デジタル大辞泉
「宇野千代」の意味・読み・例文・類語
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うの‐ちよ【宇野千代】
- 小説家。山口県出身。岩国高等女学校卒。小学教員を経て、大正一〇年(一九二一)「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞小説に入選し、作家生活にはいる。「色ざんげ」「人形天狗屋久吉」「おはん」ほかの作がある。明治三〇~平成八年(一八九七‐一九九六)
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宇野千代
うのちよ
(1897―1996)
小説家。明治30年11月28日、山口県岩国町生まれ。旧制岩国高等女学校卒業。処女作『脂粉(しふん)の顔』(1921)が『時事新報』の懸賞小説に当選、札幌より上京し、尾崎士郎を知り同棲(どうせい)。三好(みよし)達治、梶井(かじい)基次郎、川端康成(かわばたやすなり)、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)らを知る。1930年(昭和5)に小説取材のため東郷青児に会い同棲し、初期の代表作『色ざんげ』(1933~35)を書く。新帰朝の洋画家湯浅譲二の語りで運ばれるみずみずしい恋愛冒険小説。東郷と別れ、『別れも愉(たの)し』(1935)、『未練』(1936)を発表。36年スタイル社を創立。北原武夫(たけお)を知り『クレーブの奥方』などフランス心理小説の影響を受ける。38年には『文体』を創刊、翌年北原と結婚した。第二次世界大戦中は『中央公論』に『人形師天狗(てんぐ)屋久吉』(1942)を発表。徳島に浄瑠璃(じょうるり)人形の職人久吉を訪ねたその聞き書きで、語り芸の一段階を画するものとなった。戦後『文体』を復刊(1947)、4号で終刊(1949)するまで『おはん』を連載、この作品は10年後『中央公論』で完結(1950~57)した。また『刺す』(1963~66)は、この当時の事業と愛の破綻(はたん)をつづった一人称告白体の小説であり、モラリストを思わせる静謐(せいひつ)な語り口は定評がある。64年北原と離婚。『風の音』(1969)、『幸福』(1970)、『或る一人の女の話』(1982)などの自伝的作品、回想記『生きて行く私』(1982~83)など盛んな活動を続けた。
[田中美代子]
『『宇野千代全集』全12巻(1977~78・中央公論社)』
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宇野 千代
ウノ チヨ
大正〜平成期の作家
- 生年
- 明治30(1897)年11月28日
- 没年
- 平成8(1996)年6月10日
- 出生地
- 山口県玖珂郡横山村(現・岩国市川西町)
- 学歴〔年〕
- 岩国高女〔大正3年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 野間文芸賞(第10回)〔昭和32年〕「おはん」,女流文学者賞(第9回)〔昭和33年〕「おはん」,日本芸術院賞(第28回)〔昭和46年〕,女流文学賞(第10回)〔昭和46年〕「幸福」,勲三等瑞宝章〔昭和49年〕,菊池寛賞(第30回)〔昭和57年〕,文化功労者〔平成2年〕
- 経歴
- 小学校教員を経て、大正6年上京。ホテルの給仕、記者などを務め、芥川龍之介、久米正雄らと知り合う。8年結婚し、夫とともに札幌に渡るが、10年処女作「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞に当選すると夫を捨てて上京、作家活動に入る。尾崎士郎、東郷青児らと華やかな恋愛生活を送り、昭和11年スタイル社を創立、服飾雑誌「スタイル」を発刊。14年には北原武夫と結婚。戦後二人で同社を再興し「きもの読本」などを出したが、経営困難となり、倒産後の39年北原と離婚。東郷をモデルにした「色ざんげ」の他、「おはん」「刺す」「風の音」「或る一人の女の話」「薄墨の桜」など多くの作品を残した。58年「毎日新聞」に連載した自伝「生きて行く私」がベストセラーとなった。平成2年文化功労者。着物のデザイナーとしても有名。「宇野千代全集」(全12巻 中央公論社)がある。
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宇野千代【うのちよ】
小説家。山口県生れ。岩国高等女学校卒。結婚して札幌に住んだが,新聞の懸賞小説につづけざまに当選,1921年単身上京して作家生活に入った。第2次世界大戦前では《中央公論》に発表した《色ざんげ》などが代表作。戦後は北原武夫と雑誌《スタイル》を刊行。1957年完結の《おはん》で野間文芸賞,女流文学者賞を受賞。尾崎士郎,東郷青児,北原武夫らと結婚,恋愛に関する著書が多い。他に《或る一人の女の話》《私の文学的回想記》など。《宇野千代全集》全12巻。《不思議なことがあるものだ》は最晩年の短編とエッセーを収める。
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宇野千代 うの-ちよ
1897-1996 大正-平成時代の小説家。
明治30年11月28日生まれ。大正10年新聞の懸賞小説入選を機に作家生活にはいる。昭和10年「色ざんげ」で注目される。32年「おはん」で野間文芸賞,女流文学者賞。尾崎士郎,東郷青児との恋愛,北原武夫との結婚・離婚,スタイル社の経営など実生活も波乱にとみ,85歳で刊行した自伝「生きて行く私」はベストセラーとなった。平成2年文化功労者。芸術院会員。平成8年6月10日死去。98歳。山口県出身。岩国高女卒。
【格言など】人間は自分の可厭(いや)なことは決してしないものだ(「行く」)
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宇野千代
うのちよ
[生]1897.11.28. 山口,岩国
[没]1996.6.10. 東京
小説家。 1914年岩国高等女学校卒業。女性的な情感にあふれた作風で知られる。代表作『色ざんげ』 (1933~35) ,『おはん』 (47~57) ,『或る一人の女の話』 (71) ,『生きて行く私』 (83) 。 72年日本芸術院賞受賞。芸術院会員。 82年,菊池寛賞を受賞。 90年文化功労者に選出された。
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宇野 千代 (うの ちよ)
生年月日:1897年11月28日
大正時代-平成時代の小説家
1996年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の宇野千代の言及
【カフェ】より
…昭和初年までこうしたカフェーは全盛をきわめ,とくに大阪系の大カフェーは濃厚なサービスで売った。また,都心以外の地域にも多くのカフェーができ,昭和期の女流作家たちの中には林芙美子,宇野千代,佐多稲子など,そうした店で女給づとめをした人も少なくない。第2次大戦後,カフェーの名称は風俗営業の一形態を示す行政用語として使用されるだけになり,一般的にはコーヒーその他の軽飲食物を提供する店は喫茶店,女性のサービスを伴う酒場はバーやキャバレーなどの名称で呼ばれるようになった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」