安土(あづち)桃山時代~江戸初期の大名。筑後(ちくご)(福岡県)柳川(柳河)(やながわ)藩藩祖。高橋紹運(じょううん)長男。永禄(えいろく)12年豊後(ぶんご)(大分県)に生まれる。1580年(天正8)立花鑑連(あきつら)の養子となり、85年家督を継いだ。86年九州の諸大名に先だって豊臣(とよとみ)秀吉に服し、翌年の九州征伐には先鋒(せんぽう)を務めた。その戦功により柳川13万石余を与えられ、従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任、左近将監(さこんしょうげん)と称した。秀吉の小田原攻略、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に参戦。関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠(ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉(むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。1610年3万石に加増。大坂冬・夏の陣に参戦。20年(元和6)柳川城主となっていた田中氏の絶家・改易で、ふたたび柳川周辺に10万9000石余を与えられ、旧領のほとんどを回復した。22年飛騨守(ひだのかみ)。37年(寛永14)隠居。38年島原・天草一揆(いっき)の鎮圧に参加。その後剃髪(ていはつ)して立斎(りゅうさい)と号した。室は立花鑑連娘、のち離婚して家臣矢島秀行(やじまひでゆき)娘を継室とし、その没後葉室頼宣(はむろよりのぶ)娘をめとった。
[荒野泰典]
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…戦国時代は,常陸の佐竹氏の領域で,赤舘に出城が設けられていたが,関ヶ原の戦後,一時幕領となる。1603年(慶長8)立花宗茂が2万5000石で入封し藩をおこした。22年(元和8)丹羽長重が入封し,赤舘に代わって棚倉城を築城したが建設途上で転封され,27年(寛永4)磐城平藩主内藤氏の一族内藤信照が5万石で入封して,本格的な藩体制確立の諸政策を打ち出した。…
…【佐伯 弘次】
【近世】
[政治]
1587年九州平定を終えた豊臣秀吉によって〈国割り〉が実施され,筑後は北部が小早川隆景(2郡。生葉,竹野等の諸説がある),毛利秀包(ひでかね)(山本,三潴等),南部が立花宗茂(山門,三池,下妻等),筑紫広門(ひろかど)(下妻)に分け与えられた。 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦の後,豊臣方に属した毛利秀包,立花宗茂,筑紫広門はいずれも改易された。…
…戦国時代,蒲池氏がここに城を築いていた。1587年(天正15)立花宗茂が入部,1600年(慶長5)筑後一国を領した田中吉政が城主となり,城郭を拡大し,城下町を建設した。20年(元和6)立花宗茂が再入部した。…
…10万9600石。1587年(天正15)筑前立花城を居城とする立花宗茂が,豊臣秀吉の九州征伐ののち筑後柳河に配置されて成立し,石高は13万2200石。宗茂は関ヶ原の戦で西軍に味方したため改易となり,代わって1600年(慶長5)三河岡崎から田中吉政が入封し,筑後一国を支配し,石高は32万5000石。…
※「立花宗茂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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