大宝城(読み)だいほうじょう

改訂新版 世界大百科事典 「大宝城」の意味・わかりやすい解説

大宝城 (だいほうじょう)

茨城県下妻市大宝にあった城。平安末期には常陸大掾(だいじよう)氏の一族下妻氏,同氏没落の後は下野の豪族小山氏庶流の下妻氏の居城であったと伝えられる。鎌倉末期,下妻氏は北条氏の圧迫を受け勢力をそがれるが,建武新政期その反動もあってか,この地域は南朝方の有力な根拠地となる。1341年(興国2・暦応4)春日顕国興良親王を奉じ,城主下妻政泰に迎えられて,この城に入る。以後2年にわたる激戦のすえ43年11月,大宝沼北岸の関城とともに落ち,城主政泰は戦死した。翌年3月,春日顕国はこの城を奪い返すが,わずか1日で足利方の手に落ちた。城地は大宝沼に突出した舌状台地上にあり,東・西・北面は断崖,南は土塁空堀とで敵を防ぐ。城跡の一部に,古代から中世にかけてこの地域の宗教の中心的位置を占めた,大宝八幡神社(下妻宮)がある。周囲の沼地は明治末年水田化され,城跡も地形改変が著しい。1934年国指定史跡となる。
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日本の城がわかる事典 「大宝城」の解説

だいほうじょう【大宝城】

茨城県下妻市にあった平城(ひらじろ)。国指定史跡。小山氏の一族の下妻氏の居城。1232年(貞永1)に下妻長政が築いたとされる。三方を大宝沼に囲まれた高台に築かれた水城で、近隣の関城(筑西市)とは船で結ばれていたといわれる。南北朝時代に、城主の下妻政泰が南朝方に属したため、大宝城は足利幕府の高師冬(こうのもろふゆ)らの攻撃を受けた。1341年(暦応4/興国2)、北畠親房が籠城していた小田城の城主小田治久が幕府に降伏して城を開いたため、親房は関城に移り、春日顕国は興良親王を奉じて大宝城に入城した。下妻一族は顕国らを主将として、関城の関氏と連携しながら幕府軍に対抗したが、やがて関城との連携を断たれて落城した。1344年(康永3)11月、春日顕国は大宝城の奪還に成功したが、翌日には再奪還され、顕国は討ち死にした。同市内の大宝小学校や大宝八幡神社のある一帯がかつての大宝城跡で、土塁や空堀の跡がわずかに残っている。関東鉄道常総線大宝駅から徒歩約15分。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大宝城」の意味・わかりやすい解説

大宝城
だいほうじょう

茨城県下妻市の旧大宝沼のほとりにあった山城。南北朝時代,大宝沼を挟んで建つ関城とともに,南朝方の拠点であった。城主下妻政泰は関城主関宗祐とともに,南朝の勢力を回復するために東下した北畠親房らを助けて力を尽くした。興国2=暦応4 (1341) 年以来,高師冬ら北朝方に攻められ,2年後の冬,政泰らが討ち死にして落城。廃城年は不詳。

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百科事典マイペディア 「大宝城」の意味・わかりやすい解説

大宝城【だいほうじょう】

茨城県下妻市大宝にあった平安末期から南北朝期にかけての城。平安末期には下妻氏,鎌倉初期には小山氏が居城したと伝え,南北朝期には小山氏庶流の下妻氏が在城。1341年興良親王を奉じた春日顕国が城主下妻政泰に迎えられて入城,南朝方の拠点となった。1343年落城し,政泰は戦死,顕国らは城を逃れた。大宝沼と旧騰波江(とばのえ)に挟まれた台地上にあり,東・北・西は断崖で,南側に土塁と空堀を巡らす。城跡には大宝八幡神社がある。国指定史跡。

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