江戸後期、寛政の改革の一環として行われた学問統制。1790年(寛政2)5月、幕府は大学頭(だいがくのかみ)林信敬(のぶたか)に対し、昌平黌(しょうへいこう)においては正学たる朱子(しゅし)学のみを講究し、異学すなわち朱子学以外の学問は禁ずる旨を達した。これを寛政異学の禁という。
江戸幕府は成立以来、儒学とくにそのうちでも朱子学を、封建教学の根本とした。しかしやがて、時代の趨勢(すうせい)にマッチしない朱子学に飽き足らぬ人々が多くなり、「知行合一(ちこうごういつ)」を説く実践的な儒学である陽明学や、直接に孔子、孟子(もうし)の経典を研究することによってその真の精神を明らかにしようとする古学派や、さらには、いずれの学派にも偏せず学問研究法の自由を主張する折衷派など、朱子学以外の学問が盛んになった。これに対して、幕府の教学体制の中心である林家(りんけ)には人材が出ず、朱子学は衰える一方であった。寛政の改革を主導した老中松平定信(さだのぶ)は、このような情勢に対処して、封建教学再建のために朱子学を振興し、これを官学として明確に位置づけるために異学の禁を断行したのである。幕府は朱子学者の柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(かんせん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)らを登用し、さらに美濃(みの)岩村藩主松平乗薀(のりもり)の三男乗衡(のりひら)を、信敬没後の林家の養子に迎えて大学頭に任じ(林述斎(じゅっさい)という)、昌平黌の学制改革を推進させるなど、教学体制の強化を図った。異学の禁は、あくまでも幕府内部の規制であり、諸藩に強制したものではなかったが、冢田大峯(つかだたいほう)、豊島豊洲(ほうしゅう)、亀田鵬斎(ほうさい)、山本北山(ほくざん)、市川鶴鳴(かくめい)らは異学の禁に強く反対し、「異学の五鬼」とさえ称された。しかしこうした反対にもかかわらず、幕府の手厚い保護により朱子学がいささかなりとも復興したことは否めぬ事実である。なお、異学の禁は、以上のような単なる学問統制にとどまらず、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとするものでもあった点が注目される。
[竹内 誠]
『和島芳男著『昌平校と藩学』(1962・至文堂)』▽『衣笠安喜著『折衷学派と教学統制』(『日本歴史12 近世4』所収・1963・岩波書店)』
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寛政改革の一つとして行われた江戸幕府の教学振興策。1790年(寛政2)5月,聖堂預り林大学頭信敬に塾内での教育は朱子学専一にすべき旨を達した。当時,徂徠学派,仁斎学派,折衷学派の流行に対して幕府の林家塾は不振の状態であり,朱子学擁護論が安永(1772-81)ごろから出始め,松平定信の老中就任によって実現した。頼春水,尾藤二洲,柴野栗山,古賀精里,西山拙斎らの主張,とくに西山拙斎の定信への建白が強かったという。この通達を一般学界に対する禁令ととって,江戸では冢田大峰,市川鶴鳴,豊島豊洲,亀田鵬斎,山本北山ら,関西では皆川淇園,巌垣竜渓,村瀬栲亭,佐野山陰,片山北海,赤松滄洲らの猛反対があった。この禁令は幕府の教育機関を中心として旗本を対象としたもので,全国的に諸藩に令したものでもなく全国的に朱子学統一を志向したのでもなかった。幕府の改革は98年ごろまで続き,御学問所(昌平坂)の制度が確立し,学科内容や登用試験に朱子学を用いることになった。諸藩にも尾張藩,会津藩,彦根藩のように折衷派や徂徠派の学者を教官とする藩もあったが,幕府の意向を忖度(そんたく)して藩校に朱子学者を用いる傾向があった。
執筆者:山本 武夫
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1790年(寛政2)老中松平定信が林大学頭信敬に対し,家塾での朱子学以外の講学を禁じたもの。古学や折衷学が盛行するなか,幕府は朱子学を正学と定め,寛政の改革の正統イデオロギーとした。異学の禁は幕臣教育と民衆教化を正学によって行うことの明示で,続く学問吟味や素読吟味の実施および昌平坂学問所という林家塾の幕府直轄化など,寛政の改革における一連の教学政策の前提として諸藩に大きな影響を与えた。この背後には柴野栗山と連携した西山拙斎(せっさい)・頼(らい)春水・尾藤二洲(じしゅう)ら異学の禁政策推進派の動きがある。禁令は異学自体の否定ではなく,思想統制を意図したものでもなかったが,その影響は大きく,諸藩でも古学派・折衷学派の排斥と朱子学の復興があいついだ。
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