がもう‐のがまふ‥【蒲生野】
- =うねのの(宇禰野)
- [初出の実例]「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」(出典:万葉集(8C後)一・二〇・題詞)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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蒲生野
がもうの
蒲生郡内にあった野で、古代には大和王権の薬猟場であったことで知られる。現在安土町内野に「蒲生野」、八日市市市辺町や野口町に「蒲生野口」「小蒲生野」、近江八幡市西生来町に「蒲野口」、同市末広町に上・下の「蒲生野」などの地名があることから(滋賀県小字取調書)、雪野山北東の平地一帯に比定する説が、最も穏当と考えられる。「日本書紀」天智天皇七年(六六八)五月五日条に、「天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり」とみえる。このときに額田王が詠じた「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」、また大海人皇子が返した「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも」の二首(「万葉集」巻一)は著名。近江朝廷こぞっての大規模な遊猟と、その後の華やかな宴の模様をうかがうことができる。この蒲生野への遊猟は「日本書紀」が異例に、日付の干支を用いず、「五月五日」と記すように、古代中国の端午の行事で、男は薬用の動物を狩猟し、女は薬草を摘むという風習=薬猟であった。この頃すでにわが国の宮廷行事として定着していたことを示すとみられている。「日本書紀」天智天皇九年二月条によると天智天皇は「蒲生郡の匱
野に幸して、宮地を観す」とあるように、再び蒲生郡の野に行幸している。これは国際情勢の緊迫化に対応して、さらに遷都計画のあったことを示すもので、前回とは様相を異にするものであった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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蒲生野【がもうの】
琵琶湖の東岸,近江国蒲生郡に広がっていた野。668年天智天皇は蒲生野で薬猟を行っており(《日本書紀》),男は薬用の動物を狩猟し,女は薬草を摘むという古代中国の風習に倣うものであった。また《万葉集》の額田王と大海人皇子の贈答歌はこのときのこととされる。670年には天智天皇が蒲生郡の野に行って〈宮地を観〉しており,遷都の計画があったとする説がある。803年には桓武天皇が蒲生野に丸1日行幸している。中世には得珍(とくちん)保の諸郷が柴草を取ったり,あるいは畠地化が進んでいき,1525年などに柿御園(みその)の諸郷と相論になっている(今堀日吉神社文書)。江戸時代にはなお未墾地が残され,周辺の村々の立合となっていたが,1726年・1842年など数度の開墾計画がたてられたものの取り止めとなり,昭和期に入ってしだいに水田化した。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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蒲生野 (がもうの)
古代近江の歴史地名。滋賀県東近江市の旧八日市市を中心とする条里制地割遺構の空白地帯がこれにあたるか。火傷に効くガマ(蒲)が自生していたことから出た地名で,のち紫草を栽培する薬園が置かれた。《延喜式》では近江国は全国最多種の薬石を上納する規定だが,そのうちには蒲生野で栽培採取されたものが多かったであろう。668年天智天皇はこの地で5月5日の薬猟(くすりがり)を行っている。《万葉集》の大海人皇子と額田王の著名な贈答歌はこの時のことという。また803年(延暦22)閏10月にも,桓武天皇が父祖天智をしのんで蒲生野に行幸している。
執筆者:栄原 永遠男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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蒲生野
こもうの
京都府中部,京丹波町南部の須知の北方に広がる洪積層の台地。面積約 60km2。長らく原野として放置されていたが,明治初期,京都府がアメリカ人ジェームズ・オースティン・ウィードを招聘して 1876年農牧学校を建設。 1902年農事試験場,1903年種畜場などを設置して農業開発を試みた。その後有畜農業が営まれ,1970年には原野の一角に京都府立丹波自然運動公園が開園した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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蒲生野
がもうの
滋賀県中南部の愛知川(えちがわ)中流左岸の台地。東近江(おうみ)市西部、近江八幡(おうみはちまん)市東部などの範囲をいう。古代には狩猟の場で、額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の相聞(そうもん)歌「あかねさす紫野行き……」(『万葉集』巻1)で知られる。歌碑が舟岡山にある。中世以降、その開発が進み、現在では農業用地が広がる。
[高橋誠一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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