最上義光(読み)モガミヨシアキ

デジタル大辞泉 「最上義光」の意味・読み・例文・類語

もがみ‐よしあき【最上義光】

[1546~1614]戦国末から江戸前期の武将。山形藩主最上家初代。出羽山形城を拠点に上杉景勝伊達政宗らと争う。豊臣秀吉に帰順したが、関ヶ原の戦いでは東軍として出羽で景勝の兵と戦い、その功として57万石に加増された。

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朝日日本歴史人物事典 「最上義光」の解説

最上義光

没年:慶長19.1.18(1614.2.26)
生年:天文15(1546)
戦国末・近世初期の武将。奥州管領斯波家兼の子兼頼は延文1/正平11(1356)年羽州管領(のち探題)として山形に入部し,最上氏を名乗る。最上氏は最上,村山2郡を掌握し(分郡の形成),一族を領内に配して勢力を扶植していった。義光は義守の長子として生まれたが,父義守は次男義時を偏寵したため元亀1(1570)年,天正2(1574)年の2回にわたり家督相続をめぐる争いが最上家内に生じた。これに一族,国人衆も加わり,さらに伊達輝宗も義父義守(娘が輝宗に嫁して政宗を生む)を助ける口実で最上領内に侵入。が,義光はこの相続内乱を勝ちぬき,天正12年ごろまでには白鳥,寒河江(大江)各氏や天童八楯の中核天童氏も打倒して戦国大名としての地位を確立。一方庄内方面でも11年義光と通じた前森蔵人が大宝寺武藤義氏を攻め自刃させ,義光はこの前森氏を助けるため庄内に進出したが,16年十五里ケ原合戦で敗北したため庄内を失う。また,甥の伊達政宗とも対立し,佐竹,蘆名,大崎各氏らと伊達包囲網をつくったが,のち孤立。小田原征伐の際には,父義守の死もあって政宗よりも遅参したが,徳川家康の仲介もあって本領安堵朝鮮出兵の際は名護屋に出陣,豊臣秀次には娘駒姫を出したが,秀次失脚の際駒姫も斬首され,菩提をとむらい専称寺を建立した。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,東北でも出羽合戦が起き,上杉景勝軍に攻めこまれて苦境におちいるが辛うじてもちこたえ,戦後,家康から庄内,由利も含む57万石の領地を認められた。山形城や城下町の建設,治山,灌漑にも尽力した。慶長寺(のち光禅寺)に葬られた。しかし孫の義俊の代,元和8(1622)年に最上氏は家臣内部の紛争で改易,近江1万石の知行となる。<参考文献>『山形県史』1巻

(伊藤清郎)

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改訂新版 世界大百科事典 「最上義光」の意味・わかりやすい解説

最上義光 (もがみよしあき)
生没年:1546-1614(天文15-慶長19)

戦国~江戸初期の大名。出羽国山形城主。源五郎。右京大夫,出羽守,侍従,少将。父は山形城主最上義守。1558年(永禄1)元服足利義輝の諱(いみな)の1字を賜り義光と名のる。71年(元亀2)家督を相続したが,父義守,弟中野義時と和せず,74年(天正2)伊達輝宗の干渉侵攻を結果した。翌年義時を殺害し,ついで上山,天童,東根などの一族を討滅し,81年真室城主鮭延秀綱,新庄城主日野左京亮を服属させ,84年谷地城主白鳥長久を謀殺,寒河江城主大江尭元を滅亡させて,最上・村山両郡を掌握した。他方1583年には庄内の尾浦城主武藤義氏を攻殺したが,のち越後上杉方のために庄内を奪われた。90年豊臣秀吉から本領を安堵され,翌年雄勝郡を与えられた。関ヶ原の戦の際の功により,1601年(慶長6)徳川家康から庄内三郡と由利郡を与えられた。14年山形において死去。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「最上義光」の意味・わかりやすい解説

最上義光(もがみよしあき)
もがみよしあき
(1546―1614)

安土(あづち)桃山時代の武将。出羽(でわ)国の大名。父は義守(よしもり)。将軍足利義輝(あしかがよしてる)の偏諱(へんき)を得て義光と名のった。1570年(元亀1)襲封。山形城(山形市)を本拠に、弟義時(よしとき)、一門天童頼久(てんどうよりひさ)はじめ一族のほとんどを討ち、白鳥氏や寒河江(さがえ)氏を討滅して勢威を張り、庄内(しょうない)地方に進出して武藤(むとう)(大泉)氏を倒し、越後(えちご)の本庄繁長(ほんじょうしげなが)と抗争した。伊達(だて)氏の脅威を払わんと、義弟伊達輝宗(てるむね)や甥(おい)の伊達政宗(まさむね)とも対立抗争を繰り返した。関ヶ原の戦いでは去就に迷ったが、ついに徳川家康方につき、上杉部将直江兼続(なおえかねつぐ)と激戦した。戦後庄内三郡のほか由利(ゆり)郡の領有も確認されて57万石の大大名となり、従(じゅ)四位上左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)兼出羽守(かみ)に昇進した。

[誉田慶恩]

『誉田慶恩著『最上義光』(1967・人物往来社)』


最上義光(もがみよしみつ)
もがみよしみつ

最上義光

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「最上義光」の解説

最上義光
もがみよしあき

1546~1614.1.18

戦国期~江戸初期の武将。出羽国山形城主。父義守と争うなどして1584年(天正12)までに山形盆地をほぼ制圧。他方庄内地方への進出を狙い,83年大宝寺義氏,87年同義興を倒したが,88年の大敗により目的を達せなかった。1600年(慶長5)関ケ原の戦に連動した出羽合戦では上杉景勝軍の攻勢に直面したが,甥の伊達政宗軍の救援をえて危機を脱した。戦後の恩賞により現在の山形県のほぼ全域を領有した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「最上義光」の意味・わかりやすい解説

最上義光
もがみよしあき

[生]天文15(1546).出羽
[没]慶長19(1614).1.18. 出羽
安土桃山~江戸時代初期の武将。義守の子。出羽山形城に拠って伊達政宗らと対抗し版図拡張に努めた。天正 18 (1590) 年豊臣秀吉の小田原征伐に従軍して,秀吉に帰属。関ヶ原の戦いには東軍に属し,伊達政宗らとともに上杉景勝と戦い,のち山形 57万石を領した。 (→最上氏 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「最上義光」の解説

最上義光 もがみ-よしあき

1546-1614 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)15年生まれ。出羽(でわ)山形城主。一族,国人衆との内戦をかちぬき,甥(おい)の伊達政宗に対抗して出羽半国を領した。関ケ原の戦いでは東軍につき,出羽で上杉家の直江兼続(かねつぐ)とたたかう。戦後庄内地方,由利郡も加増され,山形藩主最上家初代となった。57万石。慶長19年1月18日死去。69歳。

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367日誕生日大事典 「最上義光」の解説

最上義光 (もがみよしあき)

生年月日:1546年1月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1614年没

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