イタリアの詩人。エジプトのアレクサンドリアで生まれる。父親はスエズ運河の工事に携わっていたが、彼が2歳のときに事故死した。以来、食料品店を経営する母親と黒人の乳母に育てられた。黒い乳と、砂漠と、ナイル川と、地中海。そこに交錯する光と影と無限の感覚とが、彼をコスモポリタンの詩人に成長させた。高校まではスイス系のフランス語教育を受けたが、24歳のとき初めて海を渡り、両親の出身地であるイタリアのトスカナ地方を訪れ、故国の文化に強く打たれた。ついでパリに赴き、ソルボンヌで学んだ。同じくエジプトに生まれてパリに学んだ、幼いころからの親友モハメッド・シェアブの自殺は、青年時代のウンガレッティの詩に濃い影を落としている。第一次世界大戦には、イタリアの一兵卒として、対オーストリア戦線に参加、砲弾の飛び交う塹壕(ざんごう)の中で手帳に書き留めた短詩が、いっさいの虚飾をふるい落とした純粋詩となって、処女詩集『埋もれた港』(1916)に結実した。大戦前後に親しく交わったアポリネール、ブルトン、スーポー、ツァラなどの詩人たち、あるいはモディリアニ、ユトリロ、デ・キリコなどの画家たち、あるいはまた終生の盟友ポーランたちとの芸術的交流は、ウンガレッティとともにイタリアの詩壇に移されて、旧来の修辞法に縛られていたイタリア現代詩を革新した。1936年にはブラジルのサンパウロ大学にイタリア文学教授として招かれ、42年にはローマ大学の近現代文学教授となった。59年、フランスの画家フォートリエと文芸評論家ポーランを伴って来日し、講演などを行った。「ある男の生涯」という副題を冠せられた詩集『喜悦』(1919)、『時間の感覚』(1933)、『約束の地』(1950)、『叫び声と風景』(1959)などは、イタリア現代詩の主流エルメティズモ(錬金術主義)の里程標となった。散文集に『砂漠以後』(1961)やフランス語による『無垢(むく)と追憶』(1969)などがある。
[河島英昭]
イタリアの詩人。父親がスエズ運河の工事にたずさわっていたため,エジプトのアレクサンドリアで生まれた。砂漠とナイル川,そこに交錯する光と影の世界のなかで,幼いときから身につけた無限の感覚が,詩の基調となった。24歳のときに海を渡って,両親の故郷トスカナ地方を経てパリに赴いた。ソルボンヌ大学ではベルグソンに師事し,詩人のアポリネール,ブルトン,ツァラなど,画家ではモディリアニ,ユトリロ,キリコらと親交を結んだ。第1次世界大戦に際しては対オーストリア戦線に参加。死に囲まれた塹壕のなかで,あらゆる虚飾を振り落とした短詩を書きとめ,処女詩集《埋もれた港》(1916)を発表。これが伝統的な修辞法に縛られた旧来のイタリア詩の流れを断ち切り,一挙に純粋詩の地平をきりひらいた。詩集《時間の感覚》(1933),《約束の地》(1950)などは〈エルメティズモ〉の代表作となっている。
執筆者:河島 英昭
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…ただし,その適用に大別して二つの方向性がある。第一は,19世紀から20世紀初めにかけての三大詩人,カルドゥッチ,パスコリ,ダヌンツィオに代表される旧来の修辞法と鋭く対立し,新たに自由な韻律の口語詩をあらわしたウンガレッティ,モンターレ,クアジモドらの純粋詩を総称する。これは批評家アンチェスキの《20世紀イタリアの詩法》(1953)に見られるごとく,イタリアの純粋詩〈エルメティズモ〉を,象徴主義とりわけマラルメからバレリーにかけてのフランス現代詩の流れと重ね合わせようとする態度で,より広く支持されている。…
※「ウンガレッティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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