コーエン(読み)こーえん(英語表記)Joel Coen

デジタル大辞泉 「コーエン」の意味・読み・例文・類語

コーエン(Hermann Cohen)

[1842~1918]ドイツの哲学者。新カント学派のうちのマールブルク学派の創始者。徹底した論理主義によってカントを解釈し、独自の観念論体系を構築。著「純粋認識の論理学」「純粋意志の倫理学」「純粋感情の美学」など。

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精選版 日本国語大辞典 「コーエン」の意味・読み・例文・類語

コーエン

  1. ( Hermann Cohen ヘルマン━ )[ 異表記 ] コーヘン ドイツの哲学者。マールブルク学派の創始者の一人。カントの観念論を徹底させて対象の産出としての経験の概念を抽出し、これによって倫理学、美学の哲学体系を築き上げた。著に「カントの経験理説」「純粋意志の倫理学」など。(一八四二‐一九一八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コーエン」の意味・わかりやすい解説

コーエン(Joel Coen)
こーえん
Joel Coen
(1954― )

アメリカの映画監督、脚本家。ミネアポリス生まれ。弟のイーサンEthan Coen(1957― )とは、アマチュア時代からプロになって以降も映画製作でつねに協力しあう関係にあり、ジョエルが監督、イーサンが製作、脚本は2人の共作といった体制で生み出される彼らの作品は一般に「コーエン兄弟作品」とよばれる。父親はミネソタ大学の経済学の教授で、母親は州立セント・クラウド大学の美術史の教授という知的な環境に育つ。刺激を欠いた地元での暮らしに退屈を覚えるなか、10代のころから兄弟は友人たちとスーパー8ミリ(1964年にイーストマン・コダック社が発表した、50フィート・マガジン入りのフィルム)による映画作りを開始した。

 ジョエルはニューヨーク大学映画学科を1977年に、イーサンはプリンストン大学哲学科を1980年に卒業。ジョエルは、少年時代から8ミリ作品を撮りまくるなど、似通ったバックグラウンドをもつ監督サム・ライミSam Raimi(1959― )のデビュー作『死霊のはらわた』(1983)に編集助手として参加。この作品でブレイクしたライミと兄弟は友情で結ばれ、ライミの次作『XYZマーダーズ』(1985)では、3人で脚本執筆にあたった。一方、兄弟は自身の手による映画作りを決意。3分間の「予告編」をあらかじめ撮影し、個人投資家を自分たちの手で募る方式でデビュー作『ブラッド・シンプル』(1984)を完成させる。ダシール・ハメットの『赤い収穫』Red Harvest(1929)のなかで創造された言い回しに由来するタイトル、ジェームズ・M・ケインの代表作で何度も映画化された『郵便配達は二度ベルを鳴らす』The Postman Always Rings Twice(1934)で描かれた三角関係のもつれから起こる殺人事件に影響を受けたストーリー展開と、全体としてハードボイルド・タッチの作品である。低予算のデビュー作と思えぬ完成度の高さばかりでなく、そこにライミの映画にもつながる、大胆な暴力描写などの新味も加わって高い評価を受け、一般公開されるとじわじわと興行成績も伸びをみせた。続いてがらりと雰囲気を変えたコメディの第二作『赤ちゃん泥棒』(1987)でも、前作とほぼ同じ体制――ジョエル監督、イーサン製作、2人の共同執筆による脚本がその核となる――を維持し、作品の細部に至るまでの決定権を握ることに成功を収めた。

 第三作の『ミラーズ・クロッシング』(1990)は、1920年代のアメリカ東部を舞台に、町を二分するギャング組織間の抗争という設定をやはりダシール・ハメットの『ガラスの鍵(かぎ)』The Glass Key(1931)から引用、過去のフィルム・ノワール(犯罪映画)のスタイリッシュな雰囲気が周到に再現された。ところで、それまでにない規模の予算を手にした兄弟は、複雑な構成と時代背景をもつこの作品のシナリオ執筆に苦戦、いったん撤退して自分たちをモデルにハリウッドの安ホテルでシナリオ執筆に四苦八苦する作家を主人公とする脚本を一気に書き上げ、ふたたび『ミラーズ・クロッシング』に戻るという経緯があったが、その脚本が『バートン・フィンク』(1991)として映画化されると、カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(グランプリ)、監督賞、主演男優賞の三冠に輝き、コーエン兄弟の名声を決定づけた。内容的には、1941年にホテルの一室に缶詰にされた劇作家バートン・フィンクが体験する閉所恐怖症的な状況をユーモアも交えて描くものだが、兄弟も敬愛するウィリアム・フォークナーを念頭に置いた作家を登場させるなど、映画の脚本執筆のために外部から招かれた無数の作家たちへのオマージュを込めた作品でもある。続いての新作は、コーエン兄弟にとって最大規模の予算で撮影された『未来は今』(1994)。脚本自体は『ブラッドシンプル』完成後に、ライミも加わって執筆されていたが、かなりの予算が必要と予測されたため待機状態にあった企画である。1950年代後半、大都会の巨大なビルに陣取る大企業の傀儡(かいらい)社長となった男の物語で、純朴で正義感の強い男性を主人公とする、1940年代にフランク・キャプラ監督が量産したパターンを踏襲、さらにそこに勝気で口が達者なオフィス・ガールが活躍する、1930年代から1940年代に流行したスクリューボール・コメディ(ネーミングは野球の変化球=曲球に由来し、粋で激しい台詞(せりふ)のやりとり、めまぐるしいシチュエーションの変化、洗練されたエロティックでロマンティックなストーリーといった特徴をもつ)の雰囲気が加味されていた。しかし、興行的に惨敗、コーエン兄弟作品としては初めての事態であった。

 兄弟は続く第六作『ファーゴ』(1996)で、原点に立ち返るかのように、故郷ミネソタ州を舞台にシンプルな構成の映画をつくる。ミネソタで現実に起こった誘拐絡みの殺人事件に着想を得たとされるが、むろん兄弟流に味付けが施されたブラック・ユーモアあふれる物語である。ただし、ストーリー・ラインはこれまでの作品のような過剰な逸脱や捻(ひね)りを排し、映像的にも一面雪で覆われた冬の寒々とした光景をドキュメンタリー的に画面に定着することに専念した。結果として、本作でふたたびコーエン兄弟の評価は高まり、アカデミー脚本賞と主演女優賞、カンヌ国際映画祭でふたたび監督賞を受けた。以降、レイモンド・チャンドラーの世界を湾岸戦争が勃発(ぼっぱつ)した時代のロサンゼルスに置き換えた『ビッグ・リボウスキ』(1998)、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしつつアメリカ南部を舞台に3人の脱獄囚の男たちを主人公とする『オー・ブラザー!』(2000)、華麗な男女の結婚詐欺師を主人公にふたたび往年のスクリューボール・コメディの世界に挑む『ディボース・ショウ』(2003)など、メジャーとマイナーの垣根を越えて、独自の映画作りを意欲的に継続させている。

[北小路隆志]

資料 監督作品一覧

●ジョエル・コーエン
ブラッド・シンプル Blood Simple(1984)
赤ちゃん泥棒 Raising Arizona(1987)
ミラーズ・クロッシング Miller's Crossing(1990)
バートン・フィンク Barton Fink(1991)
未来は今 The Hudsucker Proxy(1994)
ファーゴ Fargo(1996)
ビッグ・リボウスキ The Big Lebowski(1998)
オー・ブラザー! O Brother, Where Art Thou?(2000)
バーバー The Man Who Wasn't There(2001)
ディボース・ショウ Intolerable Cruelty(2003)
レディ・キラーズ The Ladykillers(2004)
パリ、ジュテーム~「チュイルリー」 Paris, je t'aime - Tuileries(2006)
ノーカントリー No Country for Old Man(2007)
バーン・アフター・リーディング Burn After Reading(2008)
シリアスマン A Serious Man(2009)
トゥルー・グリット True Grit(2010)

●イーサン・コーエン
レディ・キラーズ The Ladykillers(2004)
パリ、ジュテーム~「チュイルリー」 Paris, je t'aime - Tuileries(2006)
ノーカントリー No Country for Old Man(2007)
バーン・アフター・リーディング Burn After Reading(2008)
シリアスマン A Serious Man(2009)
トゥルー・グリット True Grit(2010)

『ロバート・ハリス責任編集『フィルムメーカーズ5 コーエン兄弟』(1998・キネマ旬報社)』『ロナルド・バーガン著、浅尾敦則訳『すべてはブラッドシンプルから始まった』(2000・アーティストハウス)』


コーエン(Leonard Cohen)
こーえん
Leonard Cohen
(1934―2016)

カナダ出身の歌手、詩人、小説家。モントリオールの保守的なユダヤ人の家庭に生まれ、少年時代にカントリー・アンド・ウェスタンのバンドを結成する。スペインの詩人ガルシア・ロルカの影響を受け、ケベック州のマックギル大学(フランス語圏の同州では少数派の、英語で授業を行う大学であった)、さらにアメリカのコロンビア大学に進み、英文学を専攻。コロンビア大学在学中の1956年に初の詩集『神話の比較』Let Us Compare Mythologiesを出版。その後ヨーロッパ各地を転々としながら、詩集『大地のスパイス・ボックス』Spice-Box of Earth(1961)、『ヒトラーに捧げる花』Flowers for Hitler(1964)、『天国の寄宿者』Parasites of Heaven(1966)と、小説『ザ・フェイバリット・ゲーム』The Favorite Game(1963)、『美しき敗者』Beautiful Losers(1966)を発表する。1967年コロンビア・レコードと契約を交わし、デビュー・アルバム『レナード・コーエンの唄』(1968)を発表するが、その数か月前にはアメリカのフォーク・ソング歌手ジュディ・コリンズJudy Collins(1939― )がこのアルバムに収められた「スザンヌ」を取り上げヒットさせている。

 コーエンの詩人としての才能と、叙情的な深みを備えた作曲の才能は、すぐさま高い評価を受けることとなった。初期の3枚のアルバム、『レナード・コーエンの唄』と『ひとり、部屋に歌う』(1969)、『愛と憎しみの歌』(1971)は評論家から絶賛され、ヒットチャートにランクインすることとなった。また、これらのアルバムにおさめられた曲は多くの歌手にカバーされるスタンダード・ナンバーとなった(「電線の鳥」「フェイマス・ブルー・レインコート」など)。彼自身の演奏するギターを中心とした簡素な伴奏は、コーエンのドラマチックでユーモアにあふれた詩と歌唱を際だたせる効果があった。1970年のツアーでバックを務めたバンドはジ・アーミーと命名され、『愛と憎しみの歌』では全面的にバックを務めている。ジ・アーミーのメンバーはボブ・ディランとのかかわりが深いミュージシャンが多かった。大学時代ディランの詩と歌唱に感銘を受け「カナダのディランになりたい」と語ったといわれるコーエンは、さらに1973年ジ・アーミーとのツアーをおさめた『ライヴ・ソングズ』をリリースしている。

 『愛の哀しみ』(1974)以降のコーエンは、積極的に音楽的な幅を広げていった。『愛の哀しみ』ではロック・サウンドを全面的に導入し、元ベルベット・アンダーグラウンドの歌姫ニコNico(1938―1988)について歌ったとされる「チェルシー・ホテル」などの名曲を生んでいる。しかし『ある女たらしの死』(1977)で、ウォール・オブ・サウンド(音の壁)とよばれる華美なアレンジで著名だったプロデューサーフィル・スペクターと組んだことは周囲をとまどわせ、作品の評価も、またセールスもかんばしいものではなかった。『ある女たらしの死』はスペクターの契約の関係で、アメリカではコロンビアではなくワーナーより発売され、コーエン自身がプロデュースし、かつての簡素な作風が戻った次作の『最近の唄』(1979)を最後に、コロンビアはコーエンとの契約を打ち切ってしまう。カナダやヨーロッパ諸国では変わらぬ人気を保っていたコーエンだったが、『哀しみのダンス』(1984)は、コーエンの歌のなかでももっともよく知られた曲の一つである「ハレルヤ」が収録されているにもかかわらず、アメリカではインディー・レーベルから発売されただけであった。

 しかし、1980年代後半、若い世代からの再評価を受けることとなる。ジェニファー・ウォーンズJennifer Warnes(1947― )によるカバー・アルバム『レナード・コーエンを歌う』(1985)がヒットしたおかげでふたたびコーエンは注目を集めた。古巣のコロンビアに復帰し、『ロマンシェード』(1988)をリリース。続いて、コーエンの影響を強く受けた英米のニュー・ウェーブ・グループが多数参加したカバー・アルバム『僕たちレナード・コーエンの大ファンです』(1991)がリリースされ、世代を越えたコーエンの影響力を印象づけた。

 以後、『ザ・フューチャー』(1992)、『テン・ニュー・ソングズ』(2001)をリリース。また並行して詩集や小説も発表し続け、存在感のあるシンガー・ソングライター兼作家として活動した。

[増田 聡]

『大沢正佳訳『歎きの壁』(1970・集英社)』『諏訪優訳・解説『神話を生きる――レナード・コーエン詩集1』(1977・JCA)』『川村元彦訳『大地の薬味入れ――レナード・コーエン選詩集2』(1978・JCA)』


コーエン(Stanley Cohen)
こーえん
Stanley Cohen
(1922―2020)

アメリカの生化学者。ニューヨーク市ブルックリンに生まれる。ブルックリン大学で生物学と化学を学び、1945年オバーリン大学で修士号、1948年ミシガン大学で博士号を取得。コロラド大学の研究員を経て、1952年ワシントン大学でアメリカ対がん協会の博士研究員となった。1959年バンダービルト大学の生化学助教授につき、1962年準教授、1967年教授に昇格(1999年に退職して名誉教授)。1976年アメリカ対がん協会研究所の教授に転じ、1986年特別教授になった。

 コロラド大学で新生児の新陳代謝と成長過程の生化学的な研究を行った。ワシントン大学に移ると、R・レビモンタルチーニとともに成長物質を抽出する研究を開始した。この共同研究によって、彼らは神経成長因子(NGF:nerve growth factor)を発見したが、コーエンはNGFを詳しく解析し、ヘビ毒、成熟マウスの唾液腺(だえきせん)にもNGFが含まれていることをみいだした。その後も成長因子の研究を続け、マウスの唾液腺の中から、もう一つの生理活性物質である上皮細胞成長因子(EGF:epidermal growth factor)を発見した。EGFの発見は、その後の細胞分化・増殖、発がんのメカニズムの研究に重要な役割を果たした。これらの業績によって1986年のノーベル医学生理学賞をレビモンタルチーニとともに受賞した。

[編集部 2018年7月20日]


コーエン(Hermann Cohen)
こーえん

コーヘン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コーエン」の意味・わかりやすい解説

コーエン
Cohen, Stanley

[生]1922.11.17. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]2020.2.5. テネシー,ナッシュビル
スタンリー・コーエン。アメリカ合衆国の生化学者。神経や皮膚組織の発達に影響を与える体内生成物質の研究で,1986年リタ・レビ=モンタルチーニとともにノーベル生理学・医学賞(→ノーベル賞)を受賞した。
1943年ブルックリン・カレッジを卒業後,1945年オーバーリン・カレッジで修士号を,1948年ミシガン大学で生化学の博士号をそれぞれ取得。1952年セントルイスのワシントン大学でレビ=モンタルチーニの研究チームに加わり,そこでレビ=モンタルチーニが発見した,神経細胞(ニューロン)や神経線維の成長を刺激する天然物質,神経成長因子 NGFの単離に貢献した。また NGFを含む化学抽出物から別の成長因子も発見した。コーエンはこの物質がマウスの新生児の目を開き,数日間で歯を生やすことを発見,上皮成長因子 EGFと名づけた。さらに EGFが体内のさまざまな発生事象に影響を与えていること,個々の細胞に取り込まれて作用するメカニズムも発見した。1959年ナッシュビルのバンダービルト大学に移り,1967年教授,2000年に名誉教授として退任した。1986年アルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞,2007年には国立小児保健発育研究所 NICHDの栄誉の殿堂入りを果たした。

コーエン
Cohen, Theodore

[生]1918.5.31. ニューヨーク
[没]1983.12.21. ニューヨーク
第2次世界大戦後日本の労働政策を立案したアメリカの実業家。 1939年日本の労働運動に関する修士論文を執筆後,41~44年戦略局,45年外国経済局で,対日占領政策における労働政策を立案。その後,46~47年にわたり連合国総司令部 GHQ労働課長に就任し,戦後日本の労働政策の基本構想を策定し,その実施に向けて指揮をとった。特に労働基準法の制定,軍国主義的指導者の労働界からの追放,労働省の設置など,日本経済の保守的な構造を大幅に改革した。 47~50年には GHQ経済科学局長付経済顧問に任命され,単一為替レートの決定や日本経済の安定化にも重要な役割を果した。日本女性と結婚後,53~73年の約 20年間にわたり M.エグレイスマン・サン社副社長およびマーシャル・スコット社支配人 (1954~73年) として活動。 73年には実業界を引退し,メキシコ政府の経済顧問に就任した。主著『日本占領革命』 The Third Tu: MacArthur,the Americans and the rebirth of Japan (83) 。

コーエン
Cohen, Hermann

[生]1842.7.4. コスビヒ
[没]1918.4.4. ベルリン
ドイツの新カント派哲学者,マールブルク学派の創立者。コーヘンとも呼ぶ。ユダヤ系ドイツ人としてヘブライ的宗教教育を受けたのち,哲学,数学,自然科学を学ぶ。ハレ大学で学位を取得。 1876年ランゲの跡を継いでマールブルク大学教授。 1912年辞してベルリンのユダヤ教大学教授。徹底した論理主義によるカント解釈から,独自の観念論的体系を築く。文化現象をすべて意識の純粋生産と見,文化的生産における純粋意識の法則性を探って論理学,倫理学,美学を展開。純粋思惟と純粋意志は自己の根源から内容を産出し,思惟と意志を前提に純粋感情が美的生産を行うとみる。晩年は倫理学にあきたらず宗教の理解へ向い,神と個人の関係を問う。主著は『カント経験理説』 Kants Theorie der Erfahrung (1871) ,『純粋認識の論理学』 Logik der reinen Erkenntnis (1902) ,『純粋意志の倫理学』 Ethik des reinen Willens (04) ,『純粋感情の美学』 Ästhetik des reinen Gefühls (12) 。

コーエン
Cohen, Paul Joseph

[生]1934.4.2. ニュージャージー,ロングブランチ
[没]2007.3.23. カリフォルニア,スタンフォード
アメリカ合衆国の数学者。集合論において集合の「大小」に関する連続体仮説が他の公理から独立していることを証明,1966年のフィールズ賞を受賞した。クルト・ゲーデルが 1938年に,「集合論の公理系が矛盾していなければ,連続体仮説を公理としても矛盾を起こさない」という「連続体仮説の無矛盾性」を証明したが,連続体仮説自体が正しいのか否かは不明だった。1963年,集合論の公理系のなかでは連続体仮説の証明はできず,その公理系に連続体仮説を公理として付け加えても,その否定を公理として付け加えても新しい矛盾は起こらないという「連続体仮説の独立性」を証明した。1958年にシカゴ大学で博士号を取得,ロチェスター大学,マサチューセッツ工科大学 MIT,プリンストン高等研究所を経て,1961年にスタンフォード大学に移る。1964年同大学の教授となり,2004年に名誉教授。

コーエン
Cohen, Morris Raphael

[生]1880.7.25. ロシア,ミンスク
[没]1947.1.29. アメリカ,ワシントンD.C.
ロシア生れのアメリカの哲学者,法哲学者。ニューヨーク市立大学,ハーバード大学に学び,1938~41年シカゴ大学教授。経験主義的な方法論に基づいて,法についての諸観念を批判的に考察した。主著『理性と自然』 Reason and Nature (1931) ,『論理学序説』A Preface to Logic (45) ,『理性と法』 Reason and Law (50) 。

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改訂新版 世界大百科事典 「コーエン」の意味・わかりやすい解説

コーエン
Hermann Cohen
生没年:1842-1918

ドイツの哲学者。新カント学派の一つであるマールブルク学派の創始者。客観的に存在する事物は自然法則に支配され,法則的に関連づけられているが,彼によれば,この法則的連関は事物を法則的論理的に関連づけて考える思惟の働きによって生み出される。事物はこうして生ずる法則的連関の中に組み込まれているものとして思惟されることによって客観的にあるものとみなされる。この意味で思惟は事物を生産すると言える。この場合の事物とは生(なま)の事物そのものではなく,科学的に思惟されたもののことなのだが,彼はカントの観念論の徹底であるこうした対象生産の考えを倫理学と美学にも当てはめて,道徳的意志は道徳的価値や理想を,美的感情は美的形象を生産すると主張した。著書に《純粋認識の論理学》(1902),《純粋意志の倫理学》(1904),《純粋感情の美学》(1912)などがある。
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百科事典マイペディア 「コーエン」の意味・わかりやすい解説

コーエン[兄弟]【コーエン】

米国の映画製作者・監督。監督担当の兄ジョエルJoel Coen〔1954-〕(ニューヨーク大卒)と製作担当の弟イーサンEthan Coen〔1957-〕(プリンストン大卒)をいう(脚本は共同執筆)。ともにミネアポリス生れ。S.ライミに師事した後,フィルム・ノワール的な第1作《ブラッド・シンプル》(1985年)で全米批評家協会作品賞を受賞。移動撮影や複雑なカット割りなどを用いる凝った手法の作品を手がける。主な作品に,コメディ《赤ちゃん泥棒》(1987年),1930年代のギャングの抗争を描いた《ミラーズ・クロッシング》(1990年),カンヌ国際映画祭グラン・プリを受賞した《バートン・フィンク》(1991年),1958年の米国の世相を描いた《未来は今》(1994年)など。《ノーカントリー》(2007年)でアカデミー作品賞受賞。

コーエン

ドイツのユダヤ系哲学者。新カント学派マールブルク学派の創始者。カント観念論を徹底して,思惟が事物を産出するとの理論を倫理学や美学にも適用した。主著《純粋認識の論理学》(1902年)ほか。
→関連項目ナトルプマールブルク

コーエン

米国の数学者。位相群,論理学の研究者。数学基礎論の研究により,1966年フィールズ賞

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「コーエン」の解説

コーエン Cohen, Theodore

1918-1983 アメリカの労働問題専門家。
1918年5月31日生まれ。日本占領政策の立案にたずさわる。昭和21年GHQ経済科学局労働課長となり,労働組合法の執行令の改善,労働関係調整法の制定などにつくした。日本人女性と結婚。1983年12月21日死去。65歳。ニューヨーク出身。ニューヨーク市立大卒。著作に「日本占領革命」。

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367日誕生日大事典 「コーエン」の解説

コーエン

生年月日:1918年5月31日
アメリカのGHQ経済科学局労働課長
1983年没

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世界大百科事典(旧版)内のコーエンの言及

【無】より

…両者はいずれも概念に対する空虚な与件であるが,前者は否定性の範疇に応ずるものとして,たとえば光を欠く影のような欠如的無nihil privativumであるのに対し,後者は実体のない単なる直観形式であり,たとえば純粋な空間および時間のような構想的無ens imaginariumである。 カントは質の範疇に関して否定性の無だけしか取り上げていないが,新カント学派のH.コーエンは実在性と否定性との総合としての制限性という範疇に特に注目し,それに応ずる〈根源の判断〉を論理学の最初に置いた。これは或る限定的な無(ギリシア語でいえば,ouk onではなくてmē on)を媒介として概念を根源的に生産する判断であり,S ist nonP(SPでないものである)という無限判断の形で表現されて,SPとの概念共同態がSという概念の根源として先取されることを提示する。…

【倫理学】より

…それに対し,論理学を明確に精神的・社会的な諸科学の論理学というかたちで形成した最初の者は《論理学体系》におけるJ.S.ミルである。だが,その種の観点をさらに徹底させて,論理学と倫理学との関連を確定し,倫理学を明確に精神科学の論理学として把握したのはH.コーエンである。彼の哲学体系において論理学(《純粋認識の論理学》)は数学的自然科学の論理学であり,倫理学(《純粋意志の倫理学》)は精神科学の論理学である。…

※「コーエン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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