カンボジア史(読み)カンボジアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カンボジア史」の意味・わかりやすい解説

カンボジア史
カンボジアし

現在のカンボジア人の祖先であるクメール族の歴史時代は1世紀末頃,中国史料に「扶南」と記される王国の建国に始る (→扶南国 ) 。扶南の建国やその後の隆盛はインドからの移住者たちの支配や指導に負うところが大であった。その後メコン・デルタ地帯を領域として繁栄したが,6世紀にいたって衰退した。代って扶南の北方属国の真臘が勢力を伸ばした。しかし真臘が全クメールの統一を完成するのは,なお2世紀にわたる水真臘,陸真臘などの分裂抗争の時代を経なければならなかった。9世紀初頭にジャヤバルマン2世ジャワの勢力下にあったクメール族を解放し,アンコール地方に首都を確立し,いわゆるアンコール朝の繁栄の基礎を築いた。この時代の遺跡としてアンコール・ワットアンコール・トムなどが今日に残されている。その後 1431年,西隣の新興勢力のアユタヤ (アユティア) からの攻撃によって首都アンコールを放棄し,アンコール時代は終りを告げた。以後カンボジアは絶えずタイからの圧迫を受け,さらに 17世紀にはベトナムからも圧迫を受け,衰退の一途をたどった。そして,両隣国からの圧迫から逃れるため 1863年フランスの保護領となり,フランス領インドシナ連邦を構成して植民地支配下におかれた。第2次世界大戦末 (1945) に独立したが日本の敗戦によって崩壊し,1949年再び限定独立。 53年完全独立を達成。 70年3月にはクーデターが起り,71年 10月9日クメール共和国に国名を変更した。カンプチア民族統一戦線は親米路線のロン・ノル政権を 75年4月 17日に崩壊させ,共産政権を樹立した。このカンプチア人民共和国では首相ポル・ポト実権を握り,アンカーという組織を通じて都市から農村への強制移住や大量虐殺を行なった。 77年末以後ベトナムは反政府勢力を支援してポル・ポト政権を圧迫し,78年 12月にカンボジアに進攻してポル・ポト政権を倒し,親ベトナム系のヘン・サムリンが新政権を樹立した。旧政権の残党はなおタイ国境付近で抵抗し,大量の難民がタイ側に流出した。その後,ポル・ポト率いる赤いクメールのゲリラ活動をはじめ内戦状態が続き,92年国連カンボジア暫定統治機構 UNTAC介入。緊張のなかで 93年5月総選挙が行われ,カンボジア暫定国民政府発足,同年9月には新憲法が採択されカンボジア王国が成立,シアヌークが初代国王に即位した。総選挙の結果を受け,ラナリット (フンシンペック党) が第一首相に,フン・センが第二首相に就任するが,のち両者の対立が激化。 97年7月武力衝突が起り,フン・センが国内を制圧,ラナリットは失脚した。 98年 11月フンシンペック党と人民党連立政権の樹立に合意,フン・センが単独の首相となり 12月新政府が発足した。

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