シュルツ(読み)しゅるつ(その他表記)Theodore William Schultz

デジタル大辞泉 「シュルツ」の意味・読み・例文・類語

シュルツ(Bruno Schulz)

[1892~1942]ポーランドのユダヤ系作家。実験的な手法を用いて、幻想的な独自の世界を描いた。ゲシュタポにより射殺されたが、生前に発表した短編集「肉桂色の店」「クレプシドラ‐サナトリウム」が残されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュルツ」の意味・わかりやすい解説

シュルツ(Theodore William Schultz)
しゅるつ
Theodore William Schultz
(1902―1998)

アメリカの経済学者。M・フリードマンとともにシカゴ学派の指導者として活躍。サウス・ダコタ州アーリントンに生まれる。サウス・ダコタ州立大学を卒業後、ウィスコンシン大学の大学院に進み、1930年農業経済学の博士号を取得した。同年アイオワ州立大学で教職についたが、1943年同僚の論文の削除問題がおき、これに抗議して辞職した。その後シカゴ大学に移り、1946年から1972年まで教授を務め、1972年に名誉教授となった。その間、農務省、商務省の顧問、国連開発途上国調査委員などを務め、1960年にはアメリカ経済学会会長に就任した。

 農業を経済の重要な一分野として位置づけ、国民経済全体を視野に入れた枠組みのなかで分析した。初期の研究はアメリカ国内の農業問題であったが、やがて世界的農業問題に関心を広げた。開発途上国の経済発展と農業の関係を研究していくなかで、経済成長の要因として、資本ストックのうちでも人的資源が大きく貢献することに注目し、これを人的資本human capitalと名づけた。人的資本は教育投資によって増大し、経済発展に結び付くと主張し、教育や職業訓練への投資の重要性を強調した。1979年に「とくに開発途上国問題の考察を通じた経済発展の先駆的研究」に対して、ノーベル経済学賞がW・A・ルイスとともに与えられた。なお、彼の「人的資本の理論」は門下生のG・S・ベッカーにより、さらに発展した。

[金子邦彦]

『T・W・シュルツ著、逸見謙三訳『農業近代化の理論』(1969・東京大学出版会)』『T・W・シュルツ著、川野重任監訳『経済成長と農業』(1971・農政調査委員会)』『T・W・シュルツ著、土屋圭造監訳『貧困の経済学』(1981・東洋経済新報社)』『T・W・シュルツ著、伊藤長正他訳『「人間資本」の経済学』(1985・日本経済新聞社)』


シュルツ(Henry Schultz)
しゅるつ
Henry Schultz
(1893―1938)

アメリカの計量経済学者。ポーランドに生まれる。アメリカに渡り、ニューヨーク大学を卒業後コロンビア大学大学院に進み、ムーア教授に師事した。初めワルラスやパレートの学説を研究したが、やがて彼らが理論的に定立した需要や消費の関数を統計的に分析することに主題を移し、砂糖、トウモロコシなど諸種の商品について測定を行った。その集大成が大著『需要の理論と測定』The Theory and Measurement of Demand(1938)である。彼はこれらの分析にトレンド計算などを用いているが、それは経済理論と統計的方法との新しい結合であり、その点において師ムーアとともに初期計量経済学の創始者と評価されている。

[木村太郎]

『杉本栄一著『近代経済学の解明 下』(岩波文庫)』


シュルツ(Bruno Shulz)
しゅるつ
Bruno Shulz
(1892―1942)

ポーランドの小説家。ユダヤ人の家に生まれる。ウィーンの美術学校、ルブフ(現、ウクライナのリビウ)の工業専門学校をそれぞれ中退、病気と貧困に悩まされながら中学教師を勤めていたが、ウクライナのドロホビチの路上でナチスの銃弾に倒れた。グラフィック・アーチストとして出発、ワルシャワの美術展に出品したほか、自身の本やW・ゴンブロビッチの挿画を描いている。文学活動は評論より始めた。生涯に『肉桂(にっけい)色の店』(1933)と『クレプシドラ・サナトリウム』(1937)の2冊の短編しか残さなかったが、自伝的モチーフに満ちたこの2作は不安と絶望に震える異端の文学として、ビトキェビッチ、W・ゴンブロビッチとともにポーランドの前衛的、非現実主義文学を確立した傑作として知られる。シュルツは『審判』の翻訳でカフカをポーランドに紹介した最初の人で、彼自身も「ポーランドのカフカ」と称される。

[吉上昭三]

『工藤幸雄訳「肉桂色の店 クレプシドラ・サナトリウム」(『東欧文学全集6』所収・1967・恒文社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「シュルツ」の意味・わかりやすい解説

シュルツ
Theodore William Schultz
生没年:1902-

アメリカの経済学者。サウス・ダコタ州の農民の子として生まれ,ウィスコンシン大学で農業経済学を学び,アイオワ州立大学教授,経済・社会学部長を経てシカゴ大学教授。自由市場を重視するシカゴ学派の中心的存在で,専門分野においては農業経済学を国民経済の学として確立した。農業が土地の制約によって生産性の向上が遅く,経済成長につれ食糧供給が不足するというマルサス,リカード以来の既成観念を打破し,教育による農民の能力の向上と科学研究による技術の発展により農産物の供給が需要を上まわって増加し,農業の産業調整が先進国経済における主要な農業問題となる過程を解明した。この理論を一般化し,経済成長の源泉として物的資本の増大よりも,教育等による人間能力の向上が重要であるとする人的資本理論(〈教育の経済学〉の項も参照)を展開し,経済発展の理論と発展途上国開発政策の前進に大きく貢献した。1979年ノーベル経済学賞受賞。主著《農業の経済組織》(1953),《教育の経済的価値》(1963)。
執筆者:


シュルツ
Johannes Heinrich Schultz
生没年:1884-1970

ドイツの神経・精神医学者。自律訓練法の創始者。イェーナ大学医学部精神科教授,ベルリン精神療法研究所副所長を歴任し,第2次大戦後は個人開業した。フォークトO.Vogtに刺激されて1905年ころから催眠の精神生理的メカニズムについて研究を始めた。19年に出版した《患者の精神的治療法》における神経症の分類は有名である。また,《自律訓練法》(1932)は,自己暗示によって脱緊張を生じさせる方法を心理療法として体系化したものであり,版を重ね各国語に翻訳されている。自律訓練法は今日とくに,行動療法と結びついたかたちで神経症や心身症に対して世界的に適用,研究されている。
執筆者:


シュルツ
Bruno Schulz
生没年:1892-1942

ポーランドの作家。出自はドロホビチ(現,ウクライナ領)のユダヤ人。ゲシュタポの銃弾を浴び横死した。ウィーンの美術学校を中退,生地で美術教師を務め,病弱ながら短編小説の制作に没頭した。カフカの《審判》の訳業があり,この作品と多少の親近性は否めないが,幼年時の記憶,父母の姿,街の光景を不安のなかに描く手法は独特である。《肉桂色の店》(1934),《砂時計サナトリウム》(1931)と《書簡》(1964)を残した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュルツ」の意味・わかりやすい解説

シュルツ
Schultz,Howard

[生]1953.7.19. ニューヨーク
世界的なコーヒーショップチェーン,スターバックス創業者。父親はトラック運転手で,ニューヨーク・ブルックリンの低所得者向け共同住宅で育つ。ノーザンミシガン大学卒業後,ゼロックスに入社し販売を担当。スウェーデン資本の家庭用品販売会社を経て,シアトルでコーヒー豆卸売りを手がけていたスターバックスに 1982年入社。イタリアのミラノを訪問した際,コーヒー文化の深さに感銘を受け,エスプレッソコーヒーを売る喫茶店 (エスプレッソバー) の成長性を確信。独立を決意し,イタリアンスタイルのカフェ,イル・ジョルナーレを設立。薄味のアメリカンコーヒーに飽きたアメリカの消費者に,南欧風の濃いエスプレッソコーヒーが好評を博した。買収の危機を乗り越え,1987年シアトルの投資家の協力を得て,古巣のスターバックスを逆に買収。従業員第一主義を掲げ,1991年アメリカの民間企業で初めてパートタイム従業員にもストックオプション (自社株購入権) を与えるなど,先進的な経営スタイルを採用した。 1992年スターバックスを株式公開。 2001年4月全米プロバスケットボール協会 NBAのスーパーソニックスを買収した。 1996年には北米市場以外では初めての店舗を東京の銀座に開設。積極的な拡大路線を貫き,全世界に約 7500店舗 (2004年6月現在) と,スターバックスを世界最大手のコーヒーショップ網に育て上げた。著書に『スターバックス成功物語』がある。

シュルツ
Schulz, Charles

[生]1922.11.26. ミネソタ,ミネアポリス
[没]2000.2.12. カリフォルニア,サンタローザ
アメリカ合衆国のまんが家。イヌのスヌーピーでおなじみのまんがピーナッツ』Peanutsを半世紀近く描き続けた。『ピーナッツ』は 75ヵ国,2600紙以上の新聞に 20ヵ国語で掲載され,世界中の読者に親しまれた。少年時代からまんが家を目指し,人気まんが家の作品をまねて腕を磨いた。15歳で初めて新聞に作品が掲載され,1940年に高校を卒業すると通信教育でまんがを学んだ。第2次世界大戦後,美術学校の講師のかたわら地元の新聞にまんが『リトル・フォークス』Li'l Folksを連載,まんが家として活動を始めた。1950年にユナイテッド・フィーチャーズ・シンジケートと契約。『リトル・フォークス』は『ピーナッツ』とタイトルを変えて配給され,1958年には 400紙以上に配給されるようになり,関連商品も続々と発売,単行本も多数刊行された。1965年のテレビ版アニメーション『チャーリー・ブラウンのクリスマス』はエミー賞を獲得,1967年にはミュージカルも上演された。スヌーピーはアメリカ航空宇宙局 NASAの公認マスコットに指定された。1999年に引退を宣言。全米まんが家協会賞(1955,1964)など数々の栄誉に輝いた。

シュルツ
Schultz,Theodore William

[生]1902.4.30. サウスダコタ,アーリントン
[没]1998.2.26. イリノイ,エバンストン
アメリカの農業・開発経済学者。サウスダコタ州立大学卒業後,ウィスコンシン大学で修士号 (1928) ,博士号 (30) を取得。 1930年からシカゴ大学に移籍する 43年まで,アイオワ州立大学で教鞭をとる。シカゴでは 46年から 61年まで経済学部長として今日のシカゴ学派隆盛の基礎を築き,72年に退職。 60年にはアメリカ経済学会会長をつとめ,79年にはノーベル経済学賞を受賞。業績は農業・開発経済学の両分野にまたがるが,一貫して教育・人的資本の重要性を訴え続けていた点に特色がある。著書には『農業の経済組織』 The Economic Organization of Agriculture (53) ,『教育の経済価値』 The Economic Value of Education (63) ,『農業近代化の理論』 Transforming Traditional Agriculture (64) ,『人間資本の経済学』 Investing in People (81) ,『経済均衡の回復』 Restoring Economic Equilibrium (90) など多数がある。

シュルツ
Schultz, Henry

[生]1893.9.4. シャルコーフシチナ
[没]1938.11.26. カリフォルニア,サンディエゴ近郊
ポーランド生れのアメリカの計量経済学者。若くして P.ラプラス,C.ガウス,E.S.ピアソンらの数理統計学の文献を学び,H.L.ムーアの門下でその指導のもとに経済の統計的・実証的研究面で多くの業績を上げ,初期計量経済学の急速な隆昌に貢献。 1926年からシカゴ大学教授。主著『需要の理論と測定』 The Theory and Measurement of Demand (1938) は,R.フリッシュらによって開拓された近代的計量経済学が出現する以前の需要理論に関する最高の業績と通常みなされている。ほかに"Statistical Laws of Demand and Supply with Special Application to Sugar" (28) など。

シュルツ
Schurz, Carl

[生]1829.3.2. ケルン近郊
[没]1906.5.14. ニューヨーク
ドイツ生れのアメリカの政治家,ジャーナリスト。ボン大学の学生のとき,1848年の三月革命に巻込まれて亡命を余儀なくされ,スイス,フランス,イギリスを経て,52年アメリカに渡った。共和党に入り奴隷制廃止論者として頭角を現す。 A.リンカーンの大統領当選に貢献し,61年スペイン駐在公使。南北戦争には 62年義勇軍准将として,第2次ブルラン,チャンセラーズビル,チャタヌーガ,ゲティスバーグの戦いを歴戦,少将に昇任。戦後,解放黒人への選挙権付与を強硬に主張。 66年『デトロイト・ポスト』紙主幹。 77年から R.ヘーズ大統領のもとで内務長官をつとめ公務員制度改革やインディアンに関する政策の改善に努力。 81年『ニューヨーク・イブニング・ポスト』紙主幹として政治腐敗を攻撃。 1890年代は『ハーパーズ・ウィークリー』誌の論説委員として,共和党を離れ W.ブライアンを支持し,アメリカ帝国主義の対外侵略を批判した。

シュルツ
Schulz, Bruno

[生]1892.7.12. ドロホーウィチ
[没]1942.11.19. ドロホーウィチ
ポーランドのユダヤ人作家。病気や貧困と戦いながらも創作に励み続けた末,ナチス秘密警察に虐殺された。作品草稿の多くが行方不明となったが,かろうじて残された2冊の短編集『肉桂色の店』 Sklepy cynamonowe (1934) ,『クレプシドラ・サナトリウム』 Sanatorium pod klepsydrą (37) によってヨーロッパ文学史上に不朽の名をとどめた。東ヨーロッパユダヤ人たちの生活の独特の雰囲気をいまに伝え,彼ら固有の幻視と形而上学的啓示に満ちたその美しい散文は,多くの国で翻訳され,称賛を得た。わずかながら,評論,書簡集,また F.カフカの翻訳なども残した。

シュルツ
Shultz, George Pratt

[生]1920.12.13. ニューヨーク
アメリカの経済学者,政治家。プリンストン大学卒業。マサチューセッツ工科大学とシカゴ大学の教授 (経済,労使関係) をつとめ,1969年 R.ニクソン政権のもとで労働長官に就任。 70~72年行政管理予算局長官を経て,72~74年には財務長官をつとめた。 74年スタンフォード大学教授,75年ベクター社社長。 81年レーガン政権の国務長官。ホワイトハウスや国家安全保障会議ともうまく歩調を合せ,近年の名長官としてレーガン時代8年間その職をつとめた。シュルツの外交理念は,イデオロギーや利害をこえた「人間外交」であった。

シュルツ
Schurtz, Heinrich

[生]1863.12.11. ツウィッカウ
[没]1903.5.2. ブレーメン
ドイツの民族学者。バンド社会に関して,性別と年齢 (世代) 別に基づく結社的結合を研究し,成果を『年齢階梯と男子結社』 Altersklassen und Männerbünde (1902) として著わした。それまでの進化主義的民族学者たちが重視した,血縁や地縁による人間集団の基本的結合様式の問題を批判し,バンド社会における年齢階梯制秘密結社の研究に新たな手掛りを示して,民族学理論の発展に貢献した。

シュルツ
Schulz, Johann Abraham Peter

[生]1747.3.31. リューネブルク
[没]1800.6.10. シュウェート
ドイツの作曲家。 1780~87年ラインスベルクの,また 87~95年コペンハーゲンの宮廷楽長。親しみやすい民謡風の歌で芸術性の高いものを目指し多数の歌曲を作り,のちのドイツ・ロマン派におけるリートの先駆となった。また同種の歌を盛込んだジングシュピールをはじめ,オラトリオ,テ・デウムも作曲。

シュルツ
Schulz, Walter

[生]1912.11.18. グナーデンフェルト
[没]2000.6.12. テュービンゲン
ドイツの哲学者。テュービンゲン大学教授。主著『シェリングの後期哲学におけるドイツ観念論の完成』 Die Vollendung des deutschen Idealismus in der Spätphilosophie Schellings (1955) 。

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大学事典 「シュルツ」の解説

シュルツ
Theodore William

アメリカ合衆国の経済学者。サウスダコタ州アーリントン生まれ。1930年にウィスコンシン大学マディソン校で農業経済の博士号を取得し,同年から43年までアイオワ州立大学で教鞭をとった。1946年にシカゴ大学経済学部に転じ,60年にはアメリカ経済学会会長となる。アメリカにおける代表的な農業経済学者であるとともに,人的資本論の第一人者。経済成長の要因として,資本ストックのうち人的資源が大きく貢献することに注目,人的資本と名づけた。労働生産性の増加における人的資本への教育投資の役割に注目し,1963年に『The Economic Value of Education』(日本語版は『教育の経済価値』日本経済新聞社,1964)を刊行した。こうした業績は経済学者の教育への注目を導き,教育経済学の誕生に貢献した。ジェイコブ・ミンサー,ゲーリー・ベッカーなどの人的資本論者とともに,シカゴ・コロンビアトリオと称された。1979年ノーベル経済学賞を受賞。
著者: 島一則

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

百科事典マイペディア 「シュルツ」の意味・わかりやすい解説

シュルツ

ポーランドのユダヤ系作家。ドロホビチ(現,ウクライナ領)に生まれ,生地で美術教師をして生計をたてつつ,短編小説の制作に没頭。寡作だったが,自ら〈現実の神話化〉と呼ぶ独特の手法で,不安と夢幻に満ちた作品世界を創出。短編集に《肉桂色の店》(1934年)および《クレプシドラ(砂時計)・サナトリウム》(1937年)。ナチの占領下,ゲシュタポの銃弾で横死。
→関連項目カントルゴンブロビチ

シュルツ

アメリカの漫画家。ミネソタ州生れ。幼児期より絵の才能に恵まれていたといわれる。高校卒業後,雑誌への漫画投稿を続ける。1950年から新聞に《ピーナッツ》を連載開始,これに登場するビーグル犬の〈スヌーピー〉やその飼主の主人公〈チャーリー・ブラウン〉が人気を呼んだ。1999年に癌を宣告され引退を宣言。2000年2月12日に死去するが,翌13日《ピーナッツ》の最終回が日曜版に掲載された。世界75ヵ国で3億5500万人以上の読者をもち,掲載雑誌は2000誌を超えたといわれる。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「シュルツ」の解説

シュルツ

ドイツの作曲家、指揮者。ベルリンでキルンベルガーに師事。

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

世界大百科事典(旧版)内のシュルツの言及

【自律訓練】より

…ドイツの精神科医J.H.シュルツが1932年に創唱した自己催眠的要素の強い一種の精神療法で,心身症,神経症,自律神経失調症などの治療や精神統一,ストレス解消などに用いられる。1日2~3回,外界からの刺激を遮断し,2~10分間,楽な姿勢で閉眼し,注意を集中して決められた内容の〈言葉〉を頭の中でゆっくり反復する。…

【教育の経済学】より

…教育の労働者の質を高める効果は,19世紀の経済学者,たとえばJ.H.vonチューネンやA.マーシャルらが注目していたが,第2次大戦後,経済発展が各国の関心事になるにつれて教育の経済的効果が再認識され,1960年代に入ってから教育の経済学は急速な展開をみるに至った。代表的な論者はT.W.シュルツとベッカーGary Stanley Beckerである。教育が人間の潜在的能力を開発し,高度の教育を受けた労働者がそうでない労働者に比べて高い経済活動能力をもつことは経験的には明らかであるが,具体的にどのような能力を高めるかは,職業教育についてはともかく,普通教育については必ずしも明らかではない。…

※「シュルツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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