角倉了以が慶長一六年(一六一一)幕府に申請して起工したもので、寛永七年(一六三〇)の吉田了以翁碑銘によれば、大仏殿建立や禁裏修造の諸物資が鴨川疎通で円滑に輸送されたことから、大坂・伏見・京都を河川で結ぶことに着目、起工を思い立ったものである。運河工事は二条から五条、五条から伏見丹波橋、伏見分の三区間三期をもって進行。高瀬川年貢計画書(角倉家文書)は、工区・延長・段別・舟入・舟廻などを記載している。
工事進行にあたって慶長一八年一〇月には
出雲市
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
近世初期,角倉(すみのくら)了以によって開削された運河で,京都市中と大坂,伏見との物資輸送に利用された。1611年(慶長16)起工,14年完成。川幅約7m,全長約10km。開削費用は7万5000両。川名は,輸送に高瀬舟が用いられたことによるといわれ,角倉川ともよばれた。
二条大橋西畔から鴨川の水をひき入れ,鴨川西岸に沿って中京区,下京区を南下,南区東九条でいったん鴨川に合流し,東山区福稲南西部から鴨川東岸を南流,伏見の市街地西部を流れて宇治川に流入する。二条大橋南西には,高瀬川最上流の物資積卸場である〈一之船入〉(史)があり,高瀬川の支配権と諸物資の輸送権を独占した角倉家はここに屋敷を置き,高瀬舟の運航を管理した。この舟運によって大坂・伏見方面の物資が京の町に運ばれ,川筋の船入には問屋が多数置かれ,商品を扱う商人や職人が同業者町を形成,材木町,樵木(こりき)町,石屋町,塩屋町など職種や商品を反映した町名などが付けられた。1710年(宝永7)ころ,伏見~二条間を就航した船は188艘,上り船1艘につき荷物15石積みで船賃14匁8分,下り船は7石5斗積みで7匁であった(京都御役所向大概覚書)。荷量・運賃においてはるかに不利な立場に置かれた伏見や下鳥羽の陸運業者は痛手を受け,角倉家と交渉して船数を制限したこともあったが,結局,舟運の隆盛に対抗できなかった。
明治期以降も高瀬川舟運は京都市中の諸物資移出入に利用されたが,鉄道の開通などによってしだいにその機能を失い,1920年廃止された。
執筆者:金田 章裕+野田 只夫
長野県の北部を流れる犀(さい)川の支流。槍ヶ岳に源を発して北流し,三俣蓮華岳,野口五郎岳など北アルプスの奥山と大天井(おてんしよう)岳,燕(つばくろ)岳などの前山の間に深い峡谷をつくる。不動滝から流路を東北東に変え,12kmほど流れて安曇野(あづみの)に出る。ここから南流して,安曇野市の旧明科(あかしな)町押野付近で犀川に合流する。延長約47km。渓谷のこう配が急であるためしばしば水害が発生し,1969年8月11日の水害では,上流の葛(くず)温泉がほぼ完全に流失してしまった。新緑や紅葉のころがとくに美しく,最上流部にある湯俣温泉は,〈アルプス裏銀座〉の登山基地にもなっている。また中流部には東京電力が建設した高瀬ダム,七倉ダムがある。高瀬川が安曇野へ出た地点に,〈エコノミスト村〉や大町温泉郷(葛温泉からの引湯)が開発された。この温泉郷は黒部・立山観光の基地にもなっている。
執筆者:市川 健夫
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京都市の市街地東部を北から南に流れる小運河。中京(なかぎょう)区二条で鴨(かも)川から分水し、鴨川の西を並行して南下し、南区東九条で鴨川に合流する。さらに東山区福稲(ふくいね)で分水、東高瀬川となって南流し宇治川に合流する。延長約10キロメートル。幅約7.2メートル。1611年(慶長16)角倉了以(すみのくらりょうい)によって開削が始められ、1614年に竣工(しゅんこう)した。総工費7万5000両。水深が浅いため、舟運は底の浅い高瀬舟を用いたので高瀬川とよばれるようになった。森鴎外(おうがい)の短編小説『高瀬舟』で知られる。淀(よど)川の水運によって伏見(ふしみ)まで運ばれた米、木材、薪炭(しんたん)などは高瀬川を引き船によって京都まで送られた。高瀬川沿いに材木商が集まり、いまも木屋町(きやまち)の名が残る。二条大橋付近の船だまりは「高瀬川一之船入(たかせがわいちのふないり)」として国史跡に指定されている。
[織田武雄]
長野県西部、北アルプスの槍ヶ岳(やりがたけ)北側に発して北流し、やがて東方に向きを変え、大町市からは南流し、松本盆地の安曇野(あづみの)市明科(あかしな)で犀川(さいがわ)に合流する。延長約45キロメートル。上流部は槍ヶ岳と東部の常念(じょうねん)山脈の間を高瀬渓谷となって流れる。湯俣(ゆまた)川との合流点付近では温泉が湧出(ゆうしゅつ)し、また国の天然記念物「高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石」がみられる。近年渓谷に東京電力の高瀬ダム、七倉ダム(ななくらだむ)の二つのロックフィルダムがつくられ景観は一変した。松本盆地から下流は大扇状地をなし、梓(あずさ)川との合流点近くは豊富な湧水を利用したワサビ栽培が特色である。
[小林寛義]
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…三沢市,上北郡上北町,東北町,六ヶ所村に面しており,周辺の姉沼,内沼などが連絡し,北方にも田面木沼,市柳沼,鷹架(たかほこ)沼,尾駮(おぶち)沼などが存在して湖沼地帯を形成している。湖の南西部では七戸川,土場川,砂土路川などが流入し,北東隅から高瀬川が太平洋に流出している。小川原湖は周辺の台地より多少陥没し,出口が海岸砂丘の発達で閉鎖されて湖となった。…
…それでも1635年(寛永12)から1848年(嘉永1)までの間に30回をこす洪水の記録があり,明治に入ってからも3度の水害に見舞われ,とくに1893年には松江市街地が1週間水浸しになるほどであった。一方,1687年(貞享4)には豪農大梶七兵衛が斐伊川の水を引いて用水の高瀬川を開き,出雲平野を灌漑している。 1922年内務省直轄事業として,下流部の数本の分流を一本化して堤防を強化し,大橋川の浚渫(しゆんせつ)で排水をよくする斐伊川改修事業が始まり,1954年には斐伊川・宍道湖・中海総合開発計画が立案された。…
…下流は大分・福岡県境をなす。《日本書紀》景行天皇条にみえる御木(みけ)川は山国川であるとされ,近世には高瀬川と呼ばれていた。中・上流域一帯は耶馬渓(やばけい)層が厚く堆積した耶馬渓溶岩台地で,これを山国川の本・支流が深く浸食し,名勝耶馬渓をつくった。…
…鴨河原はみそぎ祓(はらい)の神事や合戦場,処刑場として著名であるが,中世末から近世にかけては庶民の集まる広場となり,芝居・見世物小屋が並ぶ歓楽街が四条河原,五条河原に形成された。この河川は古代から木材,薪炭などの輸送に利用されていたが,平時は水量が少ないため慶長年間(1596‐1615)西岸の二条通り南の一之船入以南に高瀬川が掘削され,明治前期まで水運に利用された。河水は友禅染の水洗に最近まで利用されてきたため,高野川東岸の高野付近には染色工場が立地する。…
※「高瀬川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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