目次 自然,地誌 住民,言語 歴史 政治 経済 社会 文化 美術 基本情報 正式名称 =ネパール連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Nepal 面積 =14万7181km2 人口 (2011)=2662万人 首都 =カトマンズKāthmāndu(日本との時差=-3.5時間) 主要言語 =ネパール語 通貨 =ネパール・ルピーNepalese Rupee
インドと中国のチベット自治区の間(北緯26°20′~30°15′,東経80°05′~88°13′)に位置する王国。19世紀以来鎖国していたが,1951年の王政復古後開国し,55年には国連に加盟した。経済面では,国土の大半がヒマラヤ山脈 に含まれる山地であり,また地下資源に恵まれず,海に面していないなど,発展上の障害が多い。
自然,地誌 国が東西に長いため東部では年間降雨量が2000mm近くの場所があるのに対し,西部では1000mmを割り,またモンスーン のもたらす雨がほとんどヒマラヤ山脈南面に降るなど,乾湿の地域差が大きい。同様に大きいのが高度差で,ヒマラヤ山脈の最高所は8000mを超え,一方,南のタライ では60~200m程度となる。主要水系には東からコシ,ガンダキ,カルナリがあり,チベットや北ネパールからヒマラヤを切る形で南流し,ヒマラヤ南面に東西に広がるマハーバーラト山脈 (最高約3000m)地域で東西に流れ,南部のシワリク丘陵 を切ってまた南流する。
タライ(幅約15~45km)およびシワリク丘陵北の内部タライ(標高500~600m)は亜熱帯で,以前はサールを主とした森林が多く,マラリアがはびこっていたが,今日ではその撲滅も進み開拓も大幅になされ,ネパールの穀倉となっている。マハーバーラト山脈は多く照葉樹林帯で,山地低部をおもな居住地とするネパール的ヒンドゥー教 徒,山地中高部に住むチベット・ビルマ語系諸語を母語とする諸民族などネパール固有の住民の根拠地となり,低部(標高1800~1900m以下)では水稲栽培,シイ類などが,また中高部(3000m程度まで)では麦類と雑穀の栽培,カシ類などが見られる。その上に冷温帯性森林,亜寒帯性針葉樹林が続き,標高3800~4000mで森林限界となるが,3000m以上からこのあたりまではチベット系住民が定住集落を営み,麦類,雑穀などを栽培している。それ以上はビャクシン (イブキ)類など低木や高山草原が約6000mまで見られ,ヒマラヤの氷雪地帯に続いている。
住民,言語 住民は大別して,(1)-(a)山地低部をおもな居住地とするネパール的ヒンドゥー教徒(全人口の約50%),(1)-(b)南部のタライに住む北インド系住民(約25%)および土着民タルー (約4%),(2)-(a)山地中高部に住むチベット・ビルマ系の諸語を母語とする諸民族(約20%),(2)-(b)チベット系住民(1%以下),その他に分けられる。言語的には(1)の人々の母語はインド・ヨーロッパ語系で,(1)-(a)の人々はネパール語 ,(1)-(b)の人々はマイティリー,ボジュプリー,アワディー などのヒンディー語 の方言を話す(ただしタルー語の系統については疑問点が多い)。一方,(2)に属する人々の母語はチベット・ビルマ語系で,その中に数十の民族の言語が含まれる。代表的言語名(=民族名)は(2)-(a)では,東からリンブー,ライ(ライ・リンブー ),タマン ,ネワール ,グルン ,マガル など,(2)-(b)ではチベット,シェルパ などで,人口は数万から数十万である。このほか,わずか数家族という言語集団も見られる。
宗教は(1)の人々(および仏教徒((2)-(a))中のネワールも含む)は多くヒンドゥー的で,カースト社会を成す。ただし,(1)-(a)の人々の間では中間の地位の諸カーストが欠落している。(2)-(b)の人々はチベット仏教 (ラマ教 )を奉じ,一方,(2)-(a)の人々はそれぞれの土着信仰をもつが,南部の住民にはヒンドゥー教,カースト制の,北部の住民にはチベット仏教の影響が強い。現在の王政の中心は(1)-(a)の人々で国語はネパール語であるが,首都では主要住民ネワールが国語を母語としないという微妙な状況があらわれている。
歴史 ネパール古代史は近年かなり研究が進んだがあいまいな部分も多い。14世紀以降に書かれた王朝譜《バンシャバリーVaṃśāvalī》は古代にゴパーラやキラータなどの王朝があったとするが確証はない。確実なのはリッチャビ 王朝からである。これはその始まりも終りも明らかでないが,マーナデーバMānadeva王の碑文から464年には存在していたことがわかる。この王朝が力を失うのは8世紀ころであるが,それまで使われていたものとは異なる新しい暦の第1年目にあたる西暦879年に史上の転換点をおく説が強い。以後も1200年まで〈デーバDeva〉の名のつく王の支配が続く。この時期を便宜的にタクリThakurī王朝と一括する研究者もあるが,中央権力は弱化し,資料は少なく,不明な点が多い。リッチャビ王朝下ではすでに,灌漑を伴う農業や南北の交易が行われ,大都城があり,貨幣が流通し,工芸が行われ,ヒンドゥー教,大乗,小乗の仏教があった。宗教や王の名,サンスクリット 主体の碑文の言語,文字からわかるように,この時代インドからの影響は大きかったが,一方,6世紀ころからはチベットとの関係も強まった。
次のマッラMalla王朝は1200年に初めてその確証が現れ,1768・69年まで続くが,実は異なる3系統の王朝から成る。この時代は建築,工芸などネワール文化が開花した時代であるが,一方,インドのムスリム(イスラム教徒 )勢力による侵略,破壊や飢饉もあった。宮廷ではムスリムの手から逃れたブラーマン (バラモン)が重用され,社会,文化のヒンドゥー色が強まった。とくにカースト制を法制化し,度量衡,税制などを整えたとされるジャヤスティティ・マッラ王Jayasthiti Malla(在位1382-95)は有名である。一方,古くにインドから伝わった仏教は密教色を強め,ネワール独特のものとなってゆく。15世紀後半には王国が兄弟間に分割されるという事態が起こり,それ以後カトマンズ盆地 およびその周辺で分立した王国は互いに争い,力を弱めていった。
カトマンズ周辺以外では,11世紀から14世紀に西ネパールのカルナリ川流域で栄えたヒンドゥー系のカサ勢力のマッラ王朝が有名で,インド,チベット間の中継交易を行い,一時は西チベットからガルワールに勢力を広げていた。その他14~16世紀の中央ネパールのセーン王国なども有力であったが,18世紀中葉には西ネパールに数十の勢力の割拠状態が見られた。これらの小勢力中から頭角を現したのがプリトゥビ・ナラヤン・シャハ王Prithvī Nārāyaṇ Śāhに率いられたグルカ (ゴルカ)勢力である。この勢力は1768・69年にカトマンズを征服し,今日に至るまで続くシャハ王朝 (ゴルカ王朝 )を建てた。それ以降も拡大は続けられ,一時その版図は西は現インド領のクマオン,ガルワール,東はシッキムに及んだ。この膨張は南北にも及び,18世紀後半にはチベットに侵入するが,これは1792年の清朝の反撃を誘い,以来1912年までネパールは清朝への朝貢を行った。南および西への膨張は,その頃インドで拡大を続けていたイギリス東インド会社を刺激し,1814-16年,イギリス植民地軍がネパールに進攻した。いわゆるグルカ戦争 (ネパール戦争 )である。これに敗れたネパールは領土割譲,イギリス駐在官の受入れを余儀なくされたが,善戦したために植民地として併合されることなく独立を保った。内政面では内紛も多かったが,46年,政敵を大量虐殺したジャン・バハドゥール・ラナJang Bahādūr Rāṇāが王を有名無実なものとして実権を握り,以降約100年間のラナ時代の基礎を築いた。この体制下ではラナ一族がビルタbirtāという形の非課税地を大量に所有し,また文武の高官を独占した。対外的には親英政策が取られ,また20世紀前半には西欧にならっての制度改正,施設整備も行われた。
1951年,インド独立の影響をも受けた反ラナ勢力により,トリブバン王Tribhuvanの王政復古という形でラナ専制政治が終わり,政党政治が始まった。50年代は政権争い,内閣の交替が激しく政権は安定しなかったが,59年には新憲法が発布され,総選挙が行われ,ネパール国民会議派のB.P.コイララが首相となった。しかし,父王死亡の後1955年から王権を継いでいたマヘンドラ王 は60年末陸軍を動員し首相,大臣などを逮捕して全権を掌握,政党政治を廃止し,〈パンチャーヤット民主主義〉体制をしいた。72年マヘンドラ王が死去し,息子のビレンドラ Birendraが王位を継承した。1990年の〈民主化〉による新憲法では主権在民が明記され,政党政治が復活し,国王は象徴とされたが,なお非常事態宣言を発するなどの権限も保持している。
政治 1962年憲法の下では,間接選挙制の国会(国会パンチャーヤット)と地方の各レベルの行政執行組織(地方パンチャーヤット)が立法・行政の軸とされたが,政党は禁止され,任命制の首長が力を持ち,最終的には国王に権力が集中していた。その体制下で,農地改革,小作権保護,経済開発など,ある程度の進歩はあったものの,国民の不満も高まった。79~80年には反政府運動が高まったが,国民投票でからくもパンチャーヤット制存続が決まり,国会議員や首相の選出方法の手直しを含む,憲法等の部分改正によって政府は一時窮地を脱した。
1989年にはネパール・中国関係を不満としたインドが,ネパールとの通商・通過条約の更新を拒否し,事実上の経済封鎖を行うという事態が起き,困窮した国民の不満が政府に向けられた。90年2月以降,この反政府・民主化運動が激化し,デモやストライキ が続発,警官隊の発砲で多数の死傷者が出た。同年4月,ビレンドラ国王はパンチャーヤット制の廃止,政党活動禁止令の解除などの譲歩をし,非合法化されていたネパール会議派 のK.P.バッタライを首相とする新内閣が発足した。同年11月,新憲法が発布され,ネパールを多民族・多言語国家とする規定も盛り込まれた。91年,新憲法下初の総選挙でネパール会議派が多数派となり,G.P.コイララが首相となった。94年の第2回総選挙ではネパール共産党(UML)が勝利し,M.アディカリが首班となったが,95年9月の不信任案可決により退き,ネパール会議派のS.B.デウバが国民民主党,友愛党との連立内閣を組織した。しかしこの政権も97年3月,信任案の否決という形で倒れ,少数派の国民民主党(チャンド派)のL.B.チャンドが首相に任命され,UML,友愛党との連立で組閣した。これは,パンチャーヤット期の元首相が共産党(UMLゴータム派)と組み,閣僚の過半数を後者が占めるという内閣である。このように〈民主化〉以後のネパールの政局は大きな振幅をもって変わっており,安定化にはまだ時間がかかるものと思われる。
経済 ネパール経済の中心は自給的な農業で,人口の8割以上が大なり小なり農業に携わっている。農業はGDP(国内総生産)の51%を占めるが,その生産物,生産様式は地域,民族により多様である。また多くの地域では畜力,肥料,動物タンパクの摂取の面から牛,水牛,羊,ヤギなどの家畜飼育が重要である。一方,斜面の耕地化,木材・薪など飼料としての木の利用により,森林資源の枯渇の問題も起こっている。農業生産の増加は,改良品種の導入,灌漑の普及などの面で進められているが,山地部では頭打ちで,またタライの開発にも限度があり,全体として生産増加を人口増加が打ち消す形になっている。経済開発計画によって道路建設,灌漑,発電,通信施設などの面で一定の成果が現れているが,なお生産・雇用機会の拡大,国民の基本的必要の充足が強調されている。開発予算は国家予算の約60%を占めるが,その60%は国外援助によっている。工業はその促進に力が入れられているものの未発達で,家内工業,製造業(ジュート,木材,タバコ,マッチなど)を合わせてもGDPの10%程度にすぎない。輸出産品の代表は,米,ジュートなどタライの農産物であるが,米に関しては,交通上の障害からそれが必要な山地部に回らず,インドに流出してしまうという問題がある。外貨獲得にとってヒマラヤなどを対象とする観光は有望な産業で,近年の伸びが著しいが,交通機関,宿泊施設などの整備,サービスの充実に問題が残る。またイギリス軍,インド軍への〈グルカ兵〉としての出稼ぎや,インドなど近隣諸国への出稼ぎも大きな貿易外収入源となっているが,その結果,山地の村々には成人男子労働力が極端に少なくなっている例も見られる。
交通は大半の地域では徒歩に頼らざるをえないが,1950年代以来,カトマンズとタライ,チベットを結ぶ自動車道,タライの東西自動車道,山地部の町ポカラとカトマンズおよびタライを結ぶ舗装道路などが建設されている。また首都と国内,国外の主要地域は空路によって結ばれている。
社会 ネパールは多民族,多カースト国家である。その中で政治的に最も有力なのが,ネパール語を母語とする人々([住民,言語]の項の(1)-(a)に属す)の中の高位のカーストであるバウンBāhun(バラモン),チェトリChetrī(クシャトリヤ のネパール語なまり)などである。後者には国王も含まれる。また従来からこのグループに協力的だったマガル,グルンなどの人々の中には,官,軍の高官も見られる。一方,ネワールは首都を根拠地とし,商業面,文化面で隠然たる力をもっている。さらにタライのインド系住民は,経済,社会,言語,教育などの面でのインド側との結びつきが強く,政治的に微妙な存在となる可能性を宿している。ネパール政府は1963年から法制上はカースト差別を廃止し,低いカーストの人をも大臣にするなどの施策を採っている。またネパールのカースト・システム自体,インドのそれと比べて柔軟で許容度が高く,民族間,カースト間の通婚も少なくない。しかし一方,民族差がカースト差のように上下の序列の意識を伴ってとらえられているなどの面もあり,社会を考える場合,いまだに民族差とならんでカースト差を無視できない状態である。
学校教育の普及には大きな力が注がれている。学校制度は82年から小学校5年(義務教育で無料),中学校2年,高校3年,大学4年となった。大学は以前は独立していた国内のいろいろな単科大学(カレッジ)が,キャンパス の名で,すべてトリブバンTribhuvan大学の管轄下に置かれている。初等教育の就学率は1951年の就学年齢人口の1%という数字から見れば急速に増加し,65%近くに達しているが,資格のある教員の不足,中途落伍者の多さなど,質の面では問題がある。また高校までの10年の学校教育の終了証明であるSLC(School Leaving Certificate)を得る者は受験者の約1/3にすぎず,それに達しない多くの者は(政府の施策もあり)官公庁への就職の道を実質上閉ざされている。
保健・衛生面は後れており,天然痘,マラリアなどの撲滅こそ進んだが,病院,医者,看護婦などは圧倒的に不足し,また都市に偏在している。そこで政府は,速成の医療助手を養成して地方に駐在させるなどの応急的な施策を講じている。その他,乳幼児死亡率の高さ,便所の普及率の低さなど問題は多い。また一方,人口増加抑制も大問題である。総じて社会保障は未発達で,恵まれない者の世話は地域,家庭に任されている面が多い。
文化 ネパールには伝統文明の影響を受け独自の文化を育ててきた民族から,文明との接触が非常に少なく,狩猟・採集生活のなごりをとどめている人々までおり,その文化の様相は多様である。西欧文明を別とすれば,ネパールと関係の深い文明はインド文明とチベット文明で,どちらも大宗教,文字,都市を伴い,宗教色の強い文明を培ってきた。しかしネパールはどちらの中心からも離れ,また地形面から交通の制約も大きい。そのため,それらの文明との相互関係のあり方は地域,民族によって大幅に異なり,また一方では土着的要素が全国にわたって色濃く見られる。
北インド系住民([住民,言語]の項の(1)-(b)),チベット系住民(同じく(2)-(b))は,それぞれ辺境に位置してはいるが,インド文明圏,チベット文明圏にそのまま含まれる。チベット圏ではチベット仏教の僧院・仏塔建築,仏像,曼荼羅や神仏を描いた掛軸状のタンカ や壁画,経典中の絵画などが見られ,また年間数十もある儀礼の機会にはさまざまな楽器を伴う音楽や仮面踊りなどの芸能が見られる。一生のうち一時期僧院に入る人は多く,文字を読める男性は少なくないが,創作文学活動は現在ほとんど見られない。一方,北インド系住民の住むタライにはルンビニー などの仏跡,ジャナクプル のヒンドゥー寺院群,あるいは民家の壁画や浮彫などもあるが,新しい開拓地が多く,目ぼしい建築や美術は少ない。また文学もインド側の活動に依存している。
〈ネパール的〉といいうる文化はおもに北部と南部の中間の山地部の住民([住民,言語]の項の(1)-(a),(2)-(a))の間に見られる。ネパール語を母語とする人々(同じく(1)-(a))は,20世紀中葉まではヒンドゥー法 を踏まえた法律をもち軍事力にすぐれ,現ネパール王国をつくり上げたが,都市文化とは縁が薄く,ネワールの根拠地カトマンズをそのまま首都とし,宮殿建築などにもネワール様式や西欧式を採用した。一方,14世紀から文字化されたネパール語の影響力は大きく,広報,通信,教育などに広く使われるほか,18世紀以来,詩を中心に,小説,随筆,戯曲などの創作が現れ,ネパール語を母語としない人々も含む識字層において,かなりの隆盛を見ている。
チベット・ビルマ語系の諸民族(同じく(2)-(a))は自らの文字をもたず,都市も営んでこなかった。文明との接触の度合の差異が著しいのはこのグループの人々である。ただカトマンズ盆地のネワールは例外で,古くからインド文明を取り入れ都市をつくり,文字をもち,ヒンドゥー教,仏教を混交させ,独特の文芸を発展させた。建築,彫刻,絵画,金属細工を含む工芸など〈ネパールの美術〉として取り上げられるのは,ほとんどがネワールのものである。またネワール文学には14世紀以来,サンスクリットからの仏教関係などの翻訳や創作などがある。
音楽,踊り,口承・伝承は地域,民族ごとに独自性を示すが,インドやチベット的要素の混入も多い。また近年,映画,ラジオ,ビデオ,テレビ,カセットテープ などの普及に伴い,インド音楽やその影響の強い創作歌謡の流行が見られる。 執筆者:石井 溥
美術 ネパールの美術はインド美術の伝統をうけて展開し,インドがムスリム政権下にあったときも仏教やヒンドゥー教の美術を育て,チベットのそれに大きな影響を及ぼした。仏教ことに密教とヒンドゥー教が信奉され,これに民間信仰が加わってネパール独特の美術を生んだ。アショーカ王 は古都パータンに四つのストゥーパ を造営したと伝えられ,リッチャビ王朝治下の5~6世紀にインドのグプタ朝文化が導入された。8世紀に一時チベットに征服されたという説もあり,次いでムスリム軍の難を逃れるためインドのヒンドゥー教徒,仏教徒が多数流入した。14世紀前期に混乱が続いた後,14~15世紀には多くの寺院が復興され,ヒンドゥー教が国教の地位を得たが仏教も容認されて現在に至っている。
建築は木造・煉瓦造が主流を占め,最も特色あるのは中国や日本の仏塔に似た層塔建築である。方形の石造基壇の上に立つ2層,3層,ときには5層の建築で,軒を支える腕木に細緻な彫刻を施す。仏教,ヒンドゥー教の別なく祠堂として用いられ,初層のみが実用に供されている。このほかインド式の砲弾形のシカラ をもった祠堂もある。仏教のストゥーパ は多くは煉瓦造で,インドの古式を伝えた半球形の覆鉢を塔身とし,その上の箱形のハルミカーの四面に巨大な目を描くのはネパール独特の表現である。非宗教建築としてはバトガウン などに残る王宮がある。彫刻の素材は石,青銅,木が主で,ときに粘土も用いる。仏教やヒンドゥー教の尊像のほかに,民間信仰の神像,王侯像もある。遺品は5世紀以前にさかのぼるものはまれで,インドのグプタ朝後期からパーラ朝の作風を継承してネパール独自のものを作り上げていったように見える。また木造建築の装飾としての繊細な彫刻は異彩を放っている。絵画には,経典を挟む板に描かれた細密画や経典挿絵,チベットの影響が強い密教のタンカや壁画がある。 執筆者:肥塚 隆