近世の江戸における問屋仲間の連合組織。17世紀中葉ごろ,江戸および東国地域に対し,畿内や西国地域産の諸商品が下(くだ)り荷物として大坂から供給される体制が成立した。街道が幕府の統制下におかれ,商人荷にとって陸送が不便であったため,菱垣(ひがき)廻船による海運がさかんとなったが,風波による損害がしきりであり,難船勘定をめぐって廻船問屋と荷主の利害が対立することが多かった。下り荷を扱う江戸の問屋は,17世紀中葉においては荷主と注文主の間を仲介する荷受問屋が中心であったが,17世紀後半になると,自己資本で集荷する仕入問屋が成長し,廻船荷の荷主となったことから,問屋仲間によって輸送路の保全をはかる必要性に迫られ,1694年(元禄7)に小間物諸色問屋仲間である通町組所属の大坂屋伊兵衛の提唱により,問屋仲間の連合組織が結成された。通町組,内店組,塗物店組,釘店組,表店組,薬種店組,綿店組,紙店組,酒店組,川岸組の10組の参加をみたため,十組問屋,十組仲間,十組などと呼ばれた。このうち酒店組,川岸組は享保期(1716-36)に十組から脱し,酒店組は樽廻船を利用するようになり,水油問屋の仲間である川岸組は,十組に加入しなかった他の問屋仲間とともに仮船組を組織し,代わって茅町組,丸合組が十組に加わり,古組を形成した。古組からは大行事,仮船組からは総行事が出,両組は連係して難船処理をはじめとする廻船支配,船の新造・修理に対する援助などをおこなった。
しかし,難船による廻船の減少・衰微の傾向が18世紀後半から19世紀にかけて著しく,さらに問屋仲間外の商人による商品流通が活発になったため,菱垣廻船の復興と問屋仲間の流通独占をはかって,1813年(文化10)に菱垣廻船積問屋仲間が十組を中核として結成された。65組の仲間はそれぞれ株数が固定され,冥加(みようが)金を幕府に上納することによって問屋としての特権が公認された。問屋を通さぬ流通は抜荷,打越荷物として規制されることになり,問屋仲間と仲間外商人との対立が激化したが,1841年(天保12)に天保改革の一環として株仲間解散令が出されたことから,権力による流通独占保障は望めなくなった。大坂においても二十四組問屋という連合組織があったが,解散を余儀なくされ,廻船支配や難船処理の必要性から,九店(くたな)仲間を新たに結成した。これは大坂-江戸間の重要流通商品である油,紙,木綿,綿,薬種,砂糖,鉄,蠟,鰹節の9品を扱う問屋仲間の連合組織である。江戸においても,これに対応して九店を結成し,両地で連絡して廻船関係の事務を処理した。1851年(嘉永4)に幕府が問屋仲間再興令を発した後も,九店組織はそのまま存続した。ただし,問屋仲間の株数固定や冥加金上納はなくなり,幕府の方針で旧来の仲間構成員だけでなく,現状に応じての仲間加入や,中小問屋を仮組として成立させるなどの処置がなされ,十組の組織は幕末期には大きく変化した。
執筆者:林 玲子
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江戸時代、大坂から江戸に送られてくる商品いわゆる「下(くだ)り荷物」を取り扱う江戸問屋がつくった問屋仲間。大坂―江戸間の海運にあたったのは菱垣廻船(ひがきかいせん)であったが、船頭や水主(かこ)が海難を装って荷物を横領するなど不正が多かった。そこで、江戸商人大坂屋伊兵衛が発起人となり、問屋が結束して難船後の処置などを船問屋任せにせず、問屋側が厳しく管理することとして、1694年(元禄7)に十組問屋仲間を結成した。十組とその取扱商品は、塗物店(ぬりものだな)組(塗物類)、内店組(絹、太物(ふともの)、繰綿(くりわた)、小間物(こまもの)、雛(ひな)人形)、通町組(小間物、太物、荒物、塗物、打物)、薬種店組(薬種)、釘店(くぎだな)組(釘、鉄、銅物類)、綿店組(綿類)、表店組(畳表、青莚(あおむしろ))、川岸(かし)組(水油、繰綿)、紙店組(紙、蝋燭(ろうそく))、酒店組(酒)である。以上のほかの種類の商品、およびこの種類の商品でも大坂以外から江戸に入る荷物は十組問屋の取扱い範囲外である。十組問屋は組ごとに行事を定め、各組は順次に大行事を勤め、また極印(ごくいん)元を定めて廻船に関する事務を支配し、海難の損害処理などを行ったので、菱垣廻船は実質上十組問屋商人の手船同様になり、下り荷物の大部分に対して強大な独占力を発揮した。
成立の当初は内分の仲間であったが、享保(きょうほう)時代(1716~36)には幕府公認の株仲間となり、構成員も増加した。しかし江戸後期に及んで十組の独占を破って上方(かみがた)と取引する新興の江戸商人が現れ、樽(たる)廻船の興隆などに圧迫されて菱垣廻船も衰退した。そこで江戸の杉本茂十郎(もじゅうろう)が十組頭取となり、1813年(文化10)改めて菱垣廻船積問屋仲間65組として十組を再編成し、幕府に巨額の冥加金(みょうがきん)を上納してその独占力の補強を図った。天保(てんぽう)の改革の株仲間解散令で一時廃止されたが、1851年(嘉永4)再興、やがて明治維新を迎えて廃止された。
なお、武蔵(むさし)国川越(かわごえ)(埼玉県川越市)にも江戸に倣った十組仲間が1806年(文化3)に結成され、各組から1名ずつ選出された大行事が管理運営にあたった。四番組(酒仲間)、五番組(乾物仲間)、七番組(川魚仲間)、九番組(古鉄屑(ふるてつくず)仲間)、十番組(材木仲間)とされているが、詳細は不明であり、株数の制限もなかった。
[村井益男]
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江戸における問屋仲間の連合体。菱垣(ひがき)廻船での下り物を扱う問屋が海難などに共同して対処するため1694年(元禄7)に結成。当初10組からなり,各組の行事と全体の大行事で運営。のち酒店(さけだな)組が樽廻船積を開始して離脱。また河岸(かし)組が始めた仮船積には従来の十組傘下以外の問屋仲間も参加し,旧来の古方に対する仮船方として展開した。1809年(文化6)の菱垣廻船の再興と三橋(さんきょう)会所設立,13年の幕府への冥加(みょうが)上納・株札交付をへて特権的地位を強めるが,41年(天保12)株仲間解散令により解散,海運に関する機能は九店(くたな)仲間に引き継がれた。51年(嘉永4)の問屋仲間再興以降も特権的流通独占は復活できず,明治維新に至り解消した。
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…実名川上正吉。江戸十組問屋仲間創設の主唱者。江戸への商品輸送は大坂からの廻船に大きく依存していたため,下り商品を仕入れる江戸問屋は,海難処理そのほか,連合して海運に関与する必要に迫られた。…
…江戸の十組問屋を中心とする菱垣廻船積問屋仲間の会所。大坂と江戸を結ぶ菱垣廻船は,畿内産をはじめとする諸国物産を輸送したが,海難による被害が著しく,樽廻船との競合もあって,18世紀後半以降衰退しつつあった。…
… 菱垣廻船は1619年(元和5)泉州堺の商人が,紀州富田浦の250石積廻船を借りうけ,大坂より江戸への日常生活物資を積み送ったのがその始まりで,24年(寛永1)には大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積船問屋を開業し,27年に毛馬屋,富田屋,大津屋,顕屋(あらや),塩屋の5軒が同じく江戸積船問屋を始めるにいたって,大坂の菱垣廻船問屋が成立し,この廻船問屋によって菱垣廻船が仕立てられた。こうして江戸・大坂間の海運が盛んになり,94年(元禄7)に江戸の菱垣廻船積合荷主が協議して,江戸十組問屋(とくみどんや)を結成し廻船はその共同所有となり,また十組問屋は菱垣廻船問屋運航の差配機関となった。しかし1730年(享保15)に十組問屋の酒問屋(さかどいや)が十組仲間から脱退して,酒荷専用の樽廻船を独自に運航させた。…
※「十組問屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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