反右派闘争 (はんうはとうそう)
Fǎn yòu pài dòu zhēng
1957年に中国でおこなわれた中国共産党に反対するブルジョア右派分子を摘発する闘争をさす。1956年,スターリン批判直後の〈雪どけ〉ムードが波紋をひろげるなかで,中共宣伝部長陸定一は,〈百花斉放,百家争鳴〉を呼びかけたが,それは一種の〈自由化政策〉と人々の眼に映った。翌57年には毛沢東が《人民内部の矛盾を正しく処理する問題について》と題する演説をおこなったことで,〈自由化〉のムードはいっそうかき立てられた。こうしたなかで,同年5月から中共が整風運動を開始し,党外にも協力を呼びかけた。かくして,民主党派をはじめとする党外人士から,建国以後の党の官僚主義的ひきまわしを痛烈に批判する発言が相次ぎ,党内でもこれに呼応する声が出て,学校,職場,機関には大字報が貼られ,騒然となった。
初め,党は沈黙を守っていたが,約1ヵ月後の同年6月10日から巻返しに転じ,全国で党内外のブルジョア右派分子を摘発する運動が展開された。これが,反右派闘争である。摘発は,文化,教育,報道,衛生といった知識人の集中しているところがとくにきびしく,それぞれの単位で摘発すべき右派分子の比率を上の方であらかじめ指定するといった無茶な方法がとられたため,まじめな批判であると否とにかかわらず,党を批判したものはほとんどこの網にからめとられた。このとき摘発されたものは,数十万人ともいわれる。右派分子のレッテルを貼られると,本人が強制労働にやられるのみならず,親子から親類縁者までその累はおよんだ。のちにレッテルをはがされてからも,履歴の傷はついてまわった。それから20年後の文化大革命終息後になって,中共中央は,反右派闘争では情勢を見誤って不必要な拡大化の誤りを犯したとして,毛沢東の責任を問い,すべての右派分子のレッテルをはがし,その名誉を回復したが,この闘争が中国知識界に与えた傷痕は,はかり知れない。
執筆者:吉田 富夫
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反右派闘争
はんうはとうそう
Fan-you-pai touzheng
1957年6月から年末にかけて中国で行なわれた,いわゆる右派分子に対する思想・政治闘争。1956年から 1957年初頭にかけ,自由な発言を奨励する「百花斉放百家争鳴」の運動が展開されたが,民主党派や知識分子による中国共産党批判がさまざまなかたちで激化したため,共産党が反批判を開始した。1957年6月8日『人民日報』社説は反右派闘争の口火を切り,9日の社説も「積極的な批判も必要であるが,正しい再批判も必要である」として反撃に転じ,26日から 7月15日まで開かれた全国人民代表大会第4回会議は反右派闘争と右派分子自己批判の大会となった。共産党の「天下」やプロレタリア独裁を批判した知識人は右派分子として孤立し,章伯鈞,羅隆基,儲安平らは糾弾の的となって完全に政治的発言力を失った。反右派闘争は整風運動と一体となって 8月頃から全国的な運動に発展し,民衆に対する社会主義教育運動とも結びついて,1958年の大躍進へと展開していった。1970年代末,「四つの現代化」政策のもとで 1957年に右派とされた 55万人のうち 53万人余は冤罪,残りの大部分も名誉回復された。
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反右派闘争(はんうはとうそう)
1957年6月,中国共産党が民主諸党派,知識人に向けて発動した政治運動。49年の中華人民共和国成立後,中国国内ではたび重なる思想改造運動が繰り返され,55年には胡風(こふう)批判運動が全国的規模で実施された。56年になると中国共産党は,前年度の政策とは180度異なる「百花斉放・百家争鳴」政策を提唱し,学術領域での「自由化」政策を実施した。混乱なく社会主義改造を達成した共産党は,知識人からの社会主義建設への協力を緊急に求めたのである。同時に,東欧の社会主義国家の混乱を目撃した毛沢東は,共産党が官僚主義の弊害に陥っている状況を憂慮し始め,翌57年に党外からの政権への自由な批判を求めた。しかし,毛沢東の呼びかけに応えた民主諸党派,知識人の意見は,共産党の存在を疑問視するまでに高まり,その結果,反右派闘争へと政策が転換した。そのとき,罪を問われた人々の名誉回復は,78年以降のことである。現政権は,反右派闘争の誤りは拡大しすぎたことにあるとしている。
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反右派闘争
はんうはとうそう
中国で1957〜58年にかけて行われた「ブルジョワ右派」に対する政治的弾圧
1956年の中国共産党中央による「百花斉放・百家争鳴」の呼びかけに応じて,「民主諸党派」などの知識人が中国共産党の独裁政治批判や自由化を求める発言を行った。これに危機感を感じた毛沢東は「ブルジョワ右派分子」による政権転覆の陰謀があると断じ,一転して弾圧を指令。55万人もの知識人が右派のレッテルを貼られて職を失い,労働改造所などに送られた。これ以後学校では政治思想教育の徹底がはかられ,「民主諸党派」は完全に無力化した。また中国共産党への批判は不可能となった上に,党内部でも毛沢東への個人崇拝が絶対化されたため,無謀ともいえる大躍進運動に道を開くことになった。なお,右派とされた人々の大部分は文革終結後にようやく名誉回復されたが,反右派闘争自体は正しく必要なものであったと中国共産党により総括されている。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の反右派闘争の言及
【中華人民共和国】より
…中共はこのとき,党員のサラリーを党外大衆より一段下げるとか,国家機関や社会組織における党員の割合を3分の1以下におさえるとか,〈党〉の特権化を防ぐ具体的処置を講ずべきであったろう。 ところが,57年6月,中共は突如として〈反右派闘争〉に転じ,〈党〉に批判的意見を出した党内外の大量の知識人に対して,反革命分子とほとんど同義語で,しかも事実証明の要らない〈右派分子〉なるレッテルをはって,社会的にこれを葬ったのである。きっかけとなった論文〈事態は変化しつつある〉を書いたのは毛沢東であったが,ともかくこれ以後,中共は,〈党〉外から栄養を吸収する道をみずから閉ざしてしまい,行政機関や社会組織は上から下まで事実上〈党〉の単一支配と化し,〈党〉のやり方に〈党〉外から文句をつける〈正直者〉は姿を消した。…
【中国文学】より
…彼は,中共中央に提出した長文の《文芸に関する意見》(1954)で,〈指導〉という名の党の干渉こそは文芸を窒息させるもとであるとして,文芸により広範な自由を与えよ,と主張したが,中共は毛沢東の直接指導下に,胡風を〈反革命分子〉として断罪した。ついで,反右派闘争(1957)の過程では,党の官僚主義を批判する作品を書いた若い作家の王蒙や劉賓雁などが〈右派分子〉として批判され,これ以後,党の〈指導〉を問題にすることは,事実上タブーとなった。 むろん,だからといって作家たちがまったく窒息させれられていたわけではなく,50年代末から60年代初めにかけては質的にかなり高い作品が数多く現れた。…
【百家争鳴】より
… このスローガンの背景となったのは,建国後の[《紅楼夢研究》批判],[胡適思想批判],[胡風批判]などの激しいブルジョア観念論批判によってもたらされた学術・思想界,文芸界の萎縮した状況を是正し,積極的な社会主義建設を遂行するためには知識人の結集を必要とするという党中央の意志があった。しかし予期に反した党に対する批判が激発した結果,1957年,[反右派闘争]が開始され,〈百家争鳴〉は鳴りやみ,〈百花斉放〉はしぼんでしまった。社会主義建設における党の指導性を否定する恐れを党中央がいだいたがためであった。…
※「反右派闘争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」