改訂新版 世界大百科事典 「バビロニア美術」の意味・わかりやすい解説
バビロニア美術 (バビロニアびじゅつ)
メソポタミア南部(バビロニア)においてセム族が営んだ美術の総称で,時代的にはほぼ前20世紀初めに始まり,前6世紀を下限とする。ウル第3王朝の滅亡後,イシン・ラルサ時代,バビロン第1王朝時代を一般に〈古バビロニア時代〉(前20世紀初め~前16世紀初め)と称し,美術史的にも〈古バビロニア美術〉の呼称をこの時期に用いる。その後のいわゆる〈中期バビロニア時代〉に,この地はカッシートの支配を受け,次いでいくつかの王朝が興亡を繰り返したが,政治的混乱のあおりを受けて,美術的にはカッシート人による美術の遺品のほかはほとんど作品が伝えられていない。バビロン第1王朝の隆盛期以来,バビロンがつねにメソポタミア文化の中心地であり,当然多くの建築,彫刻,工芸等の芸術が栄えたはずであるが,その重要性のゆえにこの都市はたびたび攻撃の的とされ,破壊され,あるいは新しい都市計画のもとに大きくつくり変えられたために,多くの作品が失われてしまっている。前1千年紀にはアッシリアの支配がバビロニアに及ぶようになるものの,バビロンはつねに文化的に特別の地位を占めていた。この時期から新バビロニア(カルデア王朝)の滅亡期までが,〈新バビロニア時代〉(前8~前6世紀)と呼ばれ,美術史上も同様の扱いをうける。
古バビロニア美術においては,建築の発達が顕著であった。イシュチャリIshchaliのイシュタル・キティトゥム神殿が,複数の建物を一つの複合体の中にまとめることに成功した例として知られている。ユーフラテス川中流域のマリではこのころから再び繁栄期をむかえ,前18世紀前半にバビロン第1王朝のハンムラピ王によって滅ぼされるまで華やかな文化が栄えた。マリのジムリリムZimri-Lim王の宮殿は,複雑な機構をもった宮殿建築の遺例として知られているばかりでなく,壁画が発見されたことでも名高い。とくに〈玉座の間〉の北側にもうけられた中庭の南壁面には,ジムリリム王が神から王権を授けられる場面が表されていた。マリからは石製の彫像も発見されており,〈プズル・イシュタルの肖像〉〈イディ・イルムの肖像〉などは,細部はていねいに仕上げられてはいるものの,やや硬さが目だつ。これに対し〈噴水の壺(アリュバロス)を持つ女神〉〈兵士の頭部〉などは,人体の豊かな量感,表情の微妙な様相などをみごとに表現した作品といえる。彫刻では他にハンムラピのものとも考えられる王の頭部などが知られている。浮彫作品では〈ハンムラピ法典碑〉(スーサ出土)の最上部に彫りこまれた,王が太陽神シャマシュから法典を授かる場面が有名である。このほか,ブロンズ製の小型の彫像,テラコッタ製の小型の浮彫作品がいくつか知られている。後者には,おそらく神話などに題材を求めたと思われる特異な場面または図像が見られる。この時代円筒印章の制作も引き続き行われていたが,意匠,彫りの両面で前の時代に劣り,見るべき特色を示していない。
中期バビロニア美術は,カッシート人による美術に代表される。この後,バビロニアは暗黒時代をむかえ,さらに新アッシリアのセンナヘリブ王によってバビロンが徹底的破壊を被るなど,受難の時代を通過する。
アッシリア滅亡後メソポタミアの覇権を握った新バビロニアは,バビロンを首都としてこの再建整備につとめた。町は周壁にとり囲まれ,内部には宮殿,マルドゥク神殿,ジッグラト,イシュタル門,〈行列大通り〉その他の街路などが造営された。イシュタル門はネブカドネザル2世の宮殿に最も近く,行列大通りに通じていたが,その表面は彩釉煉瓦を用いた装飾で一面におおわれていた。濃青色を背景にライオン,牛,ドラゴンや様式化された植物文様を配した華やかな装飾は,新バビロニアの偉容を語るにふさわしい壮大さと端正さを兼ねそなえている。ネブカドネザル2世の宮殿には,有名な〈空中庭園〉が造営されていたことが知られるが,実体は詳しく解明されていない。
バビロニアはその後アケメネス朝ペルシア帝国の支配下に入るが,なお文化的優位性を保ち,美術の面でも意匠などの点で近隣地域に少なからず影響を及ぼしている。(図)
執筆者:松島 英子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報