古代の地域名。平安時代初期に作られた《国造本紀》の下毛野国造条には仁徳天皇の代に〈毛野国〉を上・下に分けたと書かれている。この後では上毛野国,下毛野国となるが,栃木県北部は那須国造の支配地であったことから,毛野とは関東平野の北西部に位置する群馬県全域と栃木県南部の一定の政治的まとまりをもつ地域を称したものとみられる。〈けぬ〉の語義については〈作物の豊かな所〉とか〈毛人の住む所〉とかされているが判然としない。古墳の分布状況などからこの地域が政治的なまとまりをもっており,200m級の前方後円墳で長持形石棺をもつ太田天神山古墳が造られた5世紀代には太田市周辺がその中心地となっていたが,6世紀初めごろになるとその分割が進められた状況が推定できる。一方,史料の上では《常陸国風土記》と《続日本紀》に〈毛野川〉の名がみえるのみで,その具体的な様子を伝えるものはない。ただ地名を冠した上毛野(かみつけぬ)氏と下毛野氏とが崇神天皇の皇子豊城入彦命を始祖とする伝承を共有していることに,その居住地がかつては同一勢力圏内にあったことがうかがえる。毛野は北側の那須を挟んで蝦夷の地域に接し,畿内からみて辺要の地であって,蝦夷の地域への進出をはかる場合,まずここに安定した拠点を設けなければその実行は困難である。そのため東国において畿内政権の代行者的役割を果たしながらも,その直接的支配からは逃れて独自の支配権を構えていた毛野に対しては,硬軟両様の画策がはかられたであろう。その結果政治的な分割が行われ,やがて兵士や軍需物資の調達が課せられるようになるが,それは毛野が中央集権国家の機構の中に組み込まれてその分担者となったことを示す。毛野の実態および分割の経緯については不明な点が多いが,それは畿内,坂東,蝦夷の地域の相互の関連という古代史のダイナミックな展開の中で解き明かされるべき問題である。
→上野(こうずけ)国 →下野(しもつけ)国
執筆者:前沢 和之
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…関東地方北西部の地域名。広義には古代に毛野(けぬ)と呼ばれた範囲を指し,現在の群馬県全域と栃木県南部にあたる。この地域はのちに上毛野国(奈良時代以降の上野(こうずけ)国),下毛野国(下野(しもつけ)国)に分かれたことから,両毛地方の名が使われるようになった。…
※「毛野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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