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ドイツの作曲家。14歳の年,ヘッセンの領主モーリツ伯に楽才を見いだされ,カッセル宮廷礼拝堂の聖歌隊員となり,宮廷直属の高等学校で学ぶ。1609年,モーリツ伯より奨学金を与えられてベネチアへ留学し,巨匠G.ガブリエリのもとでイタリア・マドリガルの描写の手法や,ベネチア楽派の壮麗な複合唱様式を学んだ。12年帰国後カッセルの宮廷で第2オルガニストを務めたのち,17年ザクセン選帝侯に招かれてドレスデンの宮廷楽長に就任,以後55年間終生この地位にとどまって三十年戦争(1618-48)の苦難を音楽によって救った。
残存する約500曲の作品は,大部分が宗教的声楽曲である。シュッツの創作第1期は,ベネチア留学の成果を反映した作品群で,豊麗な複合唱様式をドイツ・プロテスタント教会音楽に定着させた最大の規模の《ダビデの詩篇歌集》(1619),ドイツ・オラトリオ最初の名作《キリスト復活の物語》(1623)やラテン語による4声部のモテット集《カンティオネス・サクレ》(1625)がこれに属する。28年再度のイタリア訪問で強い感銘を受けたモンテベルディの〈劇的な朗唱様式と激昂様式stileconcitato〉の影響から生まれた第2期は,小編成の器楽アンサンブルと独唱または重唱による凝縮された密度の高い表現力をもつ宗教曲集が中心となり,ドイツ教会カンタータ独自の形態の基盤ともなった《シンフォニエ・サクレ》Ⅰ,Ⅱ(1629,47)や《クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ》Ⅰ,Ⅱ(1636,39)が重要である。三十年戦争終結の1648年刊行の古典的名作《ガイストリッヒェ・コーア・ムジークGeistliche Chor-Musik》以後シュッツは第3期の作風に入る。《ルカ受難曲》(1653ころ),《ヨハネ受難曲》(1665ころ),《マタイ受難曲》(1666),《キリスト生誕の物語》(1664),死の前年に再び複合唱様式で書かれた《ドイツ語によるマニフィカト》(1671)などが代表作である。シュッツは当時のドイツではほとんど未知であったイタリアのさまざまな革新と後期フランドル楽派の対位法技巧,ドイツ独自の宗教音楽の伝統を総合し,J.S.バッハに先駆けて,その後のドイツ音楽の基底となる独創的な表現手段を獲得した。シュッツが〈新しいドイツ音楽の父〉とたたえられるのはそのためである。
執筆者:正木 光江
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…古くは四つの福音書の記述を総合したテキスト〈スンマ・パッシオニスsumma passionis〉に作曲することも行われた。その特殊な形態が,イエスの十字架上の言葉を四つの福音書から集め,それをつなぐ叙事的語りを加えた〈十字架上の七つの言葉〉(シュッツとハイドンの作品がある)である。
【歴史】
歴史的に見ると,受難曲は〈聖週間〉に行われた聖書の受難のくだりの朗読にさかのぼる。…
… 17世紀から18世紀中葉にかけてのバロック時代は,ルネサンスの後を受け,さらに外国の音楽の諸様式に敏感に反応しながら,ドイツ音楽がオペラを除くほとんどすべての分野で開花する時代である。とくに北方のプロテスタント地域では,ルター派のコラールを取り入れた教会カンタータや受難曲が,シュッツからJ.S.バッハ(大バッハ)に至る教会音楽の流れのなかで徐々に創造され,真にドイツ語とドイツ精神に根ざしたドイツ音楽を形成する。こうしたドイツ的なものは宗教的声楽曲のみならず,オルガン音楽,リュート音楽,チェンバロ音楽,バイオリン音楽,器楽組曲,合奏協奏曲などの器楽の上にも顕著に現れる。…
※「シュッツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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