改訂新版 世界大百科事典 「嘉吉の土一揆」の意味・わかりやすい解説
嘉吉の土一揆 (かきつのつちいっき)
本来は嘉吉年間(1441-44)に起きた土一揆の総称とすべきであるが,一般的には1441年(嘉吉1)の大規模な土一揆を指す。同年8月に起きた近江国の土一揆は,守護六角氏を攻めて徳政令を発布させることに成功したが,その法令は明らかでない。ただしこの過程で同国奥嶋・北津田両荘では,沙汰人の名で独自の徳政令が出され,その法令が高札の形で伝えられているところから,在地徳政令の一つとして有名である。ついで土一揆の蜂起は山城国に伝わり,8月28日に在々所々の土一揆が清水坂において侍所京極持清の兵と戦ったのを口火として,しだいに高揚をみせ,9月5日には京都の周囲16ヵ所に陣取り,連日京中を攻めている。このため京都への物資の流入が止まり,京中は飢饉の状態を呈したといわれる。ついに同12日には一国平均の徳政令が京都七口に高札として立てられた。室町幕府が認めた最初の徳政令である。この間,一揆勢は幕府に再三の交渉を行い,土民だけを対象とした徳政令ではなく,公家,武家を含めた〈皆同〉の徳政令を要求した。そのために,〈一国平均〉の徳政令が発布されたのである。また一揆が借銭の破棄や質物の取返しだけではなく,永代売買地を旧主に返すことを徳政令の内容として要求した点も重視する必要がある。徳政令の細目を明らかにするため,閏9月10日に出された政所壁書の第1条では,20ヵ年未満の永領地は旧主に返すことが規定されていた。ところが,これに対して山門以下の銭主(貸主)が強い反発を示したために,同18日にいたり,先の壁書は破棄され,永領地は徳政令の対象から除外された。その規模においても,要求の具体性においても,徳政一揆の頂点を示したものである。このほか同年には三河国,若狭国においても土一揆の蜂起があり,守護代を追い出したことが知られている。
→嘉吉の徳政
執筆者:黒川 直則
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報