コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ゴッホ ゴッホ Gogh, Theo(dorus) van

7件 の用語解説(ゴッホの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ゴッホ
ゴッホ
Gogh, Theo(dorus) van

[生]1857.5.1. ブラバント,フロートズンデルト
[没]1891.1.25. ユトレヒト
オランダの画商。画家 V.ゴッホの弟。ハーグの画商グーピル商会の店員で,兄フィンセントが 1880年に画家となる決心をして以来,物心両面で彼を支えた。しかし,フィンセントの作品で生前に売れたのは 1890年にブリュッセルの「20人展」に出品した『赤いぶどう畑』 (400フラン) 1点のみであった。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

ゴッホ
ゴッホ
Gogh, Vincent Willem van

[生]1853.3.30. ブラバント,フロートズンデルト
[没]1890.7.29. パリ近郊オーベール・シュル・オワーズ
オランダの画家。牧師の長男として生まれ,画商の店員 (1868~76) を経て牧師となったが,1880年画家となる決心をし,弟テオ (→ゴッホ ) の援助のもとエッテル,ハーグ,アントウェルペンなど各地を転々としながら『馬鈴薯を食べる人々』 (1885,アムステルダムゴッホ美術館) など農民の生活に取材した作品を描いた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ゴッホ(Vincent van Gogh)

[1853~1890]オランダの画家。主にフランスで活躍。印象派と日本の浮世絵の影響を受け、強烈な色彩と大胆な筆触によって独自の画風を確立した。表現主義フォービスムなどの先駆ともされる。作「ひまわり」「糸杉」「からすのいる麦畑」など。→後期印象派

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

ゴッホ

オランダの画家。正しくは〈ファン・ホッホ〉で,〈ゴッホ〉はドイツ語読みにもとづく日本での慣用。後期印象派を代表する一人。ベルギー国境に近い小村のフロート・ズンデルトの牧師の家に生まれ,中学卒業後美術商グーピルのもとで働いたり,牧師職につこうとしたりしたが成功せず,1880年ブリュッセルの美術学校に入学。
→関連項目アンデパンダン展歌川広重オルセー美術館クレーラー・ミュラー美術館ジャポニスムシュミット・ロットルフセザンヌピサロベルナールミネリモンティセリ

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ゴッホ【Vincent van Gogh】

1853‐90
オランダの画家だが,後半生をフランスで送った。後期印象派を代表する一人。オランダではホッホ,フランスではゴーグと発音される。ベルギー国境に近い,北ブラバント州の小村フロート・ズンデルトGroot‐Zundertで新教の牧師の長男として生まれた。生来の極端な性格がわざわいして,その前半生は失恋と失職による挫折感に満ち満ちている。1869年,美術商グーピル商会につとめるが,76年解雇される。短期間イギリスで語学教師として働いたのち,一念発起して,77‐78年,アムステルダムの神学校,ついでブリュッセルの伝道師養成所で学び,無給の伝道師としてベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュにおもむく。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ゴッホ【Vincent van Gogh】

1853~1890) オランダの画家。印象派と日本の浮世絵の影響をうけ、多くの名作を残した。後期印象主義の巨匠の一人だが、特に線に個性があり、のちの表現主義の創始者ともいわれる。代表作に「アルルのはね橋」「ひまわり」「糸杉」など。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ゴッホ
ごっほ
Vincent van Gogh
(1853―1890)

オランダの画家。後期印象派に属する。その短い生涯、さらに短い約10年ほどの画歴のなかで、あらゆるものに対する熱情と献身的な姿勢を示し続け、絵画に対しても同様に自身を燃焼し尽くすまで描き続け、その主観的、表現的な傾向は、20世紀の表現主義フォービスムのもっとも影響力の多い原点となった。またその生涯にわたって友人のバン・ラパールやエミール・ベルナール、彼のもっともよき理解者であり後援者でもあった弟のテオに多くの手紙を書いたが、その膨大な書簡集は、それ自体「書簡文学」「告白文学」としてゴッホの人と生涯に対する強い関心を喚起するだけではなく、作品とのかかわりを示す貴重な資料となっている。
 ゴッホは1853年3月30日オランダのフロート・ツンデルトに牧師を父として生まれる。家系には聖職者と装飾芸術家が多く出ている。幼児時代以来、素描に興味を示したが、80年画家になることを決意するまでいくつかの職を転々としている。69年、ゴッホは伯父の関係していた画商グーピルのハーグの店に勤め、73年にはロンドンの店に転勤。さらに2年後にはパリ支店に移り、ついでロンドンでの語学教師、77年ドルドレヒトの書店、78年ブリュッセルの伝道師養成所、同年ボリナージュの炭鉱での仮資格の伝道師としての勤務などがある。80年画家を決意、ブリュッセルで絵画を学ぶ。81年エッテン、同年末から83年ハーグ、83~85年ヌエネン、85年アントワープ(アンベルス)と各地で勉強を続けたが、本格的な画作の始まりはこのヌエネン時代で『じゃがいもを食べる人たち』(1885・アムステルダム国立美術館およびクレラー・ミュラー美術館)などがその代表作。
 1886年2月から88年2月までパリ時代。コルモンの画室に通い、ロートレックと知り合い、さらにピサロ、ゴーギャン、ベルナールたちとも知り合う。パリ時代は、すでにアントワープで知っていた浮世絵と新印象主義の影響下に、そしてまたパリの生活の雰囲気のなかで、色彩は一変して明るくなり、筆触は新印象主義風の点描となる。この時期約200点の油彩が制作された。
 しかしパリでの生活は心身ともにゴッホを疲労させ、その療養と、他方では印象派、新印象派を超える芸術活動の拠点であることを目ざして、1888年2月アルルに移る。翌年5月までアルル時代。少なくともこの88年は、ゴッホの制作が飛躍的な展開を遂げ、彼の画作の頂点となる作品が生み出される時期である。『アルルの跳ね橋』『ひまわり』、あるいは郵便夫ムーランとその家族の肖像など、色彩の強さ、筆触の表現力、構図の安定性など、ゴッホの独創的世界の確立期である。新しい芸術村の建設を夢みる彼の呼びかけに応じ、同年秋からゴーギャンとの共同生活がなされる。その相互刺激は双方に影響を与え、ゴッホも総合主義風の装飾体系を部分的に取り入れた。しかし強烈な個性は互いに相いれず、12月23日ついにゴッホの最初の発作がおこりかみそりでゴーギャンに切りつけたが果たさず、自らの耳を切り落とすという「耳切り事件」となる。ゴッホは入院、翌年3月にも再入院。
 1889年5月、サン・レミの病院に移り、翌年5月までがいわゆるサン・レミ時代。ここでも3回にわたり発作と脱力状態にみまわれるが、それ以外のときは、比較的自由な環境のもとで描き、病院外へも写生に出かけている。この時期は、ゴッホの内面の表現が、形態や筆触のリズム、テーマの選択などにより鋭く表面化する。すでにアルル時代の『夜のカフェ』(1888・エール大学美術館)で「赤と緑による恐るべき情念」の表現がなされており、また近年のゴッホ研究における精神分析的な解明によって、彼の作品の象徴言語の解読がさまざまになされているが、サン・レミ時代には、ゴッホの心の動揺そのものが、大地や糸杉や幻想的な夜空などにそのまま託される。『黄色い麦畑と糸杉』(1889・ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、『星月夜』(1889・ニューヨーク近代美術館)など。他方、白を混ぜた中間色、すみれ色など、沈んだ内面を表徴する作品群もみられる。
 1890年5月、印象派に親しい医師ガシェの滞在するオーベル・シュル・オワーズに移り、ガシェの監督下に療養と画作を行う。この最後の時期には、サン・レミ時代同様、ゴッホの内面の高揚と沈静がより頻繁な周期で作品に具体化し、後者がより多い。たとえば『カラスのいる麦畑』(ゴッホ美術館)、『荒れ模様の空と畑』(ゴッホ美術館)はいずれも90年7月の作品で、ともに強い筆触、すばやい仕上げで描かれているが、色彩の体系はまったく異なり、興奮と下降を示している。こうした彼の精神の動揺に拍車をかけたのが、終生彼を援助した弟テオの画商としての経営状態がよくなかったことであったらしい。同年7月27日彼はピストル自殺を試み、29日没。ド・ラ・ファイユが編集した最新の全作品目録(1970)は850点以上の油彩作品を数え上げている。なおオランダのオッテルローにあるクレラー・ミュラー美術館、アムステルダムのゴッホ美術館はゴッホの収集で世界的に有名。[中山公男]
『中山公男解説『現代世界美術全集8 ゴッホ』(1970・集英社) ▽嘉門安雄著『ゴッホ』(1967・旺文社) ▽カミーユ・ブールニケル他著、阿部良雄監訳『世界伝記双書6 ヴァン・ゴッホ』(1984・小学館) ▽二見史郎・宇佐美英治他訳『ファン・ゴッホ書簡全集』全6巻(1984・みすず書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内のゴッホの言及

【オランダ美術】より

…印象主義の先駆者ヨンキントはフランスにとどまりつつ故郷の風景を好んで描き,オランダ国内でもマーリスMaris兄弟,ウェイセンブルッフHendrick Johannes Weissenbruch(1824‐1903),イスラエルスJozef Israels(1824‐1911)ら〈ハーグ派〉の画家が,バルビゾン派の影響を消化しつつ灰色系の色調を主体とした清潔で抒情的な風景画を残した。しかし19世紀最大の画家としては,短い劇的な生涯をフランスで閉じたファン・ゴッホを挙げねばならない。強烈な原色と荒い筆触を特色とする彼の絵画は,フォービスムや表現主義などの20世紀芸術に重要な指針を授けた。…

【後期印象派】より

…日本では,〈後期印象派〉という訳語はすでに大正期にみられたが,適切とは言えず,〈印象派以後〉と理解すべきものである。展覧会の出品作家は,マネを特例として,ゴーギャン,セザンヌ,ゴッホ,ルドン,ナビ派(ドニ,セリュジエ),新印象主義の画家たち(スーラ,シニャック,クロスHenri‐Edmond Cross),フォービスムの画家たち(マティス,マルケ,ブラマンク,ドランら)といった,印象主義から出発し,それをこえようとした雑多な画家たちであり,そこには表現主義的な傾向が顕著とはいうものの,格別の枠組みがあるわけでもなく,〈Post‐Impressionists〉は,フライ自身も言うとおり,あくまでも便宜的な呼称にすぎなかった。この呼称が主として英語圏でしか用いられないのはこのためである。…

【世紀末】より

…90年代に流行したアール・ヌーボー(新しい芸術)は,ひとりヨーロッパにとどまらずアメリカから日本まで風靡したが,それが一名ユーゲントシュティール(青春様式)とよばれたのもこの間の消息を伝えるものである。ともあれゴーギャンはタヒチ島に渡り,ゴッホは片田舎のアルルで制作した。セガンティーニはアルプスに住みつき,フランスのポンタベンやドイツのウォルプスウェーデといった辺境に芸術家コロニーがつくられた。…

※「ゴッホ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

ゴッホの関連キーワードオランダ屋敷オランドイギリスオランダ戦争オランダ芥子オランダ渡りダッチフランスデモオランダの罠オランジーナオランダの犯罪

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ゴッホの関連情報