湯島聖堂(読み)ユシマセイドウ

デジタル大辞泉 「湯島聖堂」の意味・読み・例文・類語

ゆしま‐せいどう〔‐セイダウ〕【湯島聖堂】

聖堂せいどう

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精選版 日本国語大辞典 「湯島聖堂」の意味・読み・例文・類語

ゆしま‐せいどう‥セイダウ【湯島聖堂】

  1. せいどう(聖堂)[ 二 ]
    1. [初出の実例]「湯島聖堂(ユシマセイドウ)のうしろに、風鈴蕎麦と箒売と団炭うり、荷をおろし休みけるに」(出典:咄本・都鄙談語(1773)音楽)

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日本歴史地名大系 「湯島聖堂」の解説

湯島聖堂
ゆしませいどう

[現在地名]文京区湯島一丁目

聖堂は孔子を祀った祠堂で、孔子廟ともいう。国指定史跡。寛永九年(一六三二)上野忍ヶ岡しのぶがおかにあった林羅山の私塾に建てられた先聖殿を元禄三年(一六九〇)五代将軍徳川綱吉が湯島の当地へ移し、以後聖堂あるいは湯島聖堂とよばれるようになった。また聖堂移転後、一帯は孔子の生地である魯の昌平郷にちなみ昌平坂しようへいざかとよばれた。

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百科事典マイペディア 「湯島聖堂」の意味・わかりやすい解説

湯島聖堂【ゆしませいどう】

東京都文京区湯島にある孔子廟。1691年将軍徳川綱吉が上野忍岡から移建。大成殿の額を掲げ昌平黌とした。杏壇(きょうだん)門,仰高門,入徳門など孔子廟の格式を備え,仰高門講経,仰高門日講などは釈奠(せきてん)とともに特徴ある行事であった。1799年建造のものが関東大震災焼失伊東忠太の設計で再建
→関連項目元禄の大火昌平坂学問所東京国立博物館

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国指定史跡ガイド 「湯島聖堂」の解説

ゆしませいどう【湯島聖堂】


東京都文京区湯島にある孔子廟(こうしびょう)。聖堂は3度の江戸の大火、関東大震災、第2次世界大戦時の空襲によって焼失・改修を繰り返して現在にいたるが、もともとは、1632年(寛永9)、徳川幕府の政治顧問であった林羅山(はやしらざん)が上野忍岡(しのぶがおか)(現在の上野公園)に建てた孔子廟「先聖殿」を移築したもの。徳川綱吉は先聖殿を「大成殿」と改称し、それに付属する建物を含めて「聖堂」と総称し、建物全体を朱塗りにして青緑に彩色したと記録に残されており、1922年(大正11)に国の史跡に指定された。翌年の関東大震災で全焼したため、復興計画が立てられ、1935年(昭和10)に竣工、木造だった建物は鉄筋コンクリート造りに、大成殿は建物内外を黒色エナメルペイント塗りにし、屋根は入り母屋造りで両端に青銅製の鬼犹頭・鬼龍子を置いた。現在、構内に建てられている世界一大きい孔子像は、1975年(昭和50)に中華民国台北ライオンズクラブから贈られたものである。JR総武線ほか御茶ノ水駅から徒歩約2分。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「湯島聖堂」の意味・わかりやすい解説

湯島聖堂
ゆしませいどう

江戸湯島(東京都文京区)にあった孔子廟(こうしびょう)大成殿の別称。1690年(元禄3)上野忍ヶ岡(しのぶがおか)(台東(たいとう)区)より移したものである。また、同敷地内に幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)があり、その通称でもあった。いずれも関東大震災でほぼ全焼し、その後再建された建築物をまとめてさす通称でもある。

[編集部]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「湯島聖堂」の解説

湯島聖堂
ゆしませいどう

東京都文京区にある。1632年(寛永9)林羅山(らざん)が上野忍ケ岡の家塾内に設けた聖堂を,90年(元禄3)湯島昌平坂(しょうへいざか)に移したのに始まる。「江戸名所図会」によれば,入徳門を入ると,1段高くなり,上段に杏壇(きょうだん)門,大聖堂(大成殿),廻廊を配する。これは1799年(寛政11)昌平坂学問所開設と同時に行われた改造後の姿である。現存の聖堂は関東大震災ののち1933年(昭和8)に再建された鉄筋コンクリート造。国史跡

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旺文社日本史事典 三訂版 「湯島聖堂」の解説

湯島聖堂
ゆしませいどう

江戸中期,幕府が江戸湯島に建てた孔子廟 (びよう)
1632年林羅山が上野忍ケ岡に建てた孔子廟を,'90年5代将軍徳川綱吉が湯島に移し,大成殿と称した。これに林家の私塾が付属していたが,寛政の改革の異学の禁で官立の昌平坂学問所となり,聖堂・学問所ともに林家が世襲経営した。現在文京区湯島に残る聖堂の建物は関東大震災後に再建されたもの。

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世界大百科事典(旧版)内の湯島聖堂の言及

【孔子廟】より

…孔子廟はのちに全国各地の府県に建てられたのみならず,儒教を信奉する外国にも設けられた。日本では東京の湯島聖堂,朝鮮ではソウル市鍾路区明倫洞の文廟が著名である。【三浦 国雄】。…

【湯島】より

…のちに坊主方,台所賄方,陸尺方などの給地内には神田明神下同朋町,同御台所町,妻恋町などの拝領町屋敷が起立した。なお,湯島天神とともに当地を代表する湯島聖堂は,1690年(元禄3)上野忍岡から湯島1丁目西側に移され,昌平坂学問所(昌平黌)を併設して幕府教学の拠点となった。1878年の郡区町村編制法によって,湯島地域の大部分は東京府本郷区に,神田明神周辺は神田区にそれぞれ所属した。…

【林家】より

…家禄も1500石(述斎のときは3500石に増)に至り,儒官としては抜群の家格で,幕府崩壊まで続いた。また89年(元禄2)の湯島聖堂改築より祭酒,聖堂預りとなり,教育は八代洲河岸(やよすがし)と湯島で行われ,寛政年間(1789‐1801)の学制改革で昌平坂学問所として幕府の学校整備が行われた後も一貫してその任に当たり,儒学界に占めた地位は大きかった。その間,歴代当主に学力の差,早世,時勢の変化があって盛衰があり,他学派の隆盛に押されることもあって,幕政参与は鵞峯以後漸次少となり,鳳岡,述斎を除いてはほとんど無力であった。…

※「湯島聖堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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