オランダの画家。後期印象派に属する。その短い生涯、さらに短い約10年ほどの画歴のなかで、あらゆるものに対する熱情と献身的な姿勢を示し続け、絵画に対しても同様に自身を燃焼し尽くすまで描き続け、その主観的、表現的な傾向は、20世紀の表現主義、フォービスムのもっとも影響力の強い原点となった。また、その生涯にわたって友人のバン・ラパールAnthon van Rappard(1858―1892)やエミール・ベルナールÉmile Bernard(1868―1941)、彼のもっともよき理解者であり後援者でもあった弟のテオTheo van Gogh(1857―1891)に多くの手紙を書いたが、その膨大な書簡集は、それ自体「書簡文学」「告白文学」としてゴッホの人と生涯に対する強い関心を喚起するだけではなく、作品とのかかわりを示す貴重な資料となっている。
ゴッホは1853年3月30日オランダのフロート・ズンデルトに牧師を父として生まれる。家系には聖職者と装飾芸術家が多く出ている。幼児時代以来、素描に興味を示したが、1880年画家になることを決意するまでいくつかの職を転々としている。1869年、ゴッホは伯父の関係していた画商グーピルAdolphe Goupil(1806―1893)のハーグの店に勤め、1873年にはロンドンの店に転勤。さらに2年後にはパリ支店に移り、ついでロンドンでの語学教師、1877年ドルドレヒトの書店、1878年ブリュッセルの伝道師養成所、同年ボリナージュの炭鉱での仮資格の伝道師としての勤務などがある。1880年画家になることを決意、ブリュッセルで絵画を学ぶ。1881年エッテン、同年末から1883年ハーグ、1883~1885年ヌエネン、1885年アントウェルペンと各地で勉強を続けたが、本格的な画作の始まりはこのヌエネン時代で『じゃがいもを食べる人たち』(1885年。アムステルダム、ゴッホ美術館)などがその代表作。
1886年2月から1888年2月までパリ時代。コルモンFernand Cormon(1845―1924)の画室に通い、ロートレックと知り合い、さらにC・ピサロ、ゴーギャン、E・ベルナールたちとも知り合う。パリ時代は、すでにアントウェルペンで知っていた浮世絵と新印象主義の影響下に、そしてまたパリの生活の雰囲気のなかで、色彩は一変して明るくなり、筆触は新印象主義風の点描となる。この時期約200点の油彩が制作された。
しかし、パリでの生活は心身ともにゴッホを疲労させ、その療養と、他方では印象派、新印象派を超える芸術活動の拠点であることを目ざして、1888年2月アルルに移る。翌1889年5月までアルル時代。少なくともこの1888年は、ゴッホの制作が飛躍的な展開を遂げ、彼の画作の頂点となる作品が生み出される時期である。『アルルの跳ね橋』『ひまわり』、あるいは郵便夫ルーランJoseph Roulin(1841―1903)とその家族の肖像など、色彩の強さ、筆触の表現力、構図の安定性など、ゴッホの独創的世界の確立期である。新しい芸術村の建設を夢みる彼の呼びかけに応じ、同年秋からゴーギャンとの共同生活がなされる。その相互刺激は双方に影響を与え、ゴッホも総合主義風の装飾体系を部分的に取り入れた。しかし、強烈な個性は互いに相いれず、12月23日ついにゴッホの最初の発作がおこり、かみそりでゴーギャンに切りつけたが果たせず、自らの耳を切り落とすという「耳切り事件」となる。ゴッホは入院、翌1889年3月にも再入院した。
1889年5月、サン・レミの病院に移り、翌1890年5月までがいわゆるサン・レミ時代。ここでも3回にわたり発作と脱力状態にみまわれるが、それ以外のときは、比較的自由な環境のもとで描き、病院外へも写生に出かけている。この時期は、ゴッホの内面の表現が、形態や筆触のリズム、テーマの選択などにより鋭く表面化する。すでにアルル時代の『夜のカフェ』(1888年。クレラー・ミュラー美術館)で「赤と緑による恐るべき情念」の表現がなされており、また近年のゴッホ研究における精神分析的な解明によって、彼の作品の象徴言語の解読がさまざまになされているが、サン・レミ時代には、ゴッホの心の動揺そのものが、大地や糸杉や幻想的な夜空などにそのまま託される。『黄色い麦畑と糸杉』(1889年。ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、『星月夜』(1889年。ニューヨーク近代美術館)など。他方、白を混ぜた中間色、すみれ色など、沈んだ内面を表徴する作品群もみられる。
1890年5月、印象派に親しい医師ガシェPaul Gachet(1828―1909)の滞在するオーベル・シュル・オワーズに移り、ガシェの監督下に療養と画作を行う。この最後の時期には、サン・レミ時代同様、ゴッホの内面の高揚と沈静がより頻繁な周期で作品に具体化し、後者がより多い。たとえば『カラスのいる麦畑』(ゴッホ美術館)、『荒れ模様の空と畑』(ゴッホ美術館)はいずれも1890年7月の作品で、ともに強い筆触、すばやい仕上げで描かれているが、色彩の体系はまったく異なり、興奮と下降を示している。こうした彼の精神の動揺に拍車をかけたのが、終生彼を援助した弟テオの画商としての経営状態がよくなかったことであったらしい。同年7月27日彼はピストル自殺を試み、29日没。ド・ラ・ファイユJacob-Baart de la Faille(1886―1959)が編集した最新の全作品目録(1970)は850点以上の油彩作品を数え上げている。なお、オランダのオッテルローにあるクレラー・ミュラー美術館、アムステルダムのゴッホ美術館はゴッホの作品の収集で世界的に有名である。
[中山公男]
『中山公男解説『現代世界美術全集8 ゴッホ』(1970・集英社)』▽『カミーユ・ブールニケル他著、阿部良雄監訳『世界伝記双書 ヴァン・ゴッホ』(1983・小学館)』▽『二見史郎・宇佐見英治他訳『ファン・ゴッホ書簡全集』全6巻(1984・みすず書房)』▽『嘉門安雄著『ゴッホ――炎の人、太陽の画家』(旺文社文庫)』
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オランダの画家だが,後半生をフランスで送った。後期印象派を代表する一人。オランダではホッホ,フランスではゴーグと発音される。ベルギー国境に近い,北ブラバント州の小村フロート・ズンデルトGroot-Zundertで新教の牧師の長男として生まれた。生来の極端な性格がわざわいして,その前半生は失恋と失職による挫折感に満ち満ちている。1869年,美術商グーピル商会につとめるが,76年解雇される。短期間イギリスで語学教師として働いたのち,一念発起して,77-78年,アムステルダムの神学校,ついでブリュッセルの伝道師養成所で学び,無給の伝道師としてベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュにおもむく。しかしここでも,80年にその常軌を逸した振舞いにより教会から解雇され,失意のどん底に陥る。幼少より絵心のあったゴッホが画家になる決心をしたのはこの頃であり,ブリュッセルのアカデミーで数ヵ月間学んだのち,画商として一家をなしつつあった弟テオTheoの経済的援助に頼りきったまま制作をつづけた。宗教的情熱と一体となったこの時期の作品は,ミレーの深い影響もあり,社会の底辺の虐げられた人々にたいする共感に根ざしている。一時期,憐憫(れんびん)から同棲した娼婦シーンをモデルにした素描《悲しみ》(1882),質朴な農民生活を描いた《じゃがいもを食べる人々》(1885)などはそのよい例である。しかしながら,画家としての才能が開花するのは,86年から88年にわたるパリ生活で印象主義の洗礼をうけてからである。それまでの暗い鈍重な色彩は消え失せ,《タンギー親爺》(1887)に代表される明るい筆触が画面を満たすようになる。これにはまた,日本の浮世絵版画からうけた強い印象がはたらいている。事実,88年,そもそもゴッホは,日本のイメージを求めて南仏のアルルへと向かったのであった。いわゆる〈ゴッホの耳切り事件〉という悲劇的な結末をみたゴーギャンとの共同生活を別にすれば,アルル時代はゴッホにとって実り豊かなものであった。この時期の《ひまわり》《麦畑》《糸杉》などでは,ぎらぎらした量感ある色彩とうねるような筆触によって,原初的ともいうべき自然のエネルギーを画面に噴出させ,また《夜のカフェ》(1888)では,強烈なコントラストによって,カフェにたむろする人間存在の狂気すらあばきだした。ゴッホ自身狂気と無縁でなく,89年5月サン・レミの精神病院に収容された。しかし創作意欲は失わず,この頃描かれた《星月夜》は,自然と感情とが狂おしいまでに一体になろうとうごめいている,画期的な作品である。90年5月,パリ近郊のオーベール・シュル・オアーズのガシェGachet博士--著名な美術愛好家でもあった--のもとにあずけられ,いかにも病的な博士の肖像と,死の影が色濃くただよう《麦畑のうえの烏》を残し,7月末ピストル自殺をとげた。
執筆者:本江 邦夫
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1853~90
オランダの画家。店員,説教師をへ,27歳で画家となることを決意。1886年パリに出,印象派に加わったが,2年後アルルに移る頃から表現主義的傾向の強い独自の画風を築いた。まもなく発狂し,自殺。代表作「ひまわり」。
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…印象主義の先駆者ヨンキントはフランスにとどまりつつ故郷の風景を好んで描き,オランダ国内でもマーリスMaris兄弟,ウェイセンブルッフHendrick Johannes Weissenbruch(1824‐1903),イスラエルスJozef Israels(1824‐1911)ら〈ハーグ派〉の画家が,バルビゾン派の影響を消化しつつ灰色系の色調を主体とした清潔で抒情的な風景画を残した。しかし19世紀最大の画家としては,短い劇的な生涯をフランスで閉じたファン・ゴッホを挙げねばならない。強烈な原色と荒い筆触を特色とする彼の絵画は,フォービスムや表現主義などの20世紀芸術に重要な指針を授けた。…
…日本では,〈後期印象派〉という訳語はすでに大正期にみられたが,適切とは言えず,〈印象派以後〉と理解すべきものである。展覧会の出品作家は,マネを特例として,ゴーギャン,セザンヌ,ゴッホ,ルドン,ナビ派(ドニ,セリュジエ),新印象主義の画家たち(スーラ,シニャック,クロスHenri‐Edmond Cross),フォービスムの画家たち(マティス,マルケ,ブラマンク,ドランら)といった,印象主義から出発し,それをこえようとした雑多な画家たちであり,そこには表現主義的な傾向が顕著とはいうものの,格別の枠組みがあるわけでもなく,〈Post‐Impressionists〉は,フライ自身も言うとおり,あくまでも便宜的な呼称にすぎなかった。この呼称が主として英語圏でしか用いられないのはこのためである。…
…90年代に流行したアール・ヌーボー(新しい芸術)は,ひとりヨーロッパにとどまらずアメリカから日本まで風靡したが,それが一名ユーゲントシュティール(青春様式)とよばれたのもこの間の消息を伝えるものである。ともあれゴーギャンはタヒチ島に渡り,ゴッホは片田舎のアルルで制作した。セガンティーニはアルプスに住みつき,フランスのポンタベンやドイツのウォルプスウェーデといった辺境に芸術家コロニーがつくられた。…
※「ゴッホ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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