年(天明7)中絶していた片岡仁左衛門の名跡を再興、7世となる。立役、敵役、女方など芸域の広い名優で、関西劇壇の重鎮として活躍。


8世
(1810―1863)7世の養子。片岡我當(がとう)、2世片岡我童を経て1857年(安政4)江戸で8世を襲名、中村座で座頭になった。容姿に優れ、色立役を本領としたが、敵役、女方、所作事(しょさごと)もよくした。


9世
(1839―1871)8世の養子。2世片岡我當。1907年(明治40)11世仁左衛門が襲名にあたって、9世を追贈したもの。江戸に下って人気を獲得したが、大成をみずに早世した。


10世
(1851―1895)8世の三男。大坂生まれ。3世我童から1895年(明治28)仁左衛門の襲名披露をしたが、まもなく没した。


11世
(1857―1934)本名片岡秀太郎。8世の四男。江戸・浅草猿若町生まれ。3世我當から1907年大阪で11世を襲名。東京と大阪をしばしば往来し、非常に人気があった。関西にあっては初世中村鴈治郎(がんじろう)のライバルとして人気を二分して争い、仁左衛門襲名以後は東京に住み、劇壇の長老として重んじられた。芸域の広い俳優であったが、晩年はとくに老役(ふけやく)に枯淡の味をみせた。『桐一葉(きりひとは)』の片桐且元(かつもと)、『堀川』の与次郎などが当り役であった。


12世
(1882―1946)本名片岡東吉。10世の子。東京生まれ。4世我童から1936年(昭和11)12世仁左衛門を襲名。6世尾上梅幸(おのえばいこう)の没後、15世市村羽左衛門(うざえもん)の相手役として人気、実力を兼備した活躍ぶりを示したが、1946年(昭和21)3月16日食糧難の不幸な時代背景のもとで使用人の手にかかり不慮の死を遂げた。


13世
(1903―1994)本名片岡千代之助。11世の三男。東京生まれ。4世我當から1951年13世を襲名。大阪で「七人の会」に参加し、「仁左衛門歌舞伎」を主催するなど、上方(かみがた)歌舞伎の伝統を継承しようとする意欲を示した。1972年に重要無形文化財保持者に認定され、1981年に芸術院会員に選ばれた。著書に『役者七十年』(1976)、『菅原(すがわら)と忠臣蔵』(1981)など。実子に、5世片岡我當(1935― )、2世片岡秀太郎(1941―2021)、15世片岡仁左衛門がいる。


14世
(1910―1993)本名片岡一(はじめ)。12世仁左衛門の長男。1934年、5世片岡芦燕(ろえん)を襲名。さらに1955年5世片岡我童を襲名(本人は13世を名のっていた)、女方として活躍した。13世仁左衛門の没後、その遺志によって14世を追贈された。


15世
(1944― )13世の三男。本名の片岡孝夫(たかお)を芸名として長く舞台を勤め、1998年(平成10)、15世を襲名した。美貌(びぼう)で花のある立役として抜群の人気があり、平成歌舞伎の代表的俳優の一人として活躍している。2006年(平成18)芸術院会員となる。

服部幸雄

『(13世の本)渡辺保著『仁左衛門の風格』(1993・河出書房新社)』『(15世の本)片岡仁左衛門編著『十五代目片岡仁左衛門――片岡孝夫の軌跡』(1998・淡交社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「片岡仁左衛門」の意味・わかりやすい解説

片岡仁左衛門 (かたおかにざえもん)

歌舞伎俳優。15世まであるが,3・5・6世は仁左衛門を名のっていない。7世以降の屋号は松島屋。(1)初世(1656-1715・明暦2-正徳5) 若女方豊島春之丞の弟。初め藤川伊三郎と称する三味線ひきであった。1692年(元禄5)以前に京都へ上り,片岡仁左衛門となる。前名大西森右衛門。96年冬から1709年(宝永6)まではおもに大坂で活躍。座本も長く務めた。口跡に難はあったが,風采に優れ,眼光すさまじく〈敵役の随一〉といわれた役者であった。09年冬から京都に上って立役となり,晩年は実事(じつごと)を得意とした。(2)2世 生没年不詳。初世の子。初め片岡三平。前名長太夫。1717年(享保2)1月仁左衛門を襲名。その後まもなく早世した。実悪の役者。(3)3世 初世の妹婿藤川繁右衛門が2世没後名義を預かったので,これを3世に数える。(4)4世 生没年不詳。俳名茶谷。3世の子とも養子ともいう。初め藤川庄松の名で若女方。1713年(正徳3)冬大坂の山本彦五郎座に出勤。のち敵役に転じ,2世藤川半三郎として,26年冬大坂の藤井花松座に出勤。しだいに評判が上がり,嵐三五郎と組んで大当りをとった。実悪を本領とし,むごい悪の仕打を見せる芸風は,京よりは大坂で人気があった。47年(延享4)に仁左衛門を襲名。藤川茶谷の名で作劇にも名高い。58年(宝暦8)ころから名が見えなくなる。(5)5世 生没年不詳。俳名茶谷。4世の養子となって3世藤川半三郎を名のる。1760年以降は京都で活躍,敵役で世話敵を得意とした。名跡を預かったまま,安永の初めころに名が見えなくなる。(6)6世 片岡の血統は5世で絶えたが,初世の門流であった三保木儀左衛門の縁で,2世の儀左衛門が名跡を預かったので,これを6世に数える。(7)7世(1755-1837・宝暦5-天保8) 俳名我童,梅里,万麿。別号南麗舎。初世浅尾国五郎の弟。初世浅尾為十郎に師事して2世国五郎を名のったが,1787年(天明7),中絶していた片岡の名跡を再興して仁左衛門を襲名。以来上方の重鎮として活躍。肥満型であったが,風采に優れ,せりふは明快であった。芸域が広く,初め半道敵で出て,後には実悪・武道・実事・親仁方から女方まで務めた。(8)8世(1810-63・文化7-文久3) 俳名李童,我童,芦燕。2世嵐璃寛の門弟で,1833年(天保4)7世の養子となり,片岡我当を名のる。以後養父と共に上方で活躍し,37年養父の病死後は,その俳名我童を芸名とし片岡我童と名のった。3世中村芝翫,初世実川延三郎と競う立役の花形となり,54年(安政1)江戸中村座に下り,57年1月同座で仁左衛門を襲名。62年(文久2)10月8年ぶりに帰坂したが,翌3年2月病没。容姿に優れ,色立役を本領としたが,晩年には武道・敵役・女方なども務めた。(9)9世(1839-71・天保10-明治4) 8世の養子。2世片岡松之助から1856年(安政3)4月江戸中村座で2世片岡我当を襲名。没後の1907年になってから,11世の仁左衛門により9世を追贈された。(10)10世(1851-95・嘉永4-明治28) 本名片岡土之助。俳名我童,芦燕。8世の三男。前名我童。1876年に弟の我当と共に上京し,以後東京の各座を転勤。95年大阪で仁左衛門を襲名したが,弁天座における襲名披露興行に,時の長老市川右団次,弟の我当が参加しなかったことを苦にして発狂,4月に没した。和実を本領とし,敵役・女方も兼ねた。(11)11世(1857-1934・安政4-昭和9) 本名片岡秀太郎。俳名我当,万麿。8世の四男。前名3世片岡我当。初めは大阪で初世鴈治郎と対抗する和実の名優で,1907年仁左衛門を襲名後は東京に常住し,晩年には東京の重鎮となった。若いときには和実を得意として上方歌舞伎の担い手として名声をあげ,晩年には老け役に枯淡な味わいを見せて称賛された。《近頃河原達引》の与次郎,《四千両小判梅葉》の富蔵などが当り芸で,広い芸域の持主である。古典に優れている一方,新歌舞伎に清新な演技を見せた。(12)12世(1882-1946・明治15-昭和21) 本名片岡東吉。俳名芦燕。10世の子。前名片岡我童。女方。1936年仁左衛門を襲名後は,15世市村羽左衛門の相手役として活躍。冷たい美貌が不思議な魅力を発揮したが,46年,戦後の世相を反映した不慮の死を遂げた。(13)13世(1904-94・明治37-平成6)本名片岡千代之助。11世の三男。前名我当。1951年大阪で仁左衛門を襲名。その披露公演に《冥途の飛脚》の忠兵衛,《天の網島》の治兵衛を演じ,以来京都に住んで上方芸の和事の伝統を守り関西歌舞伎を支えた。またその伝承のための著述も多い。72年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受ける。(14)14世(1910-93・明治43-平成5)本名片岡一。1955年片岡我童を襲名。没後14世を追贈される。(15)15世(1944・昭和19-)本名片岡孝夫。13世の三男。1998年15世を襲名。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「片岡仁左衛門」の解説

片岡 仁左衛門(13代目)
カタオカ ニザエモン


職業
歌舞伎俳優

肩書
重要無形文化財保持者(歌舞伎立役)〔昭和47年〕,日本芸術院会員〔昭和56年〕

本名
片岡 千代之助(カタオカ チヨノスケ)

別名
前名=片岡 我当(4代目),俳名=茶谷

屋号
松嶋屋

生年月日
明治36年 12月15日

出生地
東京市 日本橋区(東京都 中央区)

学歴
山田小卒

経歴
11代目片岡仁左衛門の三男。2歳のとき京都南座で初舞台。明治45年父が設立した片岡少年俳優養成所で学ぶ。昭和4年東京歌舞伎座で4代目片岡我当を継ぎ、7年松竹の青年歌舞伎の座頭となる。14年大阪に移籍、以後関西歌舞伎の中心として活躍。26年大阪歌舞伎座で13代目仁左衛門を襲名。33年2代目中村鴈治郎らと七人の会を結成。37年から仁左衛門歌舞伎を5年にわたり自主公演し、衰退していく上方歌舞伎のために尽力した。晩年に目が悪くなってからの数々の演技は、その香気と風格から歌舞伎史上の奇蹟といわれた。女形以外のあらゆる役をこなし、当り芸に「菅原伝授手習鑑」の菅丞相、「恋飛脚大和往来」の孫右衛門、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良助、「夏祭浪花鑑」の三婦、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、「天網島時雨炬燵」の治兵衛などがある。47年人間国宝に認定され、56年日本芸術院会員、平成4年には文化功労者となる。芸談・随筆集も多く、著書に「役者七十年」がある。また、4年記録映画「歌舞伎俳優 片岡仁左衛門」(羽田澄子監督)が完成した。

受賞
芸術選奨文部大臣賞(第17回 昭41年度)〔昭和42年〕,日本芸術院賞〔昭和46年〕,文化功労者〔平成4年〕 紫綬褒章〔昭和44年〕,勲三等瑞宝章〔昭和50年〕,勲二等瑞宝章〔平成6年〕 大阪芸術賞〔昭和39年〕,上方芸能人顕彰〔昭和47年〕,京都市文化功労者〔昭和47年〕,NHK放送文化賞〔昭和55年〕,京都市名誉市民〔昭和57年〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和59年〕,松尾芸能賞(特別賞)〔昭和61年〕,関西大賞(大名優賞 第4回)〔平成1年〕,真山青果賞(第8回・11回)〔平成1年・4年〕

没年月日
平成6年 3月26日 (1994年)

家族
父=片岡 仁左衛門(11代目),長男=片岡 我当(5代目),三女=花柳 寿々(舞踊家),二男=片岡 秀太郎(2代目),三男=片岡 仁左衛門(15代目),五女=片岡 静香(新劇女優),孫=片岡 進之介(歌舞伎俳優),片岡 孝太郎(歌舞伎俳優),片岡 サチ(女優),片岡 京子(女優)

親族
いとこ=片岡 仁左衛門(12代目)

伝記
一芸一談ぜんぶ芸のはなし―名人上手十八話姿―武原はん 片岡仁左衛門仁左衛門の風格上方歌舞伎風姿―歌舞伎俳優・13代目片岡仁左衛門技と芸に生きる―プロフェッショナルの軌跡 桂 米朝 著織田 紘二,中嶋 典夫 編著渡辺 保 文,立木 義浩 ほか撮影渡辺 保 著水落 潔 著星野 健一 写真日鉄商事経営企画室 編(発行元 筑摩書房淡交社求竜堂河出書房新社東京書籍朝日新聞社ダイヤモンド社 ’07’05’94’93’90’88’86発行)


片岡 仁左衛門(12代目)
カタオカ ニザエモン


職業
歌舞伎俳優

本名
片岡 東吉

別名
前名=片岡 我童(12代目),俳名=芦燕

屋号
松嶋屋

生年月日
明治15年 9月9日

出生地
東京府浅草区今戸(東京都 台東区)

経歴
明治18年東京千歳座で初舞台。34年12代目我童を襲名。昭和11年東京歌舞伎座で12代目仁左衛門を襲名。立役も女形もこなしたが、10年以降は15代目市川羽左衛門の女房役者を務めた。クールな美貌の持ち主で品位が備わり、口跡もよく、「朝顔日記」の深雪は生涯の当たり役とされた。21年3月16日敗戦直後の食糧難が原因で同居していた番頭に惨殺されるという不慮の死を遂げた(片岡仁左衛門一家惨殺事件)。

没年月日
昭和21年 3月16日 (1946年)

家族
父=片岡 仁左衛門(10代目),息子=片岡 我童(13代目),市村 吉五郎(2代目),片岡 芦燕(歌舞伎俳優)

親族
叔父=片岡 仁左衛門(11代目),いとこ=片岡 仁左衛門(13代目)

伝記
戦争と社会部記者 朝日新聞東京社会部OB会 編(発行元 騒人社 ’90発行)


片岡 仁左衛門(11代目)
カタオカ ニザエモン


職業
歌舞伎俳優

本名
片岡 秀太郎

別名
前名=片岡 我当(3代目),俳名=我当,万麿

屋号
松嶋屋

生年月日
安政4年 10月18日

出生地
江戸・猿若町(東京都)

経歴
万延元年江戸・中村座で初舞台。文久2年上阪し、大阪各座に出演。明治8年上京し、3代目我当の名で人気を得たが、19年帰阪、初代鴈治郎らと並んで活躍。40年大阪角座で11代目仁左衛門を襲名。以後は東京を本拠に、和事、実事の名手として、また「桐一葉」の片桐且元、「名工柿右衛門」などの老け役に枯淡の味わいを見せた。

没年月日
昭和9年 10月16日 (1934年)

家族
父=片岡 仁左衛門(8代目),兄=片岡 仁左衛門(10代目),三男=片岡 仁左衛門(13代目)

親族
伯父=中村 歌六(2代目),中村 歌六(3代目)

伝記
芝居随想 作者部屋からぜいたく列伝 食満 南北 著戸板 康二 著(発行元 ウェッジ学陽書房 ’09’04発行)


片岡 仁左衛門(10代目)
カタオカ ニザエモン


職業
歌舞伎俳優

本名
片岡 土之助

別名
前名=片岡 我童(11代目),俳名=我童,芦燕

生年月日
嘉永4年 3月15日

出生地
大坂・笠屋町(大阪府)

経歴
8代目仁左衛門の二男。安政元年初舞台。明治元年我童を継ぎ、8年上京、次第に名声を高め、江戸・中村座などの座頭をつとめた。中村時蔵らと並んで花形として人気を得、22年帰阪、28年弁天座で10代目仁左衛門を襲名した。

没年月日
明治28年 4月15日 (1895年)

家族
父=片岡 仁左衛門(8代目),弟=片岡 仁左衛門(11代目),息子=片岡 仁左衛門(12代目)

伝記
技と芸に生きる―プロフェッショナルの軌跡 日鉄商事経営企画室 編(発行元 ダイヤモンド社 ’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「片岡仁左衛門」の解説

片岡 仁左衛門(13代目)
カタオカ ニザエモン

大正〜平成期の歌舞伎俳優



生年
明治36(1903)年12月15日(戸籍=明治37年4月14日)

没年
平成6(1994)年3月26日

出生地
東京市日本橋区(現・東京都中央区)

本名
片岡 千代之助(カタオカ チヨノスケ)

別名
前名=片岡 我当(4代目),俳名=茶谷

屋号
松嶋屋

学歴〔年〕
山田小卒

主な受賞名〔年〕
大阪芸術賞〔昭和39年〕,芸術選奨文部大臣賞〔昭和41年〕,紫綬褒章〔昭和44年〕,日本芸術院賞〔昭和46年〕,上方芸能人顕彰〔昭和47年〕,京都市文化功労者〔昭和47年〕,勲三等瑞宝章〔昭和50年〕,放送文化賞〔昭和55年〕,京都市名誉市民〔昭和57年〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和59年〕,松尾芸能賞(特別賞)〔昭和61年〕,関西大賞(大名優賞 第4回)〔平成1年〕,真山青果賞(第8回 11回)〔平成1年 4年〕,文化功労者〔平成4年〕

経歴
11代目仁左衛門の三男。2歳のとき京都南座で初舞台。昭和4年東京歌舞伎座で4代目我当を継ぎ、7年松竹の青年歌舞伎の座頭となる。14年大阪に移籍、以後関西歌舞伎の中心として活躍。26年大阪歌舞伎座で13代目仁左衛門を襲名。37年から仁左衛門歌舞伎を5年にわたり自主公演し、衰退していく上方歌舞伎のために尽力した。晩年に目が悪くなってからの数々の演技は、その香気と風格から歌舞伎史上の奇蹟といわれた。女方以外のあらゆる役をこなし、当り芸に「菅原伝授手習鑑」の菅丞相、「新口村」の孫右衛門などがある。47年人間国宝に指定され、56年日本芸術院会員、平成4年には文化功労者となる。芸談・随筆集も多く、著書に「役者七十年」がある。


片岡 仁左衛門(12代目)
カタオカ ニザエモン

明治〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治15(1882)年9月9日

没年
昭和21(1946)年3月16日

出生地
東京府浅草区今戸(現・東京都台東区)

本名
片岡 東吉

別名
前名=片岡 我童(12代目),俳名=芦燕

屋号
松嶋屋

経歴
明治18年東京千歳座で初舞台。34年12代目我童を襲名。昭和11年東京歌舞伎座で12代目仁左衛門を襲名。立役も女形もこなしたが、10年以降は15代目市川羽左衛門の女房役者を務めた。クールな美貌の持ち主で品位が備わり、口跡もよく、「朝顔日記」の深雪は生涯の当たり役とされた。21年3月16日敗戦直後の食糧難が原因で同居していた番頭に惨殺されるという不慮の死を遂げた(片岡仁左衛門一家惨殺事件)。


片岡 仁左衛門(11代目)
カタオカ ニザエモン

江戸時代末期〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
安政4年10月18日(1857年)

没年
昭和9(1934)年10月16日

出生地
江戸・猿若町

本名
片岡 秀太郎

別名
前名=片岡 我当(3代目),俳名=我当,万麿

屋号
松嶋屋

経歴
万延元年江戸・中村座で初舞台。文久2年上阪し、大阪各座に出演。明治8年上京し、3代目我当の名で人気を得たが、19年帰阪、初代鴈治郎らと並んで活躍。40年大阪角座で11代目仁左衛門を襲名。以後は東京を本拠に、和事、実事の名手として、また「桐一葉」の片桐且元、「名工柿右衛門」などの老け役に枯淡の味わいを見せた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「片岡仁左衛門」の意味・わかりやすい解説

片岡仁左衛門【かたおかにざえもん】

歌舞伎俳優。京阪では最も古い家柄。屋号松島屋。初世〔1656-1715〕は三味線ひきから俳優に転じ,敵(かたき)役の名人といわれた。7世〔1755-1837〕は中絶していた仁左衛門の名を再興。8世〔1810-1863〕は7世の養子。容姿すぐれ,和事(わごと)を得意とし,女方・老(ふけ)役も兼ねた。11世〔1857-1934〕は8世の四男。明治から昭和にかけての名優で,東京,大阪で活躍。和事・実事(じつごと)のほか新作もよくし,《桐一葉》の片桐且元,《名工柿右衛門》など老人役に傑出した。13世〔1903-1994〕はその三男で,1951年襲名。1972年人間国宝。

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朝日日本歴史人物事典 「片岡仁左衛門」の解説

片岡仁左衛門(7代)

没年:天保8.3.1(1837.4.5)
生年:宝暦5(1755)
江戸中期の歌舞伎役者。俳名我童,万磨。屋号松島屋。京都の人。初め中村松助,のち浅尾国五郎,一時山沢国五郎。初代は元禄期実悪の名優。その後あまりふるわなかったが7代目が家名を再興。京坂の中芝居で敵役として名をあげ,天明7(1787)年33歳で仁左衛門を襲名,大芝居に出て立役を兼ねた。寛政6(1794)年冬作者並木五瓶と共に江戸下りし都座に出演,「五大力恋緘」の三五兵衛,「忠臣蔵」の師直,「菅原伝授手習鑑」の白太夫などで好評を得た。同9年の評判記で上上吉の位付けとなる。その年冬帰坂,以後主として上方で活躍。65歳の文政2(1819)年に極上上吉,76歳で老功無類と称された。天保7(1836)年11月京都の芝居が最後で,翌年83歳の長寿で没。堂々たる体格で「肥大なる男前」と評された。美声で愛嬌があり,とかく軽いといわれた実悪のほかに,立役,老役,女形も兼ねた。当たり役は松永大膳,日本駄右衛門,佐々木巌流など。生涯健康で舞台を休むことはほとんどなかった。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』,守随憲治『歌舞伎序説』

(松平進)


片岡仁左衛門(8代)

没年:文久3.2.16(1863.4.3)
生年:文化7(1810)
江戸後期の歌舞伎役者。7代目仁左衛門の養子。俳名李童,我童など。初名市川新之助。前名三枡岩五郎,嵐橘次郎,片岡我当,2代目我童。上方で子供芝居と大芝居の中間に位置する中芝居で色立役として人気をとる。養父の病没後大芝居で「けいせい浜真砂」の鮒屋源五郎,「伊賀越道中双六」の誉田内記,夕霧狂言の伊左衛門などで大当たりし,安政1(1854)年,45歳ではじめて江戸下り。その年自殺した8代目市川団十郎に似ているとして広く人気が出た。4年,8代目を襲名。色気のある上品な美男で,文化文政期の立役の名優2代目嵐吉三郎の芸風を継承した。片岡仁左衛門の名跡は平成期まで13代を数える。

(松平進)


片岡仁左衛門(初代)

没年:正徳5.11.1(1715.11.26)
生年:明暦2(1656)
元禄期に上方で活躍した歌舞伎役者。片岡家の祖。はじめ三味線弾きだったが,のち山下京右衛門(当時は半左衛門)の門に入り,元禄9(1696)年大坂岩井半四郎の座頭となる。敵役を本領とし「敵役の随一」といわれたが,晩年は実事を得意とした。京坂で座本を勤めた。没月日は11月2日ともいう。

(今西晶子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「片岡仁左衛門」の解説

片岡仁左衛門(13代) かたおか-にざえもん

1903-1994 大正-平成時代の歌舞伎役者。
明治36年12月15日生まれ。11代片岡仁左衛門の3男。明治38年京都南座で初舞台。4代片岡我当をへて昭和26年13代片岡仁左衛門を襲名。上方歌舞伎の継承につとめ,和事,実事を得意とし,当たり役に「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の菅丞相,「忠臣蔵」の由良之助などがある。47年人間国宝。56年芸術院会員。平成4年文化功労者。平成6年3月26日死去。90歳。東京出身。本名は千代之助。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(9代) かたおか-にざえもん

1839-1872* 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
天保(てんぽう)10年生まれ。4代三桝大五郎の門にはいり,8代仁左衛門の養子となって2代片岡松之助を名のる。養父とともに江戸にいき,安政3年2代片岡我当を襲名。のち大坂にかえり,和事(わごと)を得意とし,実事,女方もつとめた。明治4年11月22日死去。33歳。40年11代仁左衛門から9代を追贈された。初名は三桝梅丸。俳号は我堂,芦燕。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(8代) かたおか-にざえもん

1810-1863 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文化7年生まれ。2代嵐璃寛(りかん)の門にはいり,7代仁左衛門の養子となり片岡我当(初代)を名のる。養父の没後,2代片岡我童と改名,3代中村芝翫(しかん)や初代実川延三郎とともに立役(たちやく)の花形となった。安政4年8代仁左衛門を襲名。色立役を得意とした。文久3年2月16日死去。54歳。初名は市川新之助(6代)。俳名は李童,我童,芦燕。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(15代) かたおか-にざえもん

1944- 昭和後期-平成時代の歌舞伎役者。
昭和19年3月14日生まれ。13代片岡仁左衛門の3男。5代片岡我当の弟。昭和24年大阪中座で初舞台。20歳のときに演じた「女殺油地獄」の与兵衛役が評価される。江戸前のいなせな味も体得し,新派などでも活躍。63年芸術院賞。平成10年15代片岡仁左衛門を襲名。18年芸術院会員。27年人間国宝。大阪府出身。京都西高中退。前名は本名の片岡孝夫。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(10代) かたおか-にざえもん

1851-1895 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
嘉永(かえい)4年3月13日生まれ。8代片岡仁左衛門の3男。父とともに江戸にいき安政3年「鈴鹿合戦」で初舞台をふむ。文久2年大坂にかえり,明治5年3代片岡我童を名のる。東京で活躍後,28年大阪で10代仁左衛門を襲名。立役(たちやく)や敵役を得意とした。明治28年4月15日死去。45歳。大坂出身。本名は土之助。俳名は我童,芦燕。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(11代) かたおか-にざえもん

1857-1934 明治-昭和時代前期の歌舞伎役者。
安政4年10月18日生まれ。8代片岡仁左衛門の4男。大阪で活躍したのち,明治9年3代片岡我当を名のり,東京で約10年間舞台にたつ。40年大阪で11代仁左衛門を襲名。わかいときには和実を得意として名をあげ,晩年には老役(ふけやく)に枯淡の味わいをみせた。昭和9年10月16日死去。78歳。江戸出身。本名は秀太郎。俳名は万麿。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(初代) かたおか-にざえもん

1656-1715 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。
明暦2年生まれ。はじめ藤川伊三郎と称し,三味線をひく。のち山下半左衛門の門にはいり,元禄(げんろく)9年(1696)大坂岩井半四郎座の座頭となり,座本もつとめた。石川五右衛門,宿無団七などが当たり役で,敵役の随一といわれる。晩年は立役(たちやく)となり,実事(じつごと)を得意とした。正徳(しょうとく)5年11月1日死去。60歳。

片岡仁左衛門(7代) かたおか-にざえもん

1755-1837 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
宝暦5年生まれ。初代浅尾国五郎の弟。初代浅尾為十郎に入門,2代浅尾国五郎を名のる。天明8年中絶していた名跡をついで7代仁左衛門を襲名。京坂を中心に活躍。芸域がひろく,敵役,立役(たちやく)の名手といわれた。天保(てんぽう)8年3月1日死去。83歳。京都出身。初名は中村松助。俳名は我童,万麿。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(12代) かたおか-にざえもん

1882-1946 明治-昭和時代前期の歌舞伎役者。
明治15年9月9日生まれ。10代片岡仁左衛門の子。4代片岡我童をへて昭和11年12代仁左衛門を襲名。天性の美貌と品位ある演技で女方を得意とし,「朝顔日記」の深雪が当たり役であった。昭和21年3月16日死去。65歳。東京出身。本名は片岡東吉。前名は片岡土之助(2代)。俳名は芦燕。屋号は松島屋。

片岡仁左衛門(5代) かたおか-にざえもん

?-? 江戸時代中期の歌舞伎役者。
4代片岡仁左衛門の養子。3代藤川半三郎を名のり,宝暦-明和(1751-72)のころ京都で活躍,敵役を得意とした。5代仁左衛門の名跡をあずかったまま襲名しなかったといわれる。俳名は茶谷。

片岡仁左衛門(2代) かたおか-にざえもん

?-? 江戸時代中期の歌舞伎役者。
初代片岡仁左衛門の子。はじめ片岡三平と称し,のち片岡長太夫と改名。享保(きょうほう)元年(1716)2代仁左衛門を襲名。実悪(じつあく)をつとめたが早世した。

片岡仁左衛門(6代) かたおか-にざえもん

三保木儀左衛門(みほき-ぎざえもん)(2代)

片岡仁左衛門(3代) かたおか-にざえもん

藤川繁右衛門(ふじかわ-しげえもん)

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367日誕生日大事典 「片岡仁左衛門」の解説

片岡 仁左衛門(13代目) (かたおか にざえもん)

生年月日:1903年12月15日
大正時代-平成時代の歌舞伎役者
1994年没

片岡 仁左衛門(12代目) (かたおか にざえもん)

生年月日:1882年9月9日
明治時代-昭和時代の歌舞伎役者
1946年没

片岡 仁左衛門(15代目) (かたおか にざえもん)

生年月日:1944年3月14日
昭和時代;平成時代の歌舞伎俳優

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世界大百科事典(旧版)内の片岡仁左衛門の言及

【忠臣蔵映画】より

…御園京平の調査(私家本《映画・忠臣蔵》1966)では,外伝ものや変格ものを除いたものだけでも,明治末期に22本,大正年間に38本,昭和に入ってから22本を数えることができる。 最初の忠臣蔵映画は,1907年に吉沢商店がつくった《忠臣蔵五段目》であるが,これは11世片岡仁左衛門の与市兵衛・定九郎・勘平三役による歌舞伎映画であった。その後1910年,横田商会で映画スター第1号である尾上松之助の主演で《大石内蔵助一代記》がつくられ,つづいて同年,同じ横田商会が牧野省三監督,尾上松之助の浅野内匠頭・大石内蔵助・清水一角三役で,映画ではじめての〈忠臣蔵〉全通しである《忠臣蔵》をつくった。…

【名工柿右衛門】より

…1912年11月東京歌舞伎座初演。配役は陶工柿右衛門を11世片岡仁左衛門,弟子栗作を15世市村羽左衛門,妹娘おたねを5世中村歌右衛門など。中村正直訳《西国立志編》第3編〈三陶工の伝〉の翻案脚色であるが,すでに1872年京都北の芝居に佐橋富三郎脚色《其粉色陶器交易(そのいろどりとうきのこうえき)》が上演され,ユジェーヌ・ブリウの《ベルナール・パリッシー》(1880)もあって,両者の影響も推察される。…

【橋弁慶】より

…現在行われているものは,1868年(明治1),3世杵屋(きねや)勘五郎が能の《橋弁慶》の詞章に長唄の節付けをしたもので,1912年4月東京歌舞伎座初演。演者は2世市川段四郎,12世片岡仁左衛門。構成や扮装も能に準じた松羽目物。…

※「片岡仁左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」