翻訳|Marxism
マルクスとエンゲルスの密接な協力のなかから生まれた思想であり,そもそも近代ブルジョア社会の内在的批判とその克服を目的とする。しかしその影響力はたんなるブルジョア社会批判の枠をこえて,19世紀の最後の四半世紀から現代にいたるまで世界の革命運動のなかで主導的役割を果たしてきた。ときにはレーニンの思想(レーニン主義)と機械的に結びつけて,〈マルクス=レーニン主義〉といわれることもあるが,ここでは固有のマルクス主義に限定して述べることとする。
マルクス主義は西ヨーロッパの近代ブルジョア社会を母体とし,そこから内発的に展開した思想であり,レーニンの著名な規定に従えば三つの源泉をもっている。すなわち,ドイツの古典的観念論,イギリスの古典派経済学,そしてフランス社会主義の三つである。マルクス主義は,第1に,ヘーゲルの哲学を方法的手がかりとしながら生産力と生産関係の矛盾から歴史の発展を導き出す史的唯物論であり,第2に,古典派経済学の労働価値説を批判的に継承しながら資本制的商品生産社会の本質を暴露しようとした剰余価値説であり,第3に,フランス社会主義,とりわけバブーフ主義に基づきながら,ブルジョア民主主義革命からプロレタリア独裁を経て全面的社会革命への急速な展開のうちに革命戦略を透視した革命理論である。しかもマルクス主義は哲学や経済学にとどまらず,一つの原理論として文学,歴史学,美学,社会学,政治学等の領域にも広く影響を及ぼしている。
しかし,マルクス主義が19世紀に成立して以降,資本主義体制自体も大きく発展・変化をとげ,帝国主義段階を経ていまや社会主義世界が成立するとともに,第三世界の比重もかなり大きなものとなっている。この発展する現実世界に理論を適用していくなかで,マルクス主義の思想もまた多元化し,変容せざるをえなくなってきている。それが本来的に西ヨーロッパ近代社会の理論であったかぎり,いまや世界史を包括的につかみとることができるためにはそこからの理論的脱皮が必要となっている。マルクス主義と自認しながらも,現実に対応するためには旧来のマルクス主義の枠組みから大きく踏み出さざるを得ない思想状況も生じている。以下,いくつかの問題点に即しながら,マルクス主義の内容を歴史的にとりまとめてみる。
マルクス主義の諸思想はすでに1840年代に成立し,50年代にマルクスの経済学研究が深化するなかで理論的に完成されていったが,革命運動の理論としては1848年革命のなかでも,共産主義者同盟の活動をとおしてもほとんど影響力をもたなかった。しかしマルクス主義はとりわけエンゲルスの諸著作のなかでときとして通俗化されながらもしだいに影響を広げ,パリ・コミューン以後は労働運動のなかにも大きな支持層を獲得するようになった。やがてドイツ社会民主党の理論史のなかではエンゲルスが党の権威として君臨するようになったが,19世紀末になるとベルンシュタインが《社会主義の諸前提と社会民主主義の任務》(1899)を著し,いわゆる修正主義の考えを展開した。ベルンシュタインは旧来のマルクス主義を批判し,それはヘーゲル弁証法にとらわれたユートピア思想であり,それでは現在の〈帝国主義段階〉を説明できないとしたのである。ベルンシュタインに対するカウツキー,ベーベルの〈修正主義論争〉(1898-1903)を経て,第二インターナショナルの諸思想のなかに決定論的なマルクス解釈が生まれるにいたった。また新カント学派の哲学と結びついた実証主義がマルクス主義の内部に生まれ,革命理論としては客観主義,待機主義を生み出したのである。
それに対する批判もまたさまざまな論者のなかから生じた。イタリアのラブリオーラは,技術や経済のなかにのみ歴史の推進力を見いだす機械的決定論に反対し,主体的な階級意識の意義を強調する。ロシアのデボーリンはレーニンにならってヘーゲル研究に没頭し,哲学に対する諸科学の独立を主張した〈機械論者〉を批判して,個別科学に対する哲学の優位を論じた。そのことによってデボーリンは実践的立場への一歩を踏み出したのだが,のちにトロツキーの〈永続革命論〉の左翼的偏向に〈イデオロギー的基盤〉を与えるものとしてスターリンによって批判された。
1920年代初頭にマルクス主義を哲学的に基礎づけ,それによってマルクス主義の主体的再建を意図したのはルカーチとコルシュである。ルカーチは《歴史と階級意識》(1923)のなかで総体性のカテゴリーを提示し,実践の概念をとおして主体-客体を統一的に把握しようとしたし,コルシュは《マルクス主義と哲学》(1923)のなかで〈理性的批判と実践的批判との統一〉として弁証法を提示する。これらはコミンテルン中枢のソビエト・マルクス主義によって〈極左的逸脱〉として批判されたが,モスクワとの対抗関係のなかで〈西ヨーロッパ・マルクス主義〉と呼ばれた。ルカーチはまた,エンゲルスの自然弁証法を批判し,人間と自然,主体と客体を統一的に把握するものとして弁証法を理解し,そのことによって,革命における主体の決断と選択を強調したのである。
さらに,マルクス主義を実践の哲学としてつかんだ者にグラムシがいる。彼もまたクローチェのヘーゲル主義から出発しながらブハーリンの実証主義に対立した。死の直前まで10年余にわたる獄中生活のなかで,彼は決定論的考えに反対し,知識人や党の主体的役割を高く評価した。大衆が日常的に〈感じる〉ことと,前衛が〈知る〉こととが,闘争のなかにおいて統一されなければならないとグラムシは考えたのである。
決定論的考えに反対して主体の意識や実践を強調するこれらの潮流は,のちに初期マルクス解釈の問題と結びついて現れた。マルクスの残した諸論稿のうち,《ドイツ・イデオロギー》《経済学・哲学手稿》《経済学批判要綱》はそれぞれ1920年代および30年代になって初めて公表されたのであるが,これらの諸論稿こそ唯物論的に通俗化する解釈からマルクスを解放するものであった。とくに《経済学・哲学手稿》の吟味をとおして初期マルクスの哲学的かつ人間学的解釈が生まれ,初期マルクスと後期マルクスとが思想的に連続しているのか,それとも断絶しているのかということがあらためて論じられた。1950年代に始まったこれらの論争は,たんに哲学的解釈の問題にとどまらず,人間疎外や官僚制の問題と結びついて現代社会の批判として現れたのである。
こうした思想的脈絡のなかで,マルクス主義はコジェーブAlexandre Kojèveのヘーゲル研究の影響下に立ってフランス実存主義と結びつき,他面ではヘーゲル主義と対立するアルチュセールらの構造主義としても現れた。しかし初期マルクス解釈とより密接なつながりをもつのはルカーチの弟子たちのグループのいわゆる〈ブダペスト学派〉,ユーゴスラビアの雑誌《プラキシス》のグループ,ポーランドのシャフやコワコフスキLeszek Kołakowski,東ドイツのハーリヒWolfgang Harichらであろう。これらの思想家もまた,初期マルクスの提起する〈トータルな人間〉の概念に依拠しながら,現代社会主義の非人間的官僚制を批判し,そこでの人間の回復を求めるのである。
マルクス主義の核心の一つは,当然にその革命理論である。たとえば19世紀ドイツのような後進国の場合,マルクスの革命理論はしばしば〈二段階革命論〉といわれる。すなわち〈ドイツ的みじめさ〉というマルクスの規定が示しているように,ドイツには中世的・封建的な要素と近代的要素が混在し雑居している。したがって,当面ブルジョア民主主義革命を遂行して社会の近代化をはかったのち,次の段階としてブルジョアジーを敵とするプロレタリア革命に移行する。前者は権力奪取のための〈政治革命〉であり部分的革命であるが,後者は人間と社会の全面的変革をめざす〈社会革命〉である。したがってまた,前者はナショナルな枠組みのなかで遂行される〈一国革命〉であるが,後者は普遍的な広がりをもった〈世界革命〉であり,資本主義的世界市場の形成と,資本主義の全般的危機,周期的恐慌を前提とする。
革命が二段階に遂行されるのか,それとも直接に社会主義をめざすのかという論点は,1848年革命の時点における真正社会主義批判や義人同盟内部での戦略論争以来,マルクス主義の全史においてつねに問題となってきた。このような革命の段階規定はマルクス自身が描いた革命の構図をいちじるしく単純化しているが,その点は別として,これらの革命理論が西ヨーロッパ近代の概念装置を前提としていることは確かである。まずその政治革命はナショナルな革命であり,近代的な〈民族国家〉ないし〈国民国家〉の存在を前提にしている。すなわち,その革命が成立するためにはまず資本主義の統一的な国内市場が形成され,同じく統一的な単一民族の政治的支配が存在していなければならない。しかし資本に国境はなく,プロレタリアートはそもそも民族の枠に収まらない存在であるから,それらはただちに世界市場の形成と世界革命の同時的実現へと向かっていく。
そこでは,革命の道筋として資本主義から社会主義への道が構想されている。資本主義が高度化し,その内的矛盾が全面化することによって初めて社会主義への展望が開ける。資本主義までは人間の〈前史〉であり,社会主義によって初めて人間の〈真の歴史〉が始まる。この道筋は西ヨーロッパ社会をモデルとしており,非西ヨーロッパ的モデルには適用されない。そこでレーニンは《ロシアにおける資本主義の発達》(1899)で,一部地域における資本主義的農民層分解をロシア全土にわたって適用しようとする誤りをあえて犯しながらもロシア革命の古典的道筋を示し,ローザ・ルクセンブルクもまたポーランドにおける産業的発展を社会変革の前提として描き出した。だがたとえばロシアでは,西ヨーロッパの社会変革をモデルとした西ヨーロッパ派的発想のほかに,ロシア固有のモデルを追求したスラブ派的発想が生まれ,たとえばチェルヌイシェフスキーのように〈中間段階〉としての資本主義的発展を省略し飛び越して,ロシア共同体から直接社会主義社会を実現しようという非西ヨーロッパ・モデルの構想が生じた。その後,プレハーノフは,マルクス主義者となった後も,ブルジョア革命と社会主義革命のあいだに長い時間をおく,非連続的な二段階革命論をロシアのために構想したのである。
これまでマルクス主義は民族問題を意図的になおざりにし,あるいは少なくとも2次的問題として扱ってきた。社会形態の発展を資本主義的近代化の道と重ね合わせて描く場合には,民族問題は欠落せざるをえないのである。かつてエンゲルスは民族の成立過程を部族Volk→民族体Nationalität→近代的民族体→民族Nationという歴史的発展図式のなかで描き,カウツキーやスターリンの規定に先鞭をつけた。エンゲルスがここで民族というのは近代的民族のことであり,国民国家の版図や統一的な国内市場に対応している。
だが民族体と民族の関係はエンゲルスの描くように歴史的発展として位置づけられるものではなく,多くの場合,政治的な支配と隷属の関係として現れてくる。さまざまな言語,風俗,宗教,教育,文化をもつ諸民族体が,ある一国に共属する多民族国家の場合には,そもそも民族国家の概念は成り立たず,もし,なおかつそれが民族国家として近代化の道を歩もうとした場合には,特定の民族体による他の民族体の支配,たとえば国家語の押しつけ等を生み出さざるをえない。これらの民族問題は,とりわけハプスブルク王制下のオーストリアにおいて焦眉(しようび)の問題となった。O.バウアーらの〈オーストリア・マルクス主義〉はこの解決不可能の難問を抱えこみ,レーニンの一方的批判を浴びることとなった。ローザ・ルクセンブルクは,ロシア・プロレタリアートの国際的闘争のなかにポーランドの運動を組み込み,そのかぎりでポーランドの自決権を否定したが,その彼女ですら《民族問題と自治》(1908-09)のなかで,ポーランドの民族自治を構想していたのである。
いわゆる二段階革命論にしても,近代的民族国家の成立を媒介にした民族問題の解決にしても,西ヨーロッパ型モデルに基づいている。マルクス主義はそもそも近代ブルジョア社会の内部から,それを批判し超克する理論として展開されてきたから,それ自体としては現代世界の抱える問題のすべてに対応することはできない。とりわけ,第三世界といわれる低開発地域の変革理論としてマルクス主義がどれだけ有効なのか,いまあらためて問われている。それらの諸国を,帝国主義的植民地政策による収奪対象として先進諸国の側の論理でとらえるだけでは十分でなく,それらの諸国の内発的理論を引き出すうえで,マルクス主義がどこまで役立つのかが問題となっている。すでにいくつかの試みはある。
たとえばフランクAndré Gunder Frankは中枢国による衛星国の収奪として,また衛星国内部での中枢による周辺農村の収奪として世界資本主義の発展を解明しようとし(従属論),エマニュエルArghiri Emmanuelは新従属理論を打ち出して,中枢と周辺の貿易のなかに不等価交換を見いだし,そしてアミンSamir Aminは周辺資本主義の経済構造そのもののなかに中心資本主義への隷属と低開発を余儀なくする要因を見いだす。いずれもマルクス主義を武器としながら,世界資本主義の構造分析のなかに解決の鍵を求めていくのだが,しかしアジア的生産様式,古典古代の奴隷制生産様式,封建的中世の生産様式,近代ブルジョア的生産様式からさらに社会主義へと展開する社会構成の発展段階説はここでは否認され,またこれらの発展理論に基づく革命理論,たとえば二段階革命ないしブルジョア民主主義革命なども意味を失うことになるのである。
こうしてマルクス主義もまた歴史の日程が進むのに応じて,それ自体変容せざるをえない。その価値基準も,現実の変化に応じて多様化するであろうし,理論的一枚岩としていつまでも教条的に硬直化しているわけにはいかないであろう。マルクス主義が将来にわたって有効性を維持するためには,西ヨーロッパ型モデルを超え,近代ブルジョア社会の批判理論を脱皮することが必要になろう。
執筆者:良知 力
1953年のスターリンの死とその3年後のソ連共産党第20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判によって,マルクス主義の思想と運動は多様化しはじめた。そして60年代初め以降の中ソ対立および中国の文化大革命,さらには正統派(ソビエト型)マルクス主義に対する〈ニューレフト(新左翼)〉の諸思潮と運動が第三世界の武力革命方式とも呼応して,マルクス主義の根本的な再検討の気運を促進することになった。スターリン批判は,ソ連では根本的な思想と体制の改革につながらなかったが,ソ連主導の国際共産主義運動を多極化し,ポーランド,ハンガリー,チェコスロバキアなどの東欧圏で,反乱を含む体制改革の運動を引き起こした。また哲学のシャフ,経済学のランゲやシクOta Sik(1919- )など,現実に学んだ新しい視点をマルクス主義理論に導入する試みが行われるようになった。
しかしスターリン批判とその後の動向がもっとも大きな影響を広げたのは,西欧と日本であった。とくにイタリアとフランスでは,第2次大戦中の抵抗運動で共産党が果たした中心的役割の結果として,マルクス主義と共産主義政治運動は大きな威信をえていただけに,マルクス主義の多様化は活発な知的活動を促した。イタリアでは,グラムシの再評価を中心に,理論と実践の両面でソ連型マルクス主義と革命方式を批判し,民主的多数派形式による構造改革論の主張を生んだ。それは,1973年の〈歴史的妥協〉(保守派との妥協による政権獲得)の構想ともなり,ユーロコミュニズムとして先進資本主義国の政治に大きな影響を与えた。フランスでは,マルクス主義は戦後思想の大きな潮流となり,サルトルやメルロー・ポンティなどによってフッサールの現象学と接合しつつ,広い思想的探求の根底にとり入れられた。そして,スターリン批判以降,モランEdgar Morin(1921- )やアクセロスKostas Axelos(1924- )らの雑誌《アルギュマン》グループをはじめ,多くの哲学者・思想家が,マルクスを近代哲学の認識台座を革新するものとして,ニーチェ,S.フロイト,ハイデッガー,あるいは人類学などの人間諸科学と対質せしめつつ,新しい視点で読解しなおすことになった。とくにアルチュセールの構造主義的マルクス主義は,それまでの教条的唯物論や人間主義的マルクス解釈を打破して,新しい科学的認識論(方法)によるマルクス探求の道をひらき,広範な分野に影響を与えた。
1960年代は,先進資本主義諸社会の管理社会化への反乱の時代となり,スターリン主義に対立したトロツキズムの再評価,文化大革命のなかでの反工業主義的な毛沢東主義,カストロ,ゲバラ,ホー・チ・ミンらの第三世界の武力革命などが交錯・結合してニューレフトの潮流を生んだ。そのなかで,ドイツからアメリカに亡命したアドルノやH.マルクーゼらのフランクフルト学派のマルクス主義的〈否定の哲学〉が再評価され,ドイツでの継承者ハーバーマスらが新しいマルクス主義的探求の分野をひらいた。こうして,現代のマルクス主義は,否定と再生の波にさらされている。
日本のマルクス主義の端緒をどこに求めるかは,いちがいに確定しがたい問題であるが,日本が明治維新によって国を開いた19世紀後半には,西欧において社会主義とそれへのマルクス,エンゲルスの影響はようやく高まりつつあったから,明治初年にはすでに社会主義とそれに関連してマルクスに言及するものが見られる。1870年(明治3)に出た加藤弘之の《真政大意》は〈コムミュニスメぢゃの,或はソシャリスメなど申す二派の経済学〉について触れ,西周(にしあまね)の《百学連環》(1870講述),《社会党の論》(1872講述)も,〈通有党(コミュニスト),公共党(ソシアリスト),烏有党(ニヒリスト)〉に触れた論述がある。また,小崎弘道《近世社会党の原因を論ず》(《六合雑誌》1881)や西河通徹《露国虚無党事情》(1882)は,マルクスに言及している。しかし,明治初年には,ほとんどもっぱら社会主義を,治安を乱すものという視点で論じていた。
しかし,自由民権運動を経て明治30年代になると,ようやく労働運動も胎動し,1898年には,村井知至,安部磯雄,片山潜,木下尚江,幸徳秋水ら,主としてユニテリアン派のキリスト者による社会主義研究会が結成され,キリスト教社会主義の展開のなかで,マルクスおよびマルクス主義の紹介が行われた。そして,幸徳秋水《廿世紀の怪物帝国主義》(1901),西川光二郎《カール・マルクス》(1902),幸徳秋水《社会主義神髄》,片山潜《我社会主義》(ともに1903)などの著作も刊行された。とくに最後の二つの著作は明治期の二大社会主義文献とされ,唯物史観の理解を進めたものであった。
やがて日露戦争に対する非戦論の主張・運動のなかで,幸徳秋水,堺利彦らは平民社を設立し,《平民新聞》を発行して社会主義運動の中心となったが,治安警察法による弾圧の下で解散せざるをえなくなる。その後1906年,堺利彦は雑誌《社会主義研究》を発刊し,マルクス主義の理論的研究とその普及を行い,幸徳・堺訳の《共産党宣言》,リープクネヒト《マルクス伝》やカウツキー《エンゲルス伝》,クロポトキン《無政府主義の哲学》,エンゲルス《科学的社会主義》などの翻訳が掲載された。その間,平民社解散後アメリカに渡った幸徳秋水は,アメリカで労働運動とアナーキズムに接し,06年に帰国,アナルコ・サンディカリスムの立場から直接行動論を唱えて,議会主義の立場をとる片山潜や西川光二郎らと対立した。こうして,社会主義運動内部の対立が激化するなかで,10年〈大逆事件〉によって社会主義者と無政府主義者は弾圧され,幸徳は刑死し,片山はアメリカに亡命し,堺らは売文社で糊口(ここう)をしのぐこととなり,いわゆる〈冬の時代〉に入る。堺はこの間《唯物的歴史観》(1912)などの研究をつづけた。
明治が大正に転換し,大正デモクラシーの高揚とロシア革命の影響が,〈冬の時代〉の終りを告げると,社会主義とマルクス主義の研究・運動も復活する。人道主義的立場から《貧乏物語》(1917)を書いていた河上肇は,個人雑誌《社会問題研究》を創刊(1919)し,しだいにマルクス主義研究を進めた。また堺や山川均,荒畑寒村らも《社会主義研究》や《新社会》を発刊して,〈我々の旗印とは何ぞや,曰くマルクス主義である〉と宣言(1919)し,労農ロシアのボリシェビズムへと向かった。一方,大杉栄は荒畑寒村とともに雑誌《近代思想》を創刊(1912)し,アナルコ・サンディカリスムの立場から新しい思想的啓蒙を行っていたが,クロポトキンの《相互扶助論》の訳出をはじめ,アナーキズムを広める活動を行った。こうして,1921年前後に両者の対立は〈アナ・ボル論争〉として激化し,労働運動にも大きな影響を与えたが,やがて堺や山川らは国際共産主義運動と結びついて日本共産党を結党し,〈アナ・ボル論争〉もボリシェビズムが勝利して,日本のマルクス主義の基調となった。
これを指導した理論家は山川均であり,彼は労働運動を無産階級の政治闘争へと転換する〈方向転換〉を明確にした。やがて普選運動が高まり,また学生の間にマルクス主義が広がるなかで,関東大震災の混乱や政府の弾圧の強化などの情勢に対応して,山川らは日本共産党を解党して合法的単一無産政党を結成しようとした。これに対して,第1次大戦後のワイマール・ドイツでK.コルシュらにマルクス主義を学んで帰国した福本和夫は,雑誌《マルクス主義》(1924創刊)に《経済学批判におけるマルクス《資本論》の範囲を論ず》などの一連の論文を発表し,マルクスの唯物弁証法的方法により資本主義社会の現実の運動法則を明らかにするとともに,〈分離・結合〉論を展開して山川の〈方向転換〉を批判し,先鋭な前衛党による理論闘争と政治闘争の必要を説いた。それは,これまでのマルクス主義理解を飛躍的に高めるものとして影響を広げる一方,〈山川イズム〉と〈福本イズム〉の対立として労農運動の組織をはじめプロレタリア文芸連盟などの諸組織の分裂を結果した。
福本イズムによって日本共産党が再建された(1926)が,翌年コミンテルンの〈27年テーゼ〉によって山川イズムと福本イズムの双方が批判され,以後,福本イズムを清算した日本共産党はコミンテルンの指導の下で正統派の位置を与えられることになる。これに対して,〈27年テーゼ〉と共産党とに対立する山川,堺らは,雑誌《労農》を創刊(1927)し,非共産党マルクス主義者の集りとして労農派と称された。そのころ,3年にわたるヨーロッパ留学から帰国した哲学者三木清は,雑誌《思想》に《人間学のマルクス的形態》など独自の視点で一連のマルクス主義〈哲学〉に関する論文を発表し,学界や知識人・学生に広範な影響を与え,また羽仁五郎とともに雑誌《新興科学の旗の下に》を創刊(1928)して,マルクス主義を学問の公共圏に導入した。このように,マルクス主義は多くの知識人・芸術家をひきつけ,昭和初年のころには政治と学問・思想,文芸の世界でもっとも大きな力をもった思想となった。
そのなかで,1932年コミンテルンは〈32年テーゼ〉を示し,日本を半封建的地主とブルジョアに依拠する絶対主義的天皇制国家と規定して,社会主義革命へ強行的に転化するブルジョア革命を日本革命の戦略とした。このような日本資本主義(社会)像をめぐっての論争は,野呂栄太郎などによって企画され,羽仁五郎,服部之総,山田盛太郎,平野義太郎らマルクス学者の執筆する《日本資本主義発達史講座》(1932-33)となり,これを契機に,猪俣津南雄,向坂逸郎,櫛田民蔵らの労農派と《講座》執筆者ら講座派の間で,日本社会の特質をめぐって日本資本主義論争(封建論争)が行われた。このころ,政府の弾圧は治安維持法によって激烈に行われたが,非合法の共産党員をはじめ多くの知識人がマルクス主義の政治と研究に加わり,日本のマルクス主義研究は,国際的にも高い水準を示した。河上肇と大山郁夫を監修者とする《マルクス主義講座》(1927-29)や向坂逸郎らによる改造社版《マルクス=エンゲルス全集》の刊行をはじめ,多くのマルクス主義文献の翻訳,多様な形での研究書が出版され,ジャーナリズムは〈左翼文化の花盛り〉といわれた。しかし35年を過ぎるころから,超国家主義,軍国主義が支配的となり,共産党は壊滅し,講座派,労農派の学者の多くも検挙・投獄された。戸坂潤らの唯物論研究会をはじめ,偽装したマルクス主義研究がなお行われたとはいえ,この時期の日本のマルクス主義はほとんど圧殺されたのである。
1945年の太平洋戦争の敗戦とともに,マルクス主義は戦後思想の主流として復活した。とくにマルクス主義者が天皇制と戦争に反対して闘った過去をもつだけに,復活した共産党とマルクス主義は大きな権威をもった。しかしまた,戦前の転向,挫折の経験や戦争そのものの体験は,個人の〈主体性〉の自覚を強め,客観的歴史法則を説くマルクス主義理解に鋭い批判を加えさせることにもなった。荒正人ら雑誌《近代文学》の同人によって提起された主体性問題は,哲学や歴史学などの分野で〈主体性論争〉(1946-49)を生んだ。しかし,マルクス主義はさまざまな分野に何らかの形で大きく影響し,とくに経済学と歴史学の分野で,日本のマルクス学は高い水準に達した。たとえば労農派系の宇野弘蔵は,原理論,段階論,現状分析の三つの領域に分けてマルクス理論を体系化して既存のマルクス理論と論争し,歴史学では古代史と明治維新や自由民権などの近代史で大きな学問的成果を生んだ。一方,政治の局面では,50年米ソの冷戦が激化すると,コミンフォルムの批判と占領軍の弾圧で共産党は分裂し,極左的武闘路線をとるなど混乱し,その影響力は急速に失墜したが(六全協),やがて55年ころから立直りに努め,中ソ論争以降自主独立路線をとるにいたった。また社会党も,山川,向坂らが創立した,マルクス=レーニン主義に立つ,社会主義協会などの左派が中心となって,戦後の労働運動に大きな影響を与えた。しかし,56年のスターリン批判以降,高度経済成長と大衆社会化の波のなかで,日本のマルクス主義も,世界的動向を反映しつつ政治と思想の両面で多様化している。
執筆者:荒川 幾男
マルクスの名を初めて中国に紹介したのは上海の教会雑誌《万国公報》で,1899年のことだったといわれている。むろん,これはマルクス主義そのものの紹介が目的ではなかったが,宣教師が最初の伝播者(でんぱしや)となったという事実は,マルクス主義の中国における受容史の性格を象徴している。世界史の帝国主義段階において半植民地従属国となった中国では,マルクス主義の受容もそれに応じた特色をそなえる。受容の主体を基準とすれば,その歴史は大きく2段階に区分でき,1919年の五・四運動が分水嶺となる。
1900年の義和団闘争以後,台頭したブルジョア革命派は,孫文の三民主義を典型とする革命理論の形成を開始した。未成熟で脆弱(ぜいじやく)な階級でありながら,帝国主義と封建主義二つの強大な勢力を敵とする闘争を担わなければならなかった中国ブルジョア革命派は,プロレタリアート,農民を自己の陣営に結集させるために,労働人民の生活(民生)の向上と資本主義的発展とを同時に解決する,換言すれば搾取なき資本主義化を約束する理論を必要とした。孫文が民主主義によって欧米先進国ですでに露呈した資本主義の弊害を回避しつつ中国の資本主義化をはかろうとしたのは,まさにこのような要請にこたえるためであった。その理論形成の過程において,資本主義社会を止揚する理論としてのマルクス主義が参照されることになった。中国同盟会の機関誌《民報》第2号(1906)の朱執信《ドイツ革命家小伝(甲)マルクス》は,このような立場からマルクス主義を解説した最初の比較的まとまった文章であり,おもに《共産党宣言》の紹介を通じて,歴史の決定要因である階級闘争によって新しい平等社会が到来する必然性が説かれている。しかしそこには,階級闘争一般や,貧富の平均化などは強調しておきながらも,資本主義生産関係に内在する諸矛盾,階級廃絶者としてのプロレタリアートの歴史的役割などについては触れないといったマルクス主義の換骨奪胎がみられ,半植民地中国におけるブルジョア革命派の世界史的立場を鮮明に反映しているのである。
辛亥革命以降も孫文らは,民族,民権が達成されたいま,残された課題は民生であるとして,〈社会革命〉の必要性を主張したものの,欧米における社会主義革命が暴力を必須とするのに対し,〈中国の社会革命は必ずしも武力を用いない〉(〈孫中山先生の社会主義談〉--《新世界》第4期)との見解を固持し,プロレタリアートの階級闘争による資本主義の死滅という核心ぬきのマルクス主義を称揚しつづけた。ブルジョア革命派によるマルクス主義の受容は,ブルジョア社会主義の本質からはずれるものではなく,翻訳文献も《共産党宣言》の序文および第1章がアナーキストの雑誌《天義》(1908)に日本語から重訳されたのが目だつ程度で,あくまで前史にすぎなかった。
比喩的に〈十月革命の砲声がマルクス=レーニン主義を中国へ送りとどけた〉(毛沢東)と表現されるように,第1次世界大戦の勃発にともなう中国民族工業の興隆とプロレタリアートの成長,そしてロシア十月革命の勝利は,労働者の政権が実現可能であることを確信させ,本格的なマルクス主義の受容を促した。とりわけ労働者階級が初めて反日政治闘争に登場し,一応の勝利をおさめた五・四運動はこの傾向にはずみをつけた。新文化運動の中で雨後のたけのこのごとく創刊された新聞,雑誌でマルクス主義が喧伝され,《賃労働と資本》(食力訳《晨報》1919年5月),《共産党宣言》(陳望道訳,1920年8月上海社会主義研究社)など,マルクス主義の原典が完訳されはじめる一方,河上肇の《社会問題研究》所載論文をはじめ,当時の日本におけるマルクス主義研究の成果が旺盛に紹介された。なかでも《新青年》は6巻5号(奥付は1919年5月であるが,実際は同年9月発行)でマルクス主義特集を組んで以後,マルクス主義受容の中心的存在となった。1920年夏ころにはまず上海で陳独秀らが共産主義小組を結成して,実践活動に着手し,同年11月,機関誌《共産党》を創刊した。
当初これらの雑誌で,マルクス主義の核心として,過度とも思えるほど強調されたのは階級闘争によるプロレタリア政権の樹立とプロレタリア独裁であった。これは,清末以来中国の知識人に広くうけいれられてきたアナーキズム思想や孫文らのブルジョア社会主義などの影響を払拭(ふつしよく)する意味もあったが,創立期の中国共産党が五・四運動以後勃興しはじめた労働運動の上げ潮にのって,北京,広東,長沙などの都市で労働者の組織化にのりだした時期の傾向を反映するものでもあった。しかし,若干の大都市にプロレタリアートが発生したとはいえ,封建的生産関係がなお大勢を占める前近代的な農業国において,プロレタリア革命が果たして実現可能かという問題は,たんに論難者の根拠となったばかりでなく,中国のマルクス主義者をも悩ませた。
初期中国共産党の理論的指導者,李大釗(りたいしよう)は,〈中国の今日は世界経済のうえでは世界のプロレタリア階級にならんとする地位に立っている〉(〈経済から中国近代思想変動の原因を解釈する〉--《新青年》第7巻第2号)と述べ,〈プロレタリア民族〉という観点からこの問題を解決しようとした。さらにフランスに留学していた蔡和森は,レーニンの帝国主義論をより直截に導入して,中国革命が帝国主義の世界支配と直接対峙する性質を有することを明らかにした(〈マルクス学説と中国プロレタリアート〉--《新青年》第9巻第4号)。かくして,帝国主義と国内におけるその代理人封建主義軍閥に反対する闘争が,中国マルクス主義者の実践課題となった。反帝反封建闘争の過程では,民族ブルジョアジーの位置づけ等難問が多数あったが,その中から新民主主義論,農村革命根拠地論など,複数の帝国主義に分割支配された農業国の実情に応じた理論が生みだされ,1949年の社会主義中国の成立をみたのであった。
執筆者:森 時彦
第2次大戦前の日本共産党の合法理論誌。関東大震災によって停刊した同党の合法機関誌《階級戦》の後継誌として1924年5月創刊(月刊)。表面的には編集発行人は西雅雄,発行所はマルクス協会(1925年10月以降,希望閣)となっているが,実際は日本共産党が24年2月ころ解党した際に設けた〈ビューロー〉のメンバー(荒畑寒村,青野季吉,野坂参三ら)によって発行され,とくに学生,知識人に大きな影響を与えた。創刊当初は,機関誌というより研究誌的色彩が濃かったが,日本労働総同盟の分裂問題など新たな情勢の展開のなかで,第14号(1925年6月)以降実践的問題をも扱うようになった。この時期,本誌の名を高めた論客は福本和夫であろう。経済学の方法に関する論文発表後(1924年12月),やつぎばやに河上肇,赤松克麿,河野密,山川均らの批判を誌上で展開し,彼の理論は〈福本イズム〉として知られるようになった。26年12月第3回大会を開いて共産党は再建され,同誌は機関誌の役割を果たすようになり,市川正一,志賀義雄,渡辺政之輔,鍋山貞親ら共産党の指導的理論家のほとんどが執筆,〈27年テーゼ〉の記載,《社会思想》《労農》との論争,日本労農党批判などを展開した。28年三・一五事件で共産党は打撃をうけ,同誌もその影響により末期には高橋貞樹がほとんど1人で執筆するという状態となった。その後,29年に四・一六事件のため4月号(56号)をもって終刊した。
執筆者:梅田 俊英
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狭義には、カール・マルクスの思想・理論・学説のこと、広義には、マルクスとその盟友エンゲルスを継承した諸思想・理論・学説およびそれに基づく実践活動をさす。マルクス主義の思想的・理論的基礎は、弁証法的・史的唯物論であり、経済学説としての剰余価値説に基づき主著『資本論』が書かれ、その政治的学説としての階級闘争論と結び付いて、資本主義社会の崩壊と社会主義・共産主義の到来を展望した。その実践的性格ゆえに、マルクス主義は労働運動・社会主義運動に理論的基礎を提供し、20世紀においてもっとも影響力ある思想の一つとなったが、1989年の東欧革命、1991年ソ連解体以後、その革命論、階級闘争論は急速に影響力を失った。
[加藤哲郎]
マルクス主義は、マルクスとエンゲルスが、それ以前の人類史のさまざまな知的遺産を批判的に摂取することにより、19世紀なかばに形成された。ヘーゲル弁証法をはじめとしたドイツ古典哲学、スミスやリカードらのイギリス古典派経済学、サン・シモン、フーリエらのフランス社会主義・共産主義思想は、のちにレーニンによって「マルクス主義の三つの源泉」と命名されたが、古典古代の唯物論哲学、ホッブズ、ロック、ルソーらの近代市民思想、ダーウィン進化論を含む自然諸科学の同時代の到達点なども、マルクス主義の生成・展開に役割を果たしている。エンゲルスは、サン・シモン、オーエン、フーリエらの「空想的社会主義」との対比で、近代諸科学から引き出されたマルクスの社会主義思想を「科学的社会主義」と称した。
マルクス自身の思想形成に即してみると、ヘーゲル主義左派の急進的民主主義者としての出発から『経済学・哲学手稿』を経てエンゲルスとともに唯物史観を確立する『ドイツ・イデオロギー』(1845~1846)に至る初期マルクス、『共産党宣言』と一八四八年革命の敗北・総括を経て『経済学批判要綱』など政治経済学批判ノート作成に携わる中期マルクス、そして、『資本論』第1巻刊行(1867)からパリ・コミューンを第一インターナショナル指導者として経験し、『フランスの内乱』『ゴータ綱領批判』『ザスーリチへの手紙』などを残しながら『資本論』第2巻以降を完成しえずに没した後期マルクス、という歴史的展開がみられる。
[加藤哲郎]
初期のマルクスは、フランス啓蒙(けいもう)思想の影響を受けつつ、ヘーゲル哲学の思弁的・観念論的側面を、フォイエルバハ的な「現実的人間」の立場から克服し、実践的・唯物論的弁証法に仕上げていく。その際マルクスは、キリスト教的普遍主義やプロイセン国家の幻想的公共性を人間の類的本質の疎外態としてとらえ、人間の共同性の回復は、私的利害対立を生み出す市民社会内部での私的所有の廃絶に求めなければならないと説いた。歴史発展の主体を現実的諸個人に置き、人間の生存の第一条件としての生産に着目し、生産のなかでの人間と自然との物質代謝、人間と人間との社会的交通のあり方に焦点をあわせていった歴史観・社会観としての史的唯物論の成立は、人間存在そのものを自然史のなかに位置づけ、精神・意識に対する物質的存在の先行性を承認し、存在の物質的運動を内的矛盾の発展過程と把握する世界観としての弁証法的唯物論の成立と不可分であった。それは、人間の類的解放の理論として、諸個人の自由な協同社会としての共産主義の構想と結び付いて、形成されたものであった。
[加藤哲郎]
史的唯物論は唯物史観ともよばれ、マルクスの次の定式によって理解される。「人間はその生活の社会的生産にあたって、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した関係、生産関係に入る。この生産関係は、彼らの物質的生産力の一定の発展段階に照応する。これらの生産関係の総体が社会の経済的構造を形づくる。これが現実の土台であって、その上に法律的および政治的な上部構造がたち、またそれに一定の社会的意識諸形態が照応する。物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的な生活過程一般を条件づける。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産力は、その発展のある段階で、この生産力がそれまでその内部で働いてきた現存の生産関係と、あるいはそれを法律的に言い表したものにすぎないが、所有関係と、矛盾するようになる。これらの関係は、生産力の発展の形態から、その桎梏(しっこく)に転化する。そのとき、社会革命の時代が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造自体が、あるいは徐々に、あるいは急速に変革される。……大づかみにいって、経済的社会構成体の相次ぐ諸時代として、アジア的・古代的・封建的・近代ブルジョア的の諸生産様式をあげることができる」(『経済学批判』序文)。この定式に凝縮的に示された、社会的存在―社会的意識、物質的生産過程―イデオロギー的生活過程、土台―上部構造、生産力―生産関係、生産様式―経済的社会構成体、などの諸概念は、マルクスの膨大な著作のなかで、さまざまなニュアンスを含んで用いられており、エンゲルスやレーニン、スターリンらによって単純化されて説明される場合もあるが、マルクス主義的社会観の不可欠の要素となっている。また、原始共同体、奴隷制、封建制、資本主義と理解されうる諸社会の発展系列も、その共産主義へ至る道筋は、未開→野蛮→文明、人類前史→本史、人格的依存関係→物象的依存関係→自由な諸個人の共同社会、労働と所有の本源的同一性→分離→同一性の高次復活、本源的共同体→市民社会→共同体的市民社会、社会的・共同的所有→階級的・私的所有→共産主義、などの視角からの歴史把握を排除するものではなく、マルクスの唯物史観は、単線的・継起的発展説であるよりも、複合的・重層的発展説であったと考えられる。
[加藤哲郎]
唯物史観は生産力と生産関係の矛盾に社会発展の根拠を求めるが、それは歴史のなかで諸個人の能動的実践の果たす役割を否定する因果的決定論ではなく、むしろ生産手段の所有関係によって規定される諸個人の階級的対立とその政治的表現である階級闘争の次元での、諸個人の主体的実践に決定的意義を認めるものである。生産手段の所有関係は、社会的生産のなかでの諸個人の役割、生産物の分配諸関係、諸個人の政治的・イデオロギー的位置と役割の自覚などにも規定的に作用し、歴史具体的な社会発展は、諸階級の闘争の歴史として理解される。資本主義社会においては、生産手段を資本制的に所有するブルジョアジーと、商品としての労働力の販売のみにより生活を維持するプロレタリアートとの闘争が、基軸となる。一八四八年革命の直前に書かれた『共産党宣言』は、この階級闘争論による社会主義革命への歴史的スケッチであり、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』や『フランスの内乱』は、階級闘争論による現実政治分析の典型である。階級闘争論によって、マルクスは、資本主義社会の内部において社会主義・共産主義への変革へと向かうプロレタリアートの歴史的使命を発見し、労働者階級政党結成の意義をみいだし、資本主義から共産主義へ移行する過渡期におけるプロレタリアート独裁の思想を提起した。
[加藤哲郎]
資本主義社会では商品生産・流通が全社会において支配的なものとなり、労働力さえも商品化されている。自由・平等・民主主義といった観念は、この商品交換関係の普遍化により市民社会の表層に現れるが、生産過程においては、資本家に購買された労働力は資本の統制下で消費され、労働力を再生産するために必要な価値以上の価値を生産物に付加する。これが剰余価値であり、その実体は社会的必要労働時間を超える剰余労働時間で計られ、この剰余価値の生産が、資本主義的生産の規定的動機となる。剰余価値は、投下資本価値を上回る自己増殖する価値として、利潤に転化し、企業者利得、利子、地代の源泉となる。労働者階級は、賃金引上げ・労働時間短縮などで資本家階級に抵抗するとともに、究極的にはこの剰余価値搾取に反対する闘争によって、社会主義・共産主義へと向かっていく。『資本論』は、剰余価値論に基づいて資本主義社会を解剖したマルクスの主著である。
[加藤哲郎]
剰余価値搾取に反対する労働者の階級闘争は、生産手段の共同所有に基づく共産主義を目標とするが、社会主義革命による資本主義の廃絶によってただちに共産主義が実現されるのではなく、その過渡期にはプロレタリア独裁の国家が必要とされ、「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義」の第一段階でも、資本主義社会の母斑(ぼはん)が残る。レーニンはこの第一段階を社会主義段階とよんだが、ロシア革命以後生まれた現存社会主義国家については、これがマルクスの構想した共産主義へのいかなる発展段階にあるのかをめぐって学問的・政治的論争が行われた。
[加藤哲郎]
マルクス没後のマルクス主義は、その理論・学説の解釈と理解の正統性、その適用としての政治的戦略・戦術をめぐって、さまざまな潮流を生み出してきた。第二インターナショナルのベルンシュタイン、カウツキー、これに反対したローザ・ルクセンブルク、ロシア革命に勝利したレーニン、これを引き継いだトロツキー、ブハーリンと、彼らを失脚させたスターリン、スターリンと同時代のルカーチ、コルシュ、グラムシ、社会民主主義系のヒルファーディング、バウアーなどが著名である。ロシア革命後、世界人口の3分の1を超す人々が社会主義国家のもとで生活し、こうした国々ではマルクス・レーニン主義、毛沢東主義などとしてのマルクス主義が絶対的権威をもち、学校教育でも用いられたため、1989年東欧革命、1991年ソ連解体以後は、むしろマルクス主義そのものを抑圧思想・全体主義思想として批判・排除する傾向が強い。他方、西欧社会では、マルクス主義そのものの多元的存在形態を積極的に評価し、19世紀資本主義分析の「古典」の一つとして歴史的に位置づけ、その現代的発展を図ろうとする立場も現れてきている。
[加藤哲郎]
『エンゲルス著、寺沢恒信訳『空想から科学へ』(1966・大月書店・国民文庫)』▽『レーニン著、全集刊行委員会訳『カール・マルクス』(1965・大月書店・国民文庫)』▽『P・アンダーソン著、中野実訳『西欧マルクス主義』(1979・新評論)』
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(石川伸晃 京都精華大学講師 / 2007年)
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マルクスが創造した世界観,社会主義理論を称する。フランスの空想的社会主義,イギリス経済学,ドイツ古典哲学をもととするといわれる。弁証法的唯物論を基礎とするか否かについては意見が分かれるが,唯物史観(史的唯物論)と剰余価値説に立脚しており,資本主義社会の胎内から必然的に社会主義社会が生まれる,と説く。19世紀末には修正主義が生まれて,民主主義と社会改良による社会主義への平和な移行を説き,一方レーニンらの共産主義は武力革命とプロレタリアート独裁を強調した。
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ドイツのカール・マルクスが,ドイツ観念論哲学・イギリス古典派経済学・フランス社会主義思想を批判的に継承して主張した,資本主義を否定し共産主義を展望する学説・思想。日本には堺利彦の雑誌「社会主義研究」(1906創刊)などによって紹介された。ロシア革命の成功は,その正しさの証として知識人などにうけとめられ,1922年(大正11)には非合法に日本共産党が結成された。30年(昭和5)前後には,日本の現状把握と革命の展望とをめぐって,同じくマルクス主義を唱える講座派と労農派が論争をくり広げ,学問・文化に大きな影響を与えたが,第2次大戦の戦時体制強化にともなって窒息させられていった。戦後,言論の自由が保障されると,社会運動・学問・文化への影響は一時大きくなったが,社会主義諸国が崩壊し,また資本主義が新たな発展を示すなかで影響力は低下し,その解釈も多様化してきている。
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…マルクス,エンゲルスのイデオロギー論のねらいは,こうした支配階級のイデオロギーの虚偽性を社会の〈下部構造〉の矛盾との相関のなかで暴露し,批判することにあった。上部構造(2)イデオロギー論はその後,マルクス主義陣営以外では,第1次大戦後のドイツで〈知識社会学〉という社会学の一特殊分野を生み出すことになった。その体系家K.マンハイムはイデオロギーとユートピアとを対比し,両者ともに現実の社会には適合しない〈存在超越的〉な観念であるとしながらも,ユートピアが〈存在がいまだそれに達していない意識〉,つまり既存の社会をのりこえる革命的機能をもつ意識であるのに対し,イデオロギーは〈存在によってのりこえられた意識〉,つまり変化した新しい現実をとりこむことのできない,時代にとり残された意識,と規定した。…
…フランス語のエリートéliteという語は17世紀にすでに用いられていたが,それが政治的概念として英語圏でも用いられるようになったのは1930年代以降のことである。エリート理論はマルクス主義理論に対する批判として生まれた。つまり,マルクス主義が政治を上部構造としてとらえ,下部構造である経済によって究極的に規定されるとしたのに対して,エリート理論は政治の自律性を説き,政治エリートはけっして経済的エリートと同一視しえないことを指摘した。…
…K.マルクスとともにマルクス主義(いわゆる科学的社会主義)の創設者。マルクスの単なる協力者ではなく,独自の理論的傾向をもち,今日のマルクス主義(ことに正統派マルクス主義)に,むしろマルクス以上の影響を与えている。…
…また〈産業革命〉など革命という語の比喩的な使用例も,上述したようなレボリューション概念の近代的な意味論的転換とその含意を前提にしている。
[マルクス主義の革命理論]
上述の意味での革命こそが近代および現代の革命理論および革命に関する理論の主題を構成するが,この主題は,革命の定義を前提として,革命はなぜおこるかというその発生論ないし原因論,革命の政治過程の分析,革命の経済的・政治的・社会的帰結ないし意義の評価などに分節化されうる。そしてこれらのすべてにわたって,相対的にもっとも首尾一貫した説明を準備すると同時に,少なくとも現代の革命に対してもっとも大きな実践的インパクトを与えているのは,マルクス主義,なかんずくマルクスとレーニンの革命理論である。…
…ソルボンヌに学ぶ。1933年,共産党に入党,56年から党政治局員としてイデオロギー部門を担当(1968年まで),マルクス=レーニン主義を強硬に擁護したが,スターリン批判後はマルクス主義哲学の再生に努め,社会主義への新しい道を求めて宗教をはじめ広く文化の問題に取り組み,70年党から除名される。《20世紀のマルクス主義》をはじめ,後期の著作の多くは日本にも紹介されている。…
…オーストリアやハンガリーに代わってワイマール共和国のドイツがその中心となり,のちにアメリカで有名になる多くの精神分析学者が育った。彼らのなかには,フロイトが未来の文化や革命に対して悲観的であったのに対して,社会主義的革命思想に共感し,フロイト主義とマルクス主義の総合を試みる者もあった。なかでも,ライヒは,もっとも急進的な例であるが,その結果,精神分析学派からも共産党からも排除された。…
…同時に,カエサル独裁以前のカエサル,ポンペイウス,クラッススの三頭政治,フランス革命のジャコバン党,ドイツのナチスやソ連のボリシェビキ党=共産党など,グループや政党と結びつけて独裁が語られる場合もある。マルクス主義においては,資本主義社会における政治はたとえ民主主義形態をとっていてもその本質は少数のブルジョアジーの独裁であるが,社会主義社会は多数者である労働者階級の独裁=プロレタリアート独裁であり,真の民主主義である,とする階級独裁理論がとられてきた。
[古代ローマのディクタトル]
独裁dictatorshipの語自体は,古代ローマのディクタトル(独裁官)の制度にはじまる。…
…発足当初は吉野の民本主義論を奉じたが,20年代に入って思想界における社会主義の台頭に伴い,その重要な伝達者,実践者となった。 社会主義運動内の新人会出身者の分布は,右派の赤松,宮崎,《社会思想》によって中間派理論を主唱した河野密,三輪寿壮,平貞蔵,共産党系の《マルクス主義》に論陣をはった志賀義雄,林房雄,村山藤四郎,水野成夫,浅野晃など多方面にわたる。そのほか,河村又介,蠟山政道,服部之総,住谷悦治など著名な学者や大宅壮一,中野重治などの文人等々各界のリーダーが輩出した。…
※「マルクス主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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