アイルランドの詩人、劇作家。6月13日ダブリン郊外のサンディマウントに生まれる。父ジョンは画家。1867年に一家はロンドンに移ったが、母の郷里スライゴーに帰ることも多く、幼時からアイルランド北西海岸の風景や、農民の語る妖精(ようせい)談になじんだ。1881年ダブリンへ戻り19歳で市立美術学校に入学するが、2年で画の修業をあきらめ、詩人としてたつ決心を固めた。1887年ふたたびロンドンに出て、1889年に第一詩集『アシーンの放浪ほかの詩』を発表、ケルト人の英雄アシーンが妖精の案内で魔法の島々をめぐる幻想的な物語詩や、哀愁に満ちた繊細な叙情詩で注目された。アイルランド独立のために戦う美女モード・ゴンMaud Gonne(1866―1953)と出会ったのもこの年である。1891年には「詩人クラブ」を結成、ジョンソンLionel Pigot Johnson(1867―1902)、ダウソン、A・シモンズらの世紀末唯美派詩人との交友を深め、フランス象徴主義詩人たちの存在を知る。また1887年ブラバッスキイ夫人の「神智協会」に参加、1890年には「黄金の曙光(しょこう)教団」に入会して、カバラの教義、占星術、降霊術の研究に熱中した。現実の社会に背を向け、神話と魔術と夢の領域に詩の主題を求める神秘主義的で芸術至上主義的な傾向は、詩集『葦間(あしま)の風』(1899)で一つの頂点に達する。
他方では、1891年に「アイルランド文芸協会」の設立に協力して、民族文学普及の実践運動に乗り出し、『ケルトの薄明』(1893)ほかで民話を収集紹介、劇『キャスリーン伯爵夫人』(1892刊、1899初演)では中世の説話を用いて、悪魔に魂を売り農民を飢えから救う貴夫人の姿を描いた。1899年にはグレゴリー夫人Lady Isabella Augusta Gregory(1852―1932)らと「アイルランド文芸劇場」を設立、この劇のダブリン上演をもって本格的な民族演劇運動を開始するが、さらに劇作家シングやアイルランド人俳優らの参加を得て、1904年に「アベイ劇場」を新設、アイルランド文芸復興の黄金時代を築いた。この時期の劇には愛国的な『キャスリーン・ニ・フーリハン』(1902初演)、ケルト神話による『バーリアの浜で』(1904初演)、『デアドレ』(1906初演)などがある。そののちフェノロサ訳の能を知り、様式的な表現に影響を受けて、『鷹(たか)の井戸』(1916初演)から、晩年の『クーフリンの死』(1939刊、1945初演)まで、15編の劇を書いたが、写実を求める大衆の好みからは離れた。
しかしイェーツは、演劇運動の実務を体験することによって状況に直面するすべを学び、劇の創作を通して直接的な語法の効果を知る。詩集『責任』(1914)では、現実の世界に対する挑戦的な姿勢があらわになる。社会的な事件を取り上げ、市民たちの卑小な生活を痛烈にののしり、祖父たちや、世紀末の友人たちや、神々や英雄たちと比較する。1917年には長年のゴンへの思いを断ち切り、52歳でジョージー・ハイド・リーズGeorgie Hyde-Lees(1892―1968)と結婚、創作力はいっそうの充実を示して、詩集『クールの野生白鳥』(1919)、『マイケル・ロバーツと踊り子』(1921)、『塔』(1928)、『螺旋(らせん)階段ほかの詩』(1933)などの傑作を生み、『最後の詩集』(1939)に至るまで衰えをみせなかった。ここでは対英抗争、内乱、大戦、老年など、現実の混乱、恐怖、不毛に対する仮借ない認識と、これらを克服して超越的体験にあずかろうとする願望が恐ろしい緊張をつくりだしている。また散文『ビジョン』(1925、改訂1937)は、循環歴史説や転生説に対する信念を体系図式化した、個性的な省察録である。イェーツの詩的変身が、T・S・エリオット、オーデンらを含むモダニズム以後の詩人たちに与えた影響は大きい。1923年ノーベル文学賞受賞。1922年から1928年までアイルランド上院議員。1939年1月28日南フランスの保養地で死去。遺体は第二次世界大戦後の1948年に、スライゴー郡ドラムクリフ教会の墓地に埋葬し直された。
[高松雄一]
『平井正穂・高松雄一編『イェイツ・エリオット・オーデン』(1975・筑摩書房)』▽『佐野哲郎・風呂本武他訳『イェイツ戯曲集』(1980・山口書店)』▽『鈴木弘訳『W・B・イェイツ全詩集』(1982・北星堂書店)』
アイルランドの詩人,劇作家。ダブリンに生まれ,美術学校に進んだが,詩人となる決心を固めて退学。1887年,家族とともにロンドンに移り,世紀末文化のただなかに身を投ずることになる。W.ペーターやラファエル前派の作品を愛読し,W.モリスやO.ワイルドを知り,91年にはA.シモンズらと反俗的文学青年の集団〈詩人クラブ〉を結成。この間,心霊協会や結社〈黄金の暁教団〉に入会する一方,祖国の民俗文化への関心から《アイルランド農民民話集》(1888)を編集する。のちに詩神とも〈宿命の女〉ともなる愛国者で女優のモード・ゴンMaud Gonneを知ったのもこの時期であった。1889年,ケルト文化特有の非現実への憧れにみちた処女詩集《アシーンの放浪》を出版。良きパトロンのグレゴリー夫人と語らって,99年アイルランド文芸劇場(のちにアイルランド国民劇場協会)を設立。その本拠アベー座の運営による社会的現実との接触は,《キャスリーン・ニ・フーリハン》(1902初演)をはじめとするアイルランド伝説に題材を得た劇作とあいまって,詩人としての成熟をも促した。《緑の兜》(1910)から《クールの白鳥》(1917)にいたる詩集は,愛,老年,死,詩の個人的主題を社会的・神話的主題と自在にからませて個性的な声調でうたう現代詩人の出現を示している。劇作家としても,秘書役のエズラ・パウンドが入手したフェノロサ訳の《能》に触発されて,《鷹の井戸》(1916初演)など4編の舞踊劇を連作,新たな展開を見せた。詩,音楽,舞踊が一体化した象徴的演劇への長年の夢が東洋古典劇のなかにみごとに実現されているのを知ったイェーツの驚きと喜びは大きかった(《鷹の井戸》は日本で新作能《鷹姫》として翻案・上演されている)。1917年結婚。妻の心霊能力によって若年よりの隠秘学的関心がさらに深まった。世界史の展開,人間精神の類型,死後の霊魂のありようなどを,月の28相に照応させて体系化した神秘思想は現代の奇書ともいうべき《幻視録》(1925,改訂1937)にまとめられ,晩年の作品の背景をなしている。《塔》(1928)や《最後の詩集》(1939)などの詩作品,また《窓ガラスの言葉》(1930初演)や《煉獄》(1938初演)などの劇作品は,世紀末の夢想的文学青年がついに人間精神の悲劇的現実をときに簡勁に,ときに凄絶なユーモアをもって表現しうる老詩人へと成長したことを示している。英語圏における20世紀最大の詩人の一人との評価は,今後とも変わらないと思われる。23年ノーベル文学賞受賞。1922年から6年間アイルランド上院議員をもつとめた。墓は幼年時代を過ごしたアイルランド西部の町スライゴにある。
執筆者:高橋 康也
イギリスの歴史家。1924年にロンドン大学を卒業,44年からは同大学付属のワールブルク研究所員となり,新プラトン主義の宇宙観を手掛りにルネサンス精神史の新しい解明を試みた。《ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス学の系譜》(1964)によりルネサンス期魔術(ヘルメス学)の哲学的役割を再検討した後,記憶術と宇宙観の結合をシェークスピアの常打ち劇場だった〈地球座〉の構造にまで探りあてた名著《記憶術》(1966)を刊行,また《薔薇十字啓蒙運動》(1975)では17世紀の科学革命に及ぼした魔術的ユートピズムの影響を明確にした。従来偏狭な枠でしか扱われなかった諸思想を,正統的なヨーロッパ思想史の中に位置づけた意義は大きい。
執筆者:荒俣 宏
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…彼は《方法への挑戦》(1975)以降,こうした勝利者史観を徹底的に攻撃すると同時に,現在われわれのもつ科学の特権性をも否定する。同じような史観を説いたもう一人の象徴的存在は,本来美術史,もしくは文化史の出身であるF.A.イェーツであった。彼女は,ホイッグ史観に基づく歴史記述法への厳しい批判から,G.ブルーノ像の根本的変革を目指した《ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統》(1964)など一連の著作を残した。…
…前1世紀のローマの建築家ウィトルウィウスが書いた建築書は,ヘレニズム時代の劇場の様相を知るうえで重要な資料だが,ルネサンス期の人々が劇場平面の割り出し方を,円環のうちに劇場の主部をおさめると解釈したのは,まさにこの寓意につながってのことであった。科学史家F.A.イェーツは,シェークスピア劇などを上演したエリザベス朝のロンドンの劇場(スワン座,グローブ座など)がこの原則に従って造られていたとしている。さらに劇場という言葉は中世以来,庭や鏡などの言葉とともに集成や大成の意でしばしば書物の題名に用いられてきたが,これも同じ理由によるものである。…
…中世に教会で演じられた宗教劇があったことは,文献的に確認されているが,その後久しく土着の演劇は途絶え,もっぱらイギリスの巡業劇団がロンドンの評判作をダブリンで上演するだけだった。1899年,イェーツとグレゴリー夫人の協力によるアイルランド文芸劇場Irish Literary Theatreの設立から,この国の演劇は始まると考えてよい。イギリスやヨーロッパの商業的あるいは自然主義的演劇の模倣ではなく,祖国の神話,民俗的伝統,また社会的現実に題材を求めること,ただし政治的党派性を排して,真の民族的文化の自覚を高めること――このような目標をかかげて同志を集めた運動は,1903年アイルランド国民劇場協会Irish National Theatre Societyへと発展し,04年にはホーニマン女史の援助でダブリンに拠点劇場アベー座が建てられた。…
…19世紀の末に,イェーツやグレゴリー夫人らがアイルランド文芸復興運動をおこし,演劇の分野を中心に,積極的な活動を展開した。その目標は,イギリス文学の伝統を脱して,古代ケルト精神に復帰し,アイルランドの神話,伝説,歴史,文化,民衆の生活感情,風土風物などを題材に取りあげて,独自の国民文学をつくりだすことであった。…
…リットンからH.A.ジョーンズやピネロをへて強まってきたこの志向は,バーナード・ショーにいたって,風刺的な機知やユーモアと結びつき,イギリス的な〈ウェルメード・プレー〉の伝統を豊かに社会化する。
[現代]
ショーを生んだアイルランドが,およそ対照的な劇作家イェーツの母国でもあるのは皮肉である。グレゴリー夫人とともにアイルランド国民演劇運動を起こしたイェーツは,日本の能の影響を強く受けて,象徴的・幻想的な詩劇をめざした。…
…原題は《ギタンジョリ(〈歌の捧げ物〉の意)》。一般には,1912年にW.B.イェーツらの勧めによりイギリスで出版された,タゴール自身の英訳になる同名の詩集を指す。この英訳詩集により翌13年,タゴールは東洋人として初めてのノーベル文学賞を受賞した。…
…まばたきの間にしか妖精は見えないが,アイルランドでは四つ葉のクローバーを頭に乗せれば見えると信じられている。
[種類]
W.B.イェーツによればアイルランド語で妖精はsidheといい,小高い丘や塚を意味する語と同じで,妖精の出没する場所の意から妖精そのものとなり,妖精の男はfer‐sidhe,女はbean‐sidheで,妖精族はsidheóg。イェーツはさらに古代アイルランドの《アーマハの書》を引いて,妖精とは〈救われるほど善くもないが,救われぬほど悪くもない堕天使〉であり,あるいは古代の巨人神族トゥアハ・デ・ダナーンがもはや崇拝もされず供物も捧げられなくなり,しだいに小さくなって妖精となり,ミレシア族に追われて海のかなたに逃れ〈常若の国〉や地下の国にも隠れ住むようになったという言い伝えを記している。…
…イギリスではブルワー・リットンが出て,《不思議な物語》ほか錬金術師を登場させた小説を執筆した。アイルランドのW.B.イェーツには《錬金術の薔薇》をはじめ錬金術的寓意にいろどられた作品がある。20世紀にはいると錬金術を目だった形で芸術に導入する試みはとだえるが,モンドリアンやカンディンスキーらの抽象芸術には,より思弁的な錬金術の象徴性が生かされている。…
※「イェーツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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