平忠度(読み)タイラノタダノリ

デジタル大辞泉 「平忠度」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐ただのり〔たひら‐〕【平忠度】

[1144~1184]平安末期の武将・歌人。忠盛の子。清盛の弟。薩摩守さつまのかみ藤原俊成に師事して和歌をよくし、平氏西走の途中、京都に引き返して師に詠草1巻を託した話は有名。一ノ谷の戦いで戦死。

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精選版 日本国語大辞典 「平忠度」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐ただのり【平忠度】

  1. 平安末期の武将、歌人。忠盛の子。清盛の末弟。正四位下薩摩守。藤原俊成に師事して和歌をよくし、平家西走の途中京都に引き返して師に詠草一巻を託した話は有名。一ノ谷の戦いで戦死。天養元~寿永三年(一一四四‐八四

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改訂新版 世界大百科事典 「平忠度」の意味・わかりやすい解説

平忠度 (たいらのただのり)
生没年:1144-84(天養1-元暦1)

平安末期の武将。忠盛の子。清盛の弟。正四位下薩摩守。武勇にすぐれるとともに,藤原俊成に師事して和歌をよくした。1180年(治承4)の富士川の戦,83年(寿永2)の北陸遠征の副将軍などをつとめたが一ノ谷の戦で戦死。なお都落ちの途中で京都に引き返し詠草した1巻を俊成に託した話は有名である。自撰集《平忠度朝臣集》がある。
執筆者:

平家物語》の〈忠度都落〉は,平家一門の運命を自覚した忠度が,都落ちにあたって,今生の思い出に俊成に和歌を託し,勅撰集への入集を乞うというものであるが,武人としての名誉よりも,和歌への執心を貫こうとしている。〈忠度最期〉では,一ノ谷での壮烈な討死の後,箙(えびら)に付けた和歌が発見され,最後まで風雅を失わぬ人柄が,人々の賞賛を得ている。忠度の入集への執心にもかかわらず,歌は〈読み人知らず〉として《千載集》に入れられ,その恨みを妄執として能の世界に移し変えたものが《忠度》である。〈行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし〉と詠んだ桜の木を墓標とする忠度の魂魄(こんぱく)が,合戦模様や妄執のいわれを僧に語って回向(えこう)を頼むというものである。《申楽談儀》において世阿弥は,〈通盛,忠度,義経三番,修羅がかりにはよき能なり。このうち忠度上花か〉と自賛している。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平忠度」の意味・わかりやすい解説

平忠度
たいらのただのり

[生]天養1(1144).京都
[没]元暦1(1184).2.7. 摂津,一ノ谷
平安時代末期の武将。薩摩守,正四位下。忠盛の子,清盛の弟。源平の合戦 (→治承の内乱 ) に活躍したが,一ノ谷の戦いで討たれた。小さいときから藤原俊成について和歌を学び,『千載集』『新勅撰和歌集』『玉葉集』などに 11首選ばれている。平家の一門が都落ちした際,わざわざ淀から俊成のもとに取って返し,勅撰和歌集撰進のときは,自分の和歌も選んでほしいと依頼した。そこで俊成が『千載集』に「故郷の花」と題した1首を選び入れたが,朝敵平氏の出であるという理由で,「詠人不知 (よみびとしらず) 」とした。「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」がそれである。歌集『平忠度朝臣歌集』がある。

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朝日日本歴史人物事典 「平忠度」の解説

平忠度

没年:元暦1.2.7(1184.3.20)
生年:天養1(1144)
平安末期の武将,歌人。忠盛の子,清盛の末弟で,母は藤原為忠の娘ともいうが未詳。極官は正四位下薩摩守。源平争乱勃発以来,治承4(1180)年の富士川の戦,翌年の墨俣川の戦,寿永2(1183)年の礪波山の戦などの合戦に大将軍のひとりとして参戦。また歌人として有名で勅撰集にも入集。寿永2年の平氏都落ちに際し,師藤原俊成に詠草1巻を託した逸話は有名。そのなかの一首「さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山さくらかな」は『千載集』によみ人知らずとして載る。またその詠草も『平忠度集』(『群書類従』和歌部)として現存。翌元暦1(1184)年,一の谷の戦において岡部六弥太忠澄に討たれた。武将ながら風雅に長けた平氏の公達の典型であった。

(元木泰雄)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平忠度」の意味・わかりやすい解説

平忠度
たいらのただのり
(1144―1184)

平安末期の武将、歌人。忠盛(ただもり)の子、清盛(きよもり)の弟。正四位下薩摩守(さつまのかみ)。武人として優れているとともに、藤原俊成(しゅんぜい)に師事して、歌人としても有名。富士川における源氏との戦い(1180)に活躍し、1181年(養和1)と83年(寿永2)には、木曽義仲(きそよしなか)を討つべく北陸道に進撃した。しかし平氏の形勢は不利で、翌84年(元暦1)2月の一ノ谷の戦いで戦死した。「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主(あるじ)ならまし」の一首を身につけていたという。和歌の師俊成が撰進(せんしん)した『千載(せんざい)和歌集』をはじめ諸歌集に歌を残している。自撰和歌集『平忠度朝臣(あそん)集』がある。

[田辺久子]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平忠度」の解説

平忠度 たいらの-ただのり

1144-1184 平安時代後期の武将。
天養元年生まれ。平忠盛の子,平清盛の弟。源平の争乱で富士川の戦い,墨俣(すのまた)川の戦いなどの大将軍のひとり。寿永3年2月7日一ノ谷の戦いで源氏方の岡部忠澄に討たれた。41歳。歌人としてもすぐれ,藤原俊成に師事,歌は「千載和歌集」などにみえる。家集に「平忠度朝臣集」。
【格言など】さざ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな(「千載和歌集」)

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百科事典マイペディア 「平忠度」の意味・わかりやすい解説

平忠度【たいらのただのり】

平安末期の武将。忠盛の子。清盛の弟。薩摩守(さつまのかみ)。和歌をよくし,平家西走の途中京都に引き返し,師の藤原俊成(としなり)に歌集1巻を託した話は有名。一ノ谷の戦で戦死。

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世界大百科事典(旧版)内の平忠度の言及

【忠度】より

世阿弥作。シテは平忠度の霊。旅の僧(ワキ)が須磨の浦で山から薪を運ぶ老人(前ジテ)に出会い,平忠度にゆかりのある桜の木のもとで,忠度の弔いを頼まれる。…

※「平忠度」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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