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イタリア演劇 イタリアえんげき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イタリア演劇
イタリアえんげき

中世のイタリアでは受難劇や奇跡劇などの宗教劇が主流を占めていたが,ルネサンス期を迎えると,人々の関心が古典劇に向けられたため,ラテン劇を模倣した多くの喜劇,悲劇を生んだ。しかし 1520年頃から,古典主義に代って大衆的喜劇コメディア・デラルテが登場,16~17世紀に最盛期を迎え,イギリスフランススペインの演劇に大きな影響を与えた。

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世界大百科事典 第2版の解説

イタリアえんげき【イタリア演劇】


[ルネサンス以前]
 イタリア演劇の発生的形態は,12世紀から13世紀にかけて中部イタリアを中心に歌われたり,演じられたラウダlauda(神をたたえる歌)であるとされているが,それはかならずしも演劇ばかりではなく,オラトリオオペラの起源でもある。このラウダの作者や演じ手は,主として〈兄弟団〉といわれる宗教組織に属する聖職者たちであった。ラウダの作者はほとんどが無名であったが,現在なお名を残している者もあり,その1人がヤコポーネ・ダ・トディJacopone da Todi(1236ころ‐1306)で,《マドンナの涙》や《天国に召される女》といったラウダを書き残している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イタリア演劇
いたりあえんげき

イタリア演劇の起源は中世における典礼劇の成立過程にみいだされる。

中世

9世紀、教会における交唱聖歌に由来する「トローペ」(たとえ話)は、キリストの受難や復活、聖者伝などを物語化し、所作、小道具を伴って典礼劇を成立させた。時とともにそれは教会を離れ、巷間(こうかん)に世俗の者による俗語の演劇として発達した。また13世紀に生まれた「ラウダ」(賛歌)はしだいに劇的な性格を備え、14世紀には「ラウダ劇」の盛期を迎えた。ラウダや守護聖人の祝祭行列に由来する聖史劇は、教会の祭式とは独立して、市民の間の上演組合によって町の広場で上演され、ときにはきわめて壮大、華麗な舞台が設けられた。聖史劇は15世紀の後半、とくにフィレンツェで栄え、ベルカーリF. Belcari(1410―84)の『アブラハムとイサク』(1450?)やロレンツォ・デ・メディチの『聖ジョバンニと聖パオロ』(1489)などをはじめ、多くの無名作家による優れた作品を生んだ。作者、舞台、観客が一体となった共同体的集団によって支えられた聖史劇は、16世紀の宗教会議以降、急速に衰えた。[赤沢 寛]

ルネサンス期

初期の人文主義者たちはもっぱらギリシア・ラテンの古典劇を上演し、その模倣作品を書くことを念願としたが、16世紀に至ってトリッシーノの悲劇『ソフォニスバ』(1514)、アリオストの喜劇『カッサリア』(1508)などによって、イタリア語による初の正則劇を迎えた。その後、チンツィオG. Cinzio(1504―74)は悲劇に画期的な生命を与え、タッソは『トリスモンド』(1587)にロマン的な経緯を織り込んで新生面を開いた。また喜劇はアレティーノの『偽善者』(1542)などを経て、デッラ・ポルタG. Della Porta(1535―1615)の斬新(ざんしん)な筋立てによる散文喜劇を生んだ。その間、悲劇、喜劇ともに多数の作品をみたが、総じて古典の影響を払拭(ふっしょく)しえなかった。しかしマキャベッリは冷徹な現実主義に貫かれたルネサンス喜劇の傑作『マンドラゴラ』(1513)で世俗の道徳を鋭く批判し、また哲学者ブルーノは生彩に富んだ風刺喜劇『ろうそく屋』(1580)で時代の現実主義に底流する深い懐疑的精神を示した。
 イタリア語による最初の劇作品としてポリツィアーノの『オルフェオ物語』(1480)がもった夢幻的、悲喜劇的性格は、チンツィオなどを介してベッカーリA. Beccari(1510―90)の『犠牲』(1554)に至って牧歌劇を確立した。タッソは傑作『アミンタ』(1573)を生み、グリアーニG. B. Griani(1538―1612)の『信仰篤(あつ)き牧人』(1590)とともに牧歌劇、悲喜劇の典型と仰がれた。
 人文主義の演劇は古典の復興にとどまらず、近代的な意味における演劇を確立し、アリストテレスの『詩学』の翻訳、研究をはじめとする多くの劇詩論と相まって後世の西欧演劇を性格づける決定的な役割を担った。[赤沢 寛]

17~18世紀

16世紀の後半、相次ぐ職業劇団の結成によって急速に台頭したコメディア・デラルテ(仮面即興喜劇)は、台本(テキスト)を拒否し、筋書きのみによって舞台を展開し、古典劇や人文劇の台詞(せりふ)を随時援用しつつ、ダンス、歌、曲技などあらゆる舞台の技巧を駆使した民衆喜劇を築いた。俳優の自主的な創意に基づく彼らの喜劇は、急速に国内のみならず、フランスをはじめとするヨーロッパの宮廷に迎えられ、また多くの劇団が各国に巡業を続けて、その国の演劇の形成に多大な足跡をとどめた。さらに2世紀有半に及ぶその活動は、シェークスピア、モリエール、ゴルドーニなどへの影響にとどまらず、オペラ、バレエなどを含めた舞台芸術の世界に広範な遺産を伝えている。
 一方、16世紀末、詩人リヌッチーニO. Rinuccini(1562―1621)や作曲家ペーリらは、ギリシア悲劇を、その音楽や舞踊を含めて総体的に復活することを意図して音楽劇を創始した。この固有の様式はモンテベルディを経てゼーノによって確立され、メタスタージオは『見棄(す)てられたディドーネ』(1724)や『ティトゥス帝の慈悲』(1734)などの牧歌的な音楽悲劇(メロドラマ)を開花させた。
 18世紀中葉、コメディア・デラルテはようやく衰運に向かったが、ゴルドーニはその卑俗性と仮面の類型性を脱却しつつ、喜劇に画期的な生命を与えた。『二人の主人を一度にもつと』(1745)、『宿屋の女主人』(1753)など、ベネチアの民衆を活写して市民的なモラルを鼓吹し、市民劇の母体をなした。他方、コメディア・デラルテを擁護してゴルドーニと対立したカルロ・ゴッツィは、仮面と即興性を幻想的な舞台に生かした夢幻劇『三つのオレンジへの恋』(1761)や『トゥランドット』(1762)などによって貴族や保守層の支持を得、またゲーテ、シラーをはじめ、ドイツ・ロマン派からもその先駆として高く評価された。
 スペインの専制支配下に置かれた16世紀後半以降、衰退の一途をたどった悲劇においては、ひとりマッフェイF. S. Maffei(1675―1755)のみが内外の声価を獲得したが、アルフィエーリは『クレオパトラ』(1775)、『サウル』(1782)などによって悲劇の再建を果たした。古典形式を守り、簡潔な詩型を特徴とする彼の作品は、市民的理想と限りない自由への渇望に貫かれ、きたるべきロマンチシズムを予告し、その政治的覚醒(かくせい)は国家統一への歴史的役割を担った。[赤沢 寛]

19世紀

19世紀初頭、イタリアにおけるナポレオン体制の樹立からその崩壊へと激動する政治的状況を背景として、ロマン主義が醸成された。ペッリコの愛国的な悲劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』(1815)は初演以来好評を博し、マンゾーニは二つの歴史悲劇『カルマニョーラ伯』(1820)、『アデルキ』(1822)にカトリック的、ラテン的なロマン主義を確立し、内外の反響をよんだ。しかしニッコリーニはナポレオンを描いた初期の『ナブッコ』(1815)以来、徹底した反教権主義にたち、『アルナルド・ブレーシャ』(1838)などの叙事悲劇に時代の状況と国民的意識を明確に打ち出して、自由と独立の気運を醸成した。
 これらの悲劇は国家統一の歴史的悲願と一体化して、国民的叙事詩としての性格を強めたが、国家統一を境として急速に反ロマン的、写実的傾向に移行した。統一達成(1861)後、フランス市民劇の影響下にもっとも長期にわたって幅広く観衆に迎えられたのはフェッラーリP. Ferrari(1822―89)の良識的な風俗喜劇であったが、ベルガは『カバレリア・ルスティカーナ』(1884)に地方的、民衆的な情念と衝撃的な迫真性とをもって典型的なベリズモの舞台を築き、市民劇に新たな展開を促した。自然主義へ作風の転換を試みたジャコーザは『木の葉のごとく』(1900)に、実業家の家庭崩壊を描き、ブッティA. E. Butti(1868―1912)はイプセン風の思想劇に時代への懐疑を示した。また優れた対話による心理劇へ移行したブラッコは国外にも好評を得た。とはいえ、狭隘(きょうあい)な日常性に極限されたブルジョア・リアリズム劇やサロン悲劇からの脱却は、20世紀初頭におけるダンヌンツィオの出現を待たなければならなかった。[赤沢 寛]

20世紀

『フランチェスカ・ダ・リミニ』(1901)によって名実ともに舞台の成功をかちえたダンヌンツィオは『イオリオの娘』(1904)『畝(うねび)の下の炎』(1905)など一連の作品に、耽美(たんび)的、ディオニソス的な自我の高揚をかけた古典的な悲劇の再現を図った。豊かな音調性に満ちた彼の舞台は、名女優ドゥーゼを得て、十数年間観衆を魅了し続けた。しかしすでにベネッリは『嘲弄(ちょうろう)の宴(うたげ)』(1909)などでダンヌンツィオ風の英雄像をパロディーと化し、市民的な幻滅を浮き彫りにした。またマリネッティは二次にわたる「未来派宣言」において伝統の破壊と演劇の総体的変革を叫んで、既往の演劇に対して挑戦的なプロパガンダを開始した。
 第一次世界大戦への参戦とともに、キアレッリの『仮面と素顔』(1916)を契機として、アントネッリの『自分に逢(あ)った男』(1918)や、サン・セコンドR. San Secondo(1877―1956)の『情熱の操り人形』(1918)などは個と社会の間の亀裂(きれつ)を明確な意識にとらえて、不確定的な生の状況の悲喜劇性を提示した。さらにピランデッロは、『御意(ぎょい)に任す』(1916)から大戦後の傑作『作者を探す六人の登場人物』(1921)、『エンリコ四世』(1922)に至る一連の作品において、「仮面」と「役割」に化した個の崩壊を通して現実の虚構性を暴露し、単にリアリズム劇の否定にとどまらず、近代劇そのものを相対化する作劇上の変革をもたらし、世界に「ピランデッロ時代」を築き、現代劇に決定的な影響を与えた。
 両大戦間から戦後の解放に至る時代に劇作を続けたベッティは、現代の非情な孤独による情念の葛藤(かっとう)を描いて、『裁判所の腐敗』(1949)、『牝山羊(めやぎ)が島の犯罪』(1950)などの実存的、象徴的リアリズムともよぶべき作風で戦後の世界の注目を浴びた。また喜劇におけるデ・フィリッポは自ら劇団を率い、自作自演の興行を続けたが、とくに『ナポリ百万長者』(1945)や『幽霊』(1946)以降、民衆の苦渋と願望を通して新しいモラルを求め、伝統的なナポリ民衆劇を国民的な叙事詩へと脱皮させ、国外にも声価を獲得した。ファブリD. Fabbri(1911―80)はカトリシズムの世界から現代の個と社会を問い直し、『女たらし』(1951)、『イエス裁判』(1953)などで宗教的存在としての人間を根源的に訴えた。復興から繁栄へと至る1950年代の社会に向けて、戦後のリアリズムを基調とした演劇は急速に告発と風刺の度合いを強めていった。また小説家としてすでに定評あるモラービアやブッツァーティなども、それぞれ実存や不条理を根底に据えた作品によって知られている。
 なお、1947年の創立以来、今日に及ぶミラノ・ピッコロ座の活動は、作家(テキスト)、俳優、観客の緊密なかかわりを現代の舞台として実現する演出家ストレーレルの優れた理念と方法の成果として世界的な評価を獲得している。[赤沢 寛]
『フィリップ・ヴァン・チーゲム著、戸口幸策他訳『イタリア演劇史』(白水社・文庫クセジュ)』

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