スペインの画家。3月30日サラゴサに近い小村フェンデトードスに鍍金(ときん)師の次男として生まれる。14歳ごろからサラゴサで後期バロックの画家ホセ・ルサーンJosé Luzán Martínez(1710―1785)に学ぶ。アカデミーの留学生試験に二度失敗、独力でイタリアに留学(1769~1771)、帰国後サラゴサでフレスコ画家として活躍したのち、1773年に同郷の宮廷画家フランシスコ・バイェウFrancisco Bayeu(1734―1795)の妹ホセーファJosefa Bayeu(1747―1812)と結婚、以後マドリードに出て、義兄や時の美術界の独裁者メングスの助力で王室用タペストリーのための原画(カルトン)制作に携わった。46歳で全聾(ぜんろう)となる悲劇にもめげず、念願であったアカデミー会員から宮廷画家、さらにカルロス4世の首席宮廷画家へと出世街道を驀進(ばくしん)したが、最晩年にフランスに亡命し、4月16日ボルドーで客死した。ゴヤの82年に及ぶ波瀾(はらん)に満ちた人生はまた、油絵、壁画、版画、ミニアチュール、デッサンと多彩な技法を駆使し、肖像画、風俗画、宗教画、戦争画、寓意(ぐうい)画、幻想画などの広範なジャンルにわたり、18世紀から19世紀初頭にかけてのスペインという危機の時代とそれを生きた人々を描ききった、偉大な証人としての生涯でもあった。
ロマン主義の先駆者、近代絵画の創始者とされるゴヤの生涯と芸術は、次の3期に大別しうる。1775年から17年間に及ぶタペストリー原画を中心とする第1期は、着実に上昇する彼の人生と符合するように、後期ロココ様式によってかげりのない民衆風俗を明るく謳歌(おうか)するものであった。『マドリードの市(いち)』や『目隠し遊び』『サン・イシードロの牧場』などに代表されるこの時代は、後の魔術的ともいえる技法に至る研鑽(けんさん)期間であるとともに、ゴヤが人間および人間的な事象に対する鋭い観察眼を生得的にもっていたことを示している。
ハプスブルクからブルボンへという王家の交代によってスペインに流入した啓蒙(けいもう)思想に共感し始めたゴヤが突き落とされた全聾の悲劇とともに始まった1793年からの第2期は、彼がそれまでの注文画では発揮しえなかった「気ままと創意」を羽ばたかせ、自由制作の領域を開拓し、音のない世界で自己と対面しつつ外界に対する洞察力を研ぎ澄ましていった時代である。グロテスクな魔女のシリーズ、仮面の群衆が乱舞する『鰯(いわし)の埋葬』、精神病者を収容した『狂人の家』など、人間の隠された実相をえぐり出す主題が登場する。1000枚余に及ぶ日記風のデッサンを描き始めたのも、病気快復後の1796年夏、服喪中のアルバ公爵夫人Duquesa de Alba(1762―1802)をサンルーカルの別荘に訪ねてからで、それらデッサンは、痛烈な社会批判の版画集『ロス・カプリーチョス(気まぐれ)』となり、後の版画シリーズへと結晶していく。表現主義を予告するサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ教会の天井画、近代的な裸婦の先駆といえる『裸のマハ』と『着衣のマハ』、ゴヤ最大のジャンルである肖像画の最高傑作『カルロス4世家族』など、幅広いジャンルで大きな成果をみせたのもこの時代である。
ナポレオン軍によるスペイン支配と対仏独立戦争(1808~1814)に始まる第3期は、首席宮廷画家ゴヤが、スペイン人としての国民感情と思想的な親仏感、戦後の専制政治と自由主義への願望の間で激しく揺れ動き、彼自身を亡命にまで追い詰めた時代でもあった。しかし時代の人ゴヤのそうした苦悩は、彼の魔術的な技法を通して、版画集『戦争の惨禍』や『ロス・ディスパラーテス(妄)』、『1808年5月2日』『1808年5月3日の銃殺』、さらに、だれのためでもなくゴヤ自身のために、彼の内面に渦巻く霧を表出したものであるがゆえにこそ逆説的に「普遍的な言語」たりえた14枚の「黒い絵」シリーズなどに結晶し、その反因襲的、反合理的な表現によって、近代絵画から現代絵画さえも先駆したのである。マネがゴヤを愛好したのは有名だが、ゴヤ最晩年の傑作『ボルドーのミルク売り娘』は点描主義を直接先駆するものであった。
[神吉敬三]
『神吉敬三解説『世界の名画1 ゴヤ』(1972・中央公論社)』▽『神吉敬三解説『現代世界美術全集23 ゴヤ』(1973・集英社)』▽『神吉敬三編『ゴヤ』(1973・小学館)』▽『P・ガッシエ著、神吉敬三・大高保二郎訳『ゴヤ全素描』(1980・岩波書店)』▽『サンチェス・カントン著、神吉敬三訳『ゴヤ論』(1972・美術出版社)』▽『アンドレ・マルロー著、竹本忠雄訳『ゴヤ論』(1972・新潮社)』
堀田善衛(よしえ)の評伝。四部作として1973年(昭和48)から76年にかけ『朝日ジャーナル』に各年8、9か月ずつ連載し、それぞれ次の年単行本として新潮社刊。懸案の主題を、数度のスペイン滞在を経て書き上げた作者執念の作である。下層の生まれながら巧妙な処世法でいちずに首席宮廷画家を目ざしたゴヤは、目的を達すると、なぜか宮廷画家らしからざる画業に出精する。また、子供の清純を至極の業に描く一方で、女性の肌のぬめりをもののみごとに表現する。と思うと、人間と社会との底なしの闇黒(あんこく)を嗜虐(しぎゃく)的なまでにとらえきる――。スペイン中世末の激動のなかで近代を先駆した、謎(なぞ)と矛盾の存在ゴヤを活写する力作である。
[佐々木充]
スペインの画家。サラゴサに近い寒村フエンデトードスに鍍金師の次男として生まれ,14歳ころからサラゴサで後期バロックの画家に教育された。独力でイタリアに留学(1769-71)し,サラゴサでフレスコ画家として活躍した後,1773年に同郷の宮廷画家バイェウFrancisco Bayeu(1734-95)の妹と結婚,以後マドリードに出て,義兄の助力で王室用タピスリーのための原画(カルトン)制作にたずさわった。人生半ばで全聾となる悲劇(1793)にもめげず,念願だったアカデミー会員から宮廷画家,さらにカルロス4世の首席宮廷画家へと出世街道を驀進したが,最晩年にフランスに亡命し,ボルドーで客死した。ゴヤの82年に及ぶ波乱に満ちた人生はまた,油絵,壁画,版画,ミニアチュール,デッサンと多彩な技法を駆使し,肖像画,風俗画,宗教画,戦争画,寓意画,幻想画など広範なジャンルで,スペインの18~19世紀という危機の時代とそれを生きた人々を描ききった,偉大な証人としての生涯でもあった。
近代絵画の創始者とされるゴヤの生涯と芸術は,次の3期に分けられる。1775年から17年にわたるタピスリー原画を中心とする第1期は,着実に上昇する彼の人生と符合するように,後期ロココ様式によってかげりのない民衆風俗を明るく謳歌するものであった。《マドリードの市》や《サン・イシードロの牧場》に代表されるこの時代は,後の魔術的ともいえる技法にいたる研鑽期間であると共に,ゴヤが人間および人間的事象に対する鋭い観察眼を生得的に持っていたことを示している。ハプスブルクからブルボンへという王家の交代によってスペインに流入した啓蒙思想に共感し始めたゴヤが突き落とされた悲劇--全聾--と共に始まった第2期は,彼が〈気ままと創意〉を羽ばたかせ,自由制作の領域を開拓し,音のない世界で自己と対面しつつ,外界に対する洞察力を研ぎ澄ましていった時代である。1000枚余に及ぶ日記風のデッサンを描き始めたのも病気直後からで,それは痛烈な社会批判の版画集《ロス・カプリーチョス(気まぐれ)》となり,後の版画シリーズに続いていく。表現主義を予告するサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会の天井壁画,近代的な裸婦の先駆といえる《裸のマハ》と《着衣のマハ》,ゴヤ最大のジャンルである肖像画の最高傑作《カルロス4世の家族》などを描いたのもこの時代であった。ナポレオン軍によるスペイン支配と対仏独立戦争(1808-14)に始まる第3期は,ゴヤ自身が,国民感情と思想的な親仏感,戦後の専制政治と自由主義の間で激しく揺れ動き,彼を亡命にまで追いつめた時代でもあった。しかし時代の人ゴヤのそうした苦悩は,彼の魔術的な技法によって,版画集《戦争の惨禍》や《ロス・ディスパラーテス(妄)》《1808年5月2日》や《1808年5月3日》,さらにゴヤの内面に渦巻く霧の表出であるがゆえに逆説的に普遍的な言語たりえた14枚の〈黒い絵〉シリーズなどに結晶し,その反因襲的,反合理的な表現によって近代絵画から現代絵画さえも先駆したのである。
執筆者:神吉 敬三
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1746~1828
18世紀スペインの代表的画家。ロココ風絵画の末期に属し,自然な光線の明暗をもって描いた。代表作に「カルロス4世の家族」「裸のマハ」,写実的な銅版画の連作「戦争の惨禍(さんか)」などがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…そして,1810年からカディスに召集された議会(コルテス)は,12年に自由主義の原則に基づくカディス憲法を作成・制定した。なおゴヤによって描かれた《戦争の惨禍》という一連のエッチングや,《5月2日》と《5月3日》の2点の絵は,この戦争中に示されたスペイン国民の愛国主義を不朽のものとした。【フアン・ソペーニャ】。…
…しかもスペインの場合,異なった文化原理は,ほとんどの場合に支配勢力の交代によってもたらされた。したがって新しい原理への交換は強烈であり,ゴヤが代表的な例であるように予想外の創造力を誘発することもある。またスペイン美術が,この国の歴史のように断続的なリズムを刻み,他のヨーロッパ諸国に例を見ないほど政治的・イデオロギー的な制約を受ける理由もそこにある。…
…風俗版画にA.ファン・オスターデ,風景にロイスダールJacob van Ruisdael(1628か29‐82),イタリア風の風景にブレーンベルフBartholomäus Breenbergh(1599‐1659以前),ボトJan Both(1610‐52),ベルヘムNicolaes Berchem(1620‐83),デュジャルダンKarel Dujardin(1622‐78),スバネフェルトHerman van Swanevelt(1600ころ‐55ころ),海景にド・フリーヘルSimon Jacobsz.de Vlieger(1600ころ‐53),ゼーマンReynier Zeeman(1623ころ‐67ころ)ら極盛期の観を呈する。スペインでは黄金時代の画家たちも余技程度にしか制作しないが,18世紀末にゴヤがアクアティントを併用しながら4種の大連作をつくり,19,20世紀に強い影響を与えた。各種の本の挿絵としても銅版画が用いられ,それらがエングレービングの体裁をとる場合にもしばしばエッチングによって版のおおよそをつくることが多かった。…
…これによって戯画とは気ままで放縦な遊びの絵画であり,真の芸術ではないと表明した。スペインの画家ゴヤは版画集《ロス・カプリーチョス(気まぐれ)》(1799)の中で,カリカチュアとそれによらない風刺画を組み合わせているが,全体として人間の無知,それに発する迷信,偏見,種々の悪徳,誤った教育,上流階級の傲慢さなどを鋭く暴露している。さらに死後発表された版画集《戦争の惨禍》で,ゴヤは単にナポレオン軍のスペイン侵略の記録というだけでなく,政治的迫害や腐敗した政府の破局への激昂を風刺版画に吐露した。…
…他方,シャルダンは《市場帰り》(1739)などで,ロココの貴族的な風俗画に背を向け,中産階級の地味な生活感情を謳歌した。スペインではゴヤが,1770~80年代に王立タピスリー工場のために精力的に下絵(カルトン)を制作したが,《瀬戸物売り》《凧上げ》《洗濯女たち》など,主として民衆の生活や娯楽に題材を求めた。 19世紀,とくにマネ,ドガ,ルノアールを中心とする印象主義の画家たちは,日本の浮世絵版画の描写する庶民の日常的動作から新鮮な刺激をうけた(喜多川歌麿の《山姥と金時》とドガの《髪を梳く女》など)。…
※「ゴヤ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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