翻訳|inquisition
異端の摘発処罰のためキリスト教会に設けられた裁判制度。宗教裁判ともいう。キリスト教会が異端にたいしてとった制度的対応はさまざまであるが,とりわけカトリック教会におけるそれが,歴史的には問題となる。異端にたいする問責,処断は初期教会から存在したが,この場合には,破門を最高手段とする,通常の教会裁判の枠内におけるものであった。独特の制度と目的をもった異端審問が登場するのは,12世紀後半以降,カトリック教会を揺るがせた,カタリ派,ワルド派異端への対処の結果である。1215年,第4ラテラノ公会議は,異端にたいする司教裁判の設置をもとめ,ついで31年,教皇グレゴリウス9世Gregorius IXは,教皇の直接的権限のもとでの,本格的な審問制への道をひらいた。
この審問制は,第1に,教皇庁に直属するところに特徴がある。審問官は教皇による任命であり,司教権限と競合関係にたつことがしばしばであり,それを制限することとなった。グレゴリウス9世が当初の審問官に任じたのは,ドミニコ会修道士であり,のちにフランシスコ会修道士も加わった。彼らは異端にたいする闘争を通して,カトリック教会内の教皇権の整備と強大化を推進したことになる。異端審問はしたがって,中世教会における教皇権のあり方と,密接に結びついている。第2の特徴は,審問制のもつ司法的性格である。異端の存在は,聖職者から報告されるほか,ことに信徒からの密告が奨励され,その証言は有効な証拠として採用された。密告者,証言者は保護されるため,しばしば虚偽の密告の応酬がおこなわれ,ゆゆしい結果を招くことにもなった。また被疑者は,審問への出頭義務があり,宣誓が強要された。審問官は検事・判事を兼ねることになり,ときには,被疑者の捕縛,拘禁をみずから命ずるというように異端審問は高度の刑事法的性格をもつようになり,従来の教会裁判法の限界を超えることになった。また,裁判においては,審問官は被疑者にたいして拷問をおこなうことが認められ,それ自体が極刑というべき,身体的・精神的苦痛を加えて,自白を強要した。これらは,司法史上の新しい事態である。第3の特徴は,俗権との関係である。審問の判決としては,改悔の十字架着用,聖地巡礼による罪の償い,および投獄が主要であった。これらの処罰にも俗権の介入がおこりえたが,極刑としての火刑,および処罰者の財産没収等は俗権の手に委ねられた。このことは,刑事的処罰権を実質上もたない俗権にたいしては,物理的権力行使の口実をあたえ,他方,教会には,俗権との妥協もしくは協調からくる倫理的堕落をもたらすことになった。
異端審問は,カタリ派,ワルド派のほか,13世紀後半にヨーロッパ各地に頻発した諸異端にたいして,大規模に適用され,教義上の狭義の異端ばかりか,瀆神行為,民間信仰,教会内外の党派争いにまで範囲が拡大された。南フランスの審問官ベルナール・ギBernard Guiが《審問者職務必携》(1324年までに成立)を著した時期までが,本来の最盛期であった。上述のような諸特徴をおびていたことから,14世紀以降は,教皇権の弱体化,俗権の政治的権力の強化によって,異端審問の基盤はゆるぎ,当初の性格を失っていった。しかし,中世末から16,17世紀にいたる教義論争,党派争いや魔女裁判などにおいて,依然として教皇庁の援用するところとなり,トリエント公会議(1545-63)後のカトリック教会体制のなかに受け継がれた。
スペインにあっては15世紀末,独自の審問制が設置された。国内の改宗ユダヤ人にたいする審問機関として,1478年,教皇シクストゥス4世Sixtus IVによって承認されたものであり,カトリック両王は絶対主義国家の統治機関の一環として強化し,審問制におけるスペインの独立すらも要求した。〈大審問官〉と称されるトルケマダTomás de Torquemádaは,その過酷さにおいて伝説的な悪名を負っているが,彼のもとでスペイン異端審問制は,類例のない強大な権力を与えられ,新大陸植民地を含む大領土において,カトリック信仰擁護のイデオロギー機関となった。スペインにおいて,最終的にこの制度が廃止されるのは19世紀初頭である。
→魔女裁判
執筆者:樺山 紘一
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カトリック教会が異端追及と処罰のために設置した法廷。宗教裁判ともいうが、通常の教会(司教)裁判とは別である。
[渡辺昌美]
異端発生は教会の成立直後からみられるが、当初は破門するだけであった。12世紀後半から南フランスに広がったカタリ派(アルビジョア派)に対する十字軍の過程で異端審問が形成され、1229年のトゥールーズ教会会議と1232年のグレゴリウス9世勅書で制度的に確立をみた。これは教皇直属の特設非常法廷で、司教の統制を受けず、逆に司教や世俗権力は無条件に協力すべきものとされた。告訴を待たずに活動する。インクィジションとは「立入り審理」の意である。自供、または2名の証言をもって有罪を判決しえ、証人は被告と対決する必要がなかった。拷問が公認され、密告を奨励した。ドミニコ会とフランチェスコ会により担当された。通例、審問官2名が1組となって、問題の多い地方を巡回した。その活動は摩擦を生じやすく、1242年にはトゥールーズに近いアビニョネで審問官が襲撃され、14世紀初頭にはカルカソンヌでベルナール・デリシウの指導する暴動がみられた。ただしそれなりの準則はあったので、全部を火刑にしたわけではない。14世紀、ベルナール・ギーが著した『審問官必携』は、この間の事情をよく示している。また、今日からみれば、供述の記録は民衆の行動と心情を知るための貴重な史料である。
[渡辺昌美]
異端審問の制度は、まずフランス、ついでイタリア、ドイツに展開したが、イギリスや北ヨーロッパ諸国には受け入れられなかった。遅れて導入されながら、もっともよく定着して猛威を振るったのはスペインである。設立は1478年、スペイン王国の成立(1479)とほぼ同時期である。審問官任命権は国王が握り、完全に王国統治機構の一環に組み込まれて、教皇の統制から逸脱し、1人で10万件を審理して火刑台の煙を絶えさせなかったという審問官総長トルケマダTomás de Torquemada(1420―98)のごとき、なかば伝説的な人物すら出現した。初め主たる犠牲者はユダヤ教徒、厳密には偽装改宗ユダヤ人であったが、のちには風紀事犯一般に対象が拡大された。犠牲者総数は知る由もないが、全14地区法廷のうちトレド地区だけをみても、第一ピークたる1485年に処罰者約750人、第二ピーク1650年に約250人、18世紀以降は毎年平均50人程度であった。ナポレオン支配期における中断を別にすれば、正式に廃止されたのは1834年のことであった。
[渡辺昌美]
『ギー・テスタス、ジャン・テスタス著、安斎和雄訳『異端審問』(白水社・文庫クセジュ)』
①〔中世ヨーロッパ〕inquisition 宗教裁判ともいう。異端者を発見,処罰,予防する教会の法廷。古代以来,体刑は追放のみであったが,民間,俗権による私刑が多かった。その無秩序を是正するため,13世紀以後ドミニコ修道会による説得が始められ,1231年グレゴリウス9世が教皇庁に審問権を統一したが,俗権によるものも続けられた。宗教改革時代には,カトリック,プロテスタント両派とも火刑を行って悪名を高めた。
②〔スペイン〕Inquisición イベリア半島において異端審問所は中世から存在していたが,王権直属の機関として重要性を持つのは15世紀後半から17世紀までである。国内の宗教的一元化をめざすカトリック両王は,1478年に教皇勅書を得て異端審問を開始。最盛期には国内16カ所に地方審問所を持つ中央集権的な組織となった。裁判は捜索や密告による証拠集めから始まり,証拠不十分の場合は被疑者への拷問も行われた。最終判決は荘厳な公開儀式で読み上げられ,重罪犯は火刑に処された。創設期から16世紀にかけては「正統」カトリック信仰を防護するため,コンベルソやモリスコ,プロテスタントが主な審問対象となったが,17世紀には社会のモラルの監視という役割が付与され,対象も同性愛者,重婚者などに拡大した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また宗教改革以後も,カトリック教会内ではジャンセニスムなどの例をみることができる。教会の正統側は,異端の禁圧のため,しばしば凶暴性をおびる審問裁判(異端審問)を行ったり,軍事的掃討をくわだてるなど,多くの犠牲者を生んだ。また,宗教活動に結びついた政治的諸問題,理論にたいしても異端が宣告されることがあった。…
…1229年以来パリ大学神学部に一講座を常設してスコラ学の中心となりトマス・アクイナスらの碩学を生んだ。教会法の分野でもペンニャフォルトのライムンドゥスRaimundus de Peñafortなど偉才が出て異端審問制度の権威となった。神秘思想ではエックハルトらが現れ,その一人であるシエナの聖女カタリナは一般信徒の信仰生活を鼓舞する〈第三会〉会員であった。…
… 殺される当人にとっては残酷きわまりない話だが,為政者にとって焚刑の行われる空間は,一種大規模なショー,不特定多数の群衆に恐怖,娯楽的要素をまじえてイデオロギーを注入するかっこうの場として利用された。ヨーロッパにおけるその典型例は,異端審問inquisitio hereticae pravitatisと18世紀後半まで続く魔女狩りである。異端を焼き,灰を捨てるのは,もともと同信者に遺物,記念品を残さないためでもあった。…
…キリスト教徒の血を儀式に用いるために無垢の子を誘拐し殺害するとの,いわゆる儀式殺人の非難,またユダヤ教徒がキリスト教徒の飲用とする泉に毒を混入させるなどの告発が行われるようになるのも,12~13世紀以降のことである。教会は,このような非難を繰り返し根拠のないものとして退け,このような非難から生じたユダヤ教徒殺害などを戒めるのであるが,やがて15世紀スペインを中心とする異端審問の狂気のなかで,教会みずから直接ユダヤ教徒狩りに加担し,改宗を強制されたユダヤ教徒(マラーノ)が多くその犠牲となった。このような展開は,ユダヤ教徒のゲットーへの強制隔離によってその頂点に達することになる。…
※「異端審問」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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