翻訳|Suez Canal
アジアとアフリカの両大陸の境界にあるスエズ地峡を貫く運河。アラビア語ではQanāt al-Suways。地中海と紅海を航行可能な運河で結ぶ必要性は歴史とともに古くから痛感されていた。事実,紀元前の古代エジプト王朝のころやアラブ・イスラム教徒がエジプトに侵入した直後の7世紀半ばの一時期に,実際に地中海からナイル川を経て紅海と結ぶ運河が掘削されていたことが知られている。これらの運河はその後荒廃し,砂漠に埋もれてしまった。
スエズ地峡を南北に掘り割って地中海と紅海を結ぶ現在のような運河は,19世紀以降英仏などヨーロッパ列強によるアジアでの植民地経営が発展し,ヨーロッパとアジアの間の物資移動と連絡が迅速化される必要性が強まる中から生まれた。
喜望峰回りの航路に代わって地中海からエジプトを通って紅海に至るルートのうち,経由するエジプトをどのようにして抜けるかをめぐり,イギリスは鉄道計画(アレクサンドリア-カイロ-スエズ)を推進したのに対し,フランスはスエズ運河計画を推進し,エジプトにそれぞれの計画を採用させようとして抗争した。エジプトはまずイギリスの鉄道計画を採用したのであるが,鉄道建設がまだ途中の段階でフランスのスエズ運河計画をも採用し,それへの出資を約束した。エジプトはこの二大プロジェクトに要する費用を英仏などからの借入れに頼ったことから財政的に行き詰まり,やがてイギリスの経済的・政治的支配を許すことになるのである。
フランス人レセップスは1854年スエズ運河の利権を入手し,58年にスエズ運河会社を設立,翌59年には建設工事に着工した。10年の工期を要して69年総延長162.5km(その後付け加えられたポート・サイド・アプローチ・チャンネルとスエズ・エントランス・チャンネル部分も含めれば188.5km)のスエズ運河は完工した。工事は,〈どぶさらい人足の壮大な夢〉といわれたように,土木技術上の新しい点はとくにみられなかった。
エジプトは当初スエズ運河会社の株式44.4%を所有し,最大の株主であったが,イギリスはエジプトが財政困難に陥ったことにつけ込み,75年エジプトの持株をそっくり買い取り,第2次世界大戦までイギリスはスエズ運河通行船舶の過半を占め,経済的利益を享受した。スエズ運河への発言権を失ったエジプトはその後イギリスによって植民地化され,スエズ運河に対する主権を回復するのは,第2次大戦後ナーセルの指導で成就したエジプト革命(1952)の後である。
すなわち,1956年エジプトはスエズ運河収益をアスワン・ハイ・ダム建設費に当てるため,スエズ運河国有化を宣言した。スエズ運河会社の大株主であった英仏はこれに反発し,イスラエルを語らってスエズ運河地帯に出兵した(第2次中東戦争またはスエズ動乱)。しかし,英・仏・イスラエルは国際世論の憤激に屈して撤兵したため,エジプトはようやくスエズ運河の主権を回復した。この戦乱でスエズ運河は5ヵ月間閉鎖された。
67年の第3次中東戦争でシナイ半島がイスラエルによって占領され,スエズ運河は再度閉鎖された。再開されたのは8年後の75年6月であった。
1950年代半ば以降,石油を運ぶタンカーがスエズ運河を通航する船舶の中でもっとも重要となっていた。しかしスエズ運河が閉鎖されていた8年の間に,タンカーの大型化がすすみ,スエズ運河を通航できない大型タンカーが多くなっていた。エジプトはスエズ運河の再開についで,運河の拡幅・増深工事を実施し,80年末までに水深を14.5mから19.5mに,有効幅(水深11m)を99mから160mとする工事を完工した。これで空船で30万トン(満載で15万トン)クラスのタンカーまでが通航可能となった。この工事での日本政府と民間企業の資金・技術面での貢献は大きかった。タンカーはさらに50万トン,70万トンと大型化がすすみつつあるため,スエズ運河の拡幅・増深も幅190m,水深23.5mを目ざす工事が計画されている。スエズ運河の通航料収入は閉鎖前の1966年で2.4億ドル,79年6億ドル,81年には9億ドルで,エジプトにとって貴重な外貨収入源となっている。
執筆者:石田 進
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地中海と紅海とを結ぶ著名な運河(全長約160km)。1869年フランス人技師レセップスによって完成。75年,イギリスは,スエズ運河株式会社の財政難に乗じてエジプト政府の保有株(44%)を買収し,運河に対する発言権を確保した。82年には内乱に乗じて運河地帯を軍事占領,エジプトをその支配下に収めた。1952年,ナギブ将軍による民族革命が成功するや,イギリスの勢力は退潮を余儀なくされ,56年運河はついにナセルによって国有化され,ここにはじめてスエズ運河は本来の持ち主であるエジプト人の手に帰した。
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…第2次大戦後にはボルガ・ドン運河(1952)が開かれ,この両大河の航路はボルゴグラードの西方ではじめて連結された。 以上のような諸地域のほかに,世界の交通上きわめて重要なものにスエズ運河(1869)とパナマ運河(1914)とがある(国際運河)。前者は水平運河,後者は閘門を備えた階段状の運河であるが,ともに2大陸を連ねる地峡に開削されたので,海上航路を著しく短縮して世界の幹線航路に革命をもたらした。…
…ティー・クリッパーは年を追って改良され,69年に出現したカティーサークで頂点に達した。しかし,同じころ開通したスエズ運河によって汽船での中国茶航路が開かれたため,ティー・クリッパーは急速に衰退した。汽船では燃料補給が困難だったオーストラリア航路に転進した帆船は,羊毛を運んでウール・クリッパーと呼ばれた。…
…また,国際河川の場合と違って,国際運河については,一般的な条約はなく,個々の条約で国際化が規定される。現存する国際運河は,スエズ運河とパナマ運河である。 地中海と紅海を結ぶスエズ運河を国際化したのは,領域国トルコ(現在はエジプト)など9ヵ国の間で締結された1888年のコンスタンティノープル条約である。…
…19世紀半ば〈開国〉を強いられたアラブ地域も,同様に分割と領有にさらされた。とりわけスエズ運河の開通(1869)は,アジア・ヨーロッパ間の貿易関係に革命的な変化をもたらしたのみならず,アラブ地域内部の構造変革を促進し,やはりモノカルチャー型経済の形成を強要することになった。 アジアにおいては,中国に対する〈門戸開放政策(門戸開放主義)〉が,中国の事実上の分割を招いた。…
…エジプト北東部,スエズ運河の地中海側の入口にある都市。人口46万(1992)。…
…1860年ナポリのロスチャイルド家は閉鎖され,フランクフルト,ウィーンでも家運は衰退に向かった。しかしパリでは67年クレディ・モビリエの瓦解後,ロスチャイルド家は再び指導的な地位を回復し,ロンドンでもクリミア戦争での公債引受け,スエズ運河購入にあたっての金融などで依然として力を発揮した。普仏戦争後の講和交渉でフランスの償金支払を保証し,また早期支払を可能にしたのもロスチャイルド家の金融力であった。…
※「スエズ運河」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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