百科事典マイペディア 「アナ・ボル論争」の意味・わかりやすい解説
アナ・ボル論争【アナボルろんそう】
→関連項目アナーキズム
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大正後期の労働運動の理論と実践をめぐる社会主義者間の論争。第一次世界大戦末期のロシア革命、米騒動の勃発(ぼっぱつ)、戦後恐慌の発生などの情勢下で、1919年(大正8)ごろから、一時沈滞していた労働組合、社会主義の運動が再生、活発化してきた。初めは大杉栄(さかえ)に代表されるアナルコ・サンジカリスト(アナ派)が運動の大勢を制し、遅れて堺利彦(さかいとしひこ)、山川均(ひとし)らのロシアの多数派=ボリシェビキをとってボル派(マルクス主義)が台頭してきたが、1920年両派が提携して日本社会主義同盟を結成するなど共存した。翌1921年5月社会主義同盟が解散を命ぜられた前後から両派の論争が激化し、労働組合も二分されて対立し、1922年7月日本共産党が創立され、ボル派がやや優勢になった。同年9月労働組合の統一のための日本労働組合総連合の創立大会が開かれたが、傍聴席を占めたアナ派は組織の自由連合案を、ボル派は中央集権案を声援し、両派組合の抗争のうちに大会は解散を命ぜられた。これを頂点としてアナ派は退潮していき、ボル派が勝利を占めた。
[松尾 洋]
『堺利彦稿「日本社会主義運動小史」(『堺利彦全集 第六巻』1970・法律文化社・所収)』
大正期後半の無政府主義者と社会主義者との労働運動の組織論をめぐる論争。前者がアナーキスト,後者がボリシェビキといわれたのが語源。「冬の時代」を通じて前者の大杉栄らが堺利彦ら後者より活発で,影響力もあった。しかし米騒動やロシア革命の紹介によって後者も次第に活発化した。両者合同の日本社会主義同盟が解散し,共産党結成後の1922年(大正11)9月,両派合同の日本労働組合総連合結成が企図されたが,前者の自由連合論と後者の中央集権論とが対立,紛糾のうちに解散させられた。以後ボル派の台頭に対してアナ派は衰退し,とくに関東大震災での大杉の虐殺で混迷,テロリスト化していった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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