日本大百科全書(ニッポニカ) 「平藩」の意味・わかりやすい解説
平藩
たいらはん
陸奥(むつ)国磐城(いわき)平(福島県いわき市)地方を領有した譜代(ふだい)藩。初め岩城(いわき)氏の領有で、1594年(文禄3)佐竹氏が総検地を実施、12万4650石となったが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの際徳川氏に加わらず翌年除封。かわって関ヶ原の戦いで伏見(ふしみ)城防戦で戦死した鳥居元忠の子忠政が下総(しもうさ)国矢作(やはぎ)(千葉市)から10万石(のち12万石)で加増転封し、ここに譜代の平藩が成立した。入封後、鳥居氏は平城の修築、町割(まちわり)の整備と、さらに1608年領内に総検地を施行し、新田649町余を開いた。総検地で確定した村高は、この後1647年(正保4)幕府の郷帳の基準高となった。22年(元和8)忠政は出羽(でわ)国山形へ転封、新たに上総(かずさ)国(千葉県)佐貫(さぬき)から内藤政長が7万石(実高9万石)で入封した。2代忠興(ただおき)のとき38年(寛永15)総検地を行い、城下町の整備、知行(ちぎょう)制と農政の改革などを実施し、藩体制はここに確立した。
1677年(延宝5)3代義概(よしむね)は家訓を制定したが、これを「義概家訓」といい武家の家訓として著名である。6代政樹(まさき)の代、1738年(元文3)藩の苛政(かせい)に対し、年貢減免などを要求して8万4000人からなる全藩一揆(いっき)が発生した。この一揆が要因となり、47年(延享4)内藤氏は日向(ひゅうが)国(宮崎県)延岡(のべおか)へ転封となり、この後に常陸(ひたち)国(茨城県)笠間(かさま)6万石井上正経(まさつね)が、56年(宝暦6)井上氏の転封によって美濃(みの)国(岐阜県)加納(かのう)5万石安藤信成(のぶなり)が入封、以後平藩は7代、150年間安藤氏の治世が続いた。歴代藩主のうち4代信睦(のぶゆき)は1860年(万延1)老中に昇進、公武合体を推進したが坂下門外の変で負傷、老中を罷免されて隠居後2万石に減封された。明治維新には奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加わった。1871年(明治4)廃藩、平地方は磐城平県、平県、磐前県を経て福島県に編入された。
[神﨑彰利]