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スエズ運河 スエズうんが Suez Canal

翻訳|Suez Canal

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スエズ運河
スエズうんが
Suez Canal

エジプト北東部スエズ地峡にあり,紅海と地中海とを結ぶ運河。ヨーロッパインド亜大陸,その周辺および西太平洋の諸国を結ぶ最短海路で,平時には世界で最も頻繁に利用される。北端は地中海側のポートサイド,南端は紅海側のスエズ市の一部ポートタウフィーク。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

スエズ運河

地中海と紅海を結ぶ長さ約160キロの世界最大の運河。1869年、元フランス外交官の設立した企業が開発し、現在はエジプトスエズ運河庁が運営する。 アフリカ大陸をまわらずに欧州とアジアを結ぶ最短航路で、開通時には「東と西の結婚」と称され、国際物流に大きな影響を与えた。 英仏両国が経営を掌握していたが、1956年にエジプトのナセル大統領(当時)が国有化を宣言すると、反発した英、仏、イスラエルがエジプトに侵攻しスエズ危機(第2次中東戦争)が勃発した。

(2015-02-20 朝日新聞 朝刊 2外報)

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デジタル大辞泉の解説

スエズ‐うんが【スエズ運河】

エジプトの運河。スエズ地峡を貫き、紅海地中海とを結ぶ。フランス人レセップスの計画により着工し1869年に開通、フランス・英国の経営を経て、1956年に国有化。長さ約162.5キロ。

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百科事典マイペディアの解説

スエズ運河【スエズうんが】

アジアとアフリカの境界,紅海と地中海を結ぶ運河。全長162.5km,幅160〜200m,深さ14.5m。1859年レセップスにより建設工事が開始され,1869年開通。
→関連項目アジアアデンイスマイリアイスマーイール・パシャ運河エジプトエジプト(地域)紅海国際運河三C政策スエズ地峡地中海ナーセルバーブ・アルマンダブ海峡ポート・サイド

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世界大百科事典 第2版の解説

スエズうんが【スエズ運河 Suez Canal】

アジアとアフリカの両大陸の境界にあるスエズ地峡を貫く運河。アラビア語ではQanāt al‐Suways。地中海と紅海を航行可能な運河で結ぶ必要性は歴史とともに古くから痛感されていた。事実,紀元前の古代エジプト王朝のころやアラブイスラム教徒がエジプトに侵入した直後の7世紀半ばの一時期に,実際に地中海からナイル川を経て紅海と結ぶ運河が掘削されていたことが知られている。これらの運河はその後荒廃し,砂漠に埋もれてしまった。

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大辞林 第三版の解説

スエズうんが【スエズ運河】

エジプトの北東部,スエズ地峡に建設された,地中海と紅海とを連絡する水平式運河。アジアとヨーロッパとを結ぶ最短航路。フランス人レセップスが設計し,1869年開通。長くイギリスの支配下にあったが,1956年エジプトが国有化。長さ163キロメートル。国際運河。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

スエズ運河
すえずうんが
Suez Canal

地中海とスエズ湾、紅海、そしてインド洋を結ぶ世界最大の水平海洋運河で、アジアとアフリカの海峡をなすスエズ地峡を貫く。地峡部の長さは162.5キロメートル、南北の進入用水路設備を含めると全長195キロメートル[酒井傳六・鈴木聡士]

歴史

スエズ運河の歴史は、世界の交通、そして各国の政治・経済・軍事等のさまざまな思惑が交錯する結節点であったことに大きく影響されている。スエズ運河の最初の建設時期は、紀元前2000年ごろといわれ、古代エジプト第12王朝の王センウスレト1世が飲料・農業用水の確保などを目的として運河を掘り、ナイル川と紅海を結び付けたとされる。このコースは、ナイル東端の支流の要地ザガジグに発し、ワディ・ツミラト凹地を東進してティムサ湖に入り、ついで南下してビター湖を経て、スエズ湾、紅海に達するものであったといわれている(紀元前600年ごろに建設されたという説もあるが、これによると、第26王朝の王ネコ2世が建設したが途中で放棄し、それを第27王朝の王ダリウス1世が引継ぎ完成させたという)。
 この運河はその後継続的に活用されたが、政治および軍事的理由などにより8世紀以降放置されて土砂に埋まった。15世紀に喜望峰回りの航路が発見されて、この航路による東西交易が活発になると、地中海のもっとも精力的な通商民族ベネチア人が、スエズ地峡を掘って地中海と紅海を直結する短距離経路をつくるようエジプトのスルタンに提案したが拒否された。しかしその後、この考えはことあるごとにヨーロッパ人をひきつけた。
 1798年12月30日、ナポレオンのスエズ地区視察隊はナイル川と紅海を結ぶ古代運河の跡を発見した。このことがきっかけとなり、地中海と紅海を結ぶ直行運河の建設の可能性を探るため、建築家ル・ペール率いる調査隊がスエズ地峡部のさまざまな調査を行ったが、その結果、二つの海の水位差を9.9メートルであると見誤り、この報告によって建設を断念するに至った。しかし、この人類史上初の専門的調査が、1832年にエジプトへ領事代理として赴任したフランス人フェルディナン・ド・レセップスの気持ちを刺激した。さらに1847年、技師リナン・ベイの調査によって二つの海の水位差はほとんどないということが報告された。
 1849年に駐ローマ大使を最後に外交官生活を離れたレセップスは直行運河の構想を進めていた。そして1854年、サイード・パシャが総督に即位し、このことが直行運河実現の第一歩となった。サイード・パシャは少年時代、レセップスを教師としてフランス語と文化を学んでおり、レセップスと特別の友好関係にあった。そしてレセップスはこの機会をとらえて直行運河の建設を実行に移した。同年11月30日、レセップスは総督から建設許可書を受け取った。この許可書のなかには、設立される万国スエズ海洋運河会社の権利期限(99年間)や、運河の国際無差別性と自由航路などの基本条件が示された。
 この計画に対してイギリスは、エジプト以東インドに至るイギリスの権益が脅かされるとの不安から、さらには1850年にアレクサンドリア―カイロ―スエズを結ぶ鉄道建設を始めていたことなどから強硬な反対運動を始めた。エジプト総督と宗主国のオスマン・トルコ皇帝はイギリスからさまざまな形の圧力を受けたために、トルコ皇帝が最終的工事許可書を出ししぶり、計画はしばしば危機に見舞われた。しかしレセップスは1858年12月15日スエズ運河会社を設立し、トルコ皇帝の許可を待たずに翌年4月25日に地中海側の出発点(今日のポート・サイド)で起工式を行った。イギリスの妨害はやまず、このためトルコ皇帝とスエズ運河会社が対立し、さらにはエジプト総督も工事中止命令を出した。この事態はナポレオン3世の仲裁(1864)によって改善され、1866年に新たな協定が調印された。この協定のなかで初めて「スエズ運河会社はエジプトの会社であり、エジプトの法と習慣で律せられる」という内容が明記された。また同年、トルコ皇帝の最終工事許可書が発行された。かくして運河は開通し、1869年11月17日、世界諸国の元首、貴顕名士を招いて盛大な開通式が行われた。
 1869年スエズ運河が開通した当時、イギリスの自由党グラッドストーン内閣(1868~1874)は、かつて同じ自由党のパーマストン内閣がその建設に強硬に反対を唱えていたのに対し、公平にスエズ運河の世界史的価値を認めてレセップスを支持した。外務大臣は賞賛と祝賀の電報をレセップスに送った。1855年以来レセップスをもっとも悩ませた「イギリスの敵意」はこのとき終わり、以来イギリスは最大の運河利用国となり、運河会社に発言権を持つようになった。
 1875年、エジプト副王イスマーイール・パシャが財政上の理由から運河会社の持株17万7000株を売りに出したときも、イギリスは躊躇(ちゅうちょ)することなくこれを買い入れた。会社全体の40万株の半分に近い数である。続いて起こったエジプト国庫の赤字増大(1876)、イギリス・フランス両国によるエジプト財政の管理(1878)、副王イスマーイールの強制退位(1879)と続く一連のできごとは、一方でイギリス・フランス間の協調を促し、他方でエジプト国民の民族意識に火をつけた。その結果、1882年にアレクサンドリアで反ヨーロッパ人暴動が起き、民族主義者である軍人オラビ・パシャの指揮する軍が介入、約50人のヨーロッパ人の死者が出た。イギリスはヨーロッパ人の安全とスエズ運河の通航確保という名目を挙げてエジプトに出兵し、スエズ運河地帯を占拠、通航を2日間禁止した。通航禁止の解除はレセップスの強硬な抗議で実現したが、これを契機として通航の自由に関する諸国間協定の必要が広く認識され、1888年にヨーロッパ列強9か国による条約がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)で調印された。各国はただちに批准したが、イギリスだけは軍事占領のために批准を延ばした。イギリスの批准が終わり条約が有効に機能するようになったのは1904年のイギリス・フランス協商調印後である。その後もイギリスの占領は続き、第一次世界大戦では1日、第二次世界大戦では断続的に計76日間運河が閉鎖された。
 イギリスはまた、1936年のイギリス・エジプト条約でスエズ運河地帯の駐留権を適法化した。これに対し1952年のエジプト革命で登場したナセル中佐と、1953年6月に大統領兼首相に就任したナギブ将軍らは、早期撤兵のための協定をイギリスに承認させ(1954)、これに基づいた撤兵が1956年6月に終わって、実に72年ぶりに運河地帯はエジプトの主権下に戻った。
 1956年7月19日、アメリカがアスワン・ハイ・ダムへの融資を撤回する旨をエジプトに通告し、イギリスと世界銀行もこれに倣ったため、同月26日ナセル大統領はスエズ運河会社(契約上は1968年まで権利があった)の国有化を宣し、その収益によってアスワン・ハイ・ダムをつくると宣言した。これを契機にイギリス、フランス、イスラエルによるエジプト攻撃(スエズ戦争または第二次中東戦争)が起こったが、エジプトの抵抗と国連の介入によって英、仏、イスラエルの軍隊は撤退し、国有化が確定、エジプトは旧会社に補償金を支払った。運河はスエズ戦争のために5か月間にわたって閉鎖された。1967年6月の第三次中東戦争で運河は再度閉鎖され、第四次中東戦争後の1975年6月、8年ぶりに再開された。さらに同年11月には第1期拡張工事が着手され、1980年12月に完成。引き続き第2期拡張工事が計画されていたが、イラン・イラク戦争(1980~1988年)、さらには湾岸危機と湾岸戦争(1990年8月~1991年2月)などの影響によってこの計画は凍結された。しかしエジプト政府は1991年7月末、第2期拡張工事計画を実現するため、世界銀行と日本に資金援助を求め、その後行われた第2期拡張工事によって、マンモスタンカーの航行も可能になった。さらに1996年エジプト政府は「スエズ架橋」計画を発表、日本はそれに対して4年間で総額118億円の無償資金協力を行うことで合意。1998年5月には、鹿島建設、日本鋼管(現、JFEスチール)、新日本製鉄(現、新日鉄住金)3社の企業連合が、エジプト政府と受注契約を交わした。この架橋は、スエズ運河をまたぎ、エジプトとガザ、イスラエルを結ぶもので、全長約4キロメートル、橋部分約730メートル。2001年に完成した。[酒井傳六・鈴木聡士]

経済的意義

1869年の運河開通に伴って、南アフリカの喜望峰回りの航路に比べて著しく距離が短縮された。リバプール―ボンベイ(現、ムンバイ)間で42%、リバプール―横浜間で24%の短縮となり、その分だけ輸送の日数と経費を減らすことになった。
 おりしも帆船から蒸気船に移る時代であったこともあり、通航船の数は年とともに増え、1869年にはわずか10隻の通航であったものが1873年には1000隻を超えた。通航船の数はその後も増え続け、1976年に1万隻、1977年には2万隻台に達し、1982年には2万2811隻を数えて、1日当り62.5隻という通航量に達した。これに伴い積載貨物の量も増え、東西の物資の交流に大きな役割を果たしている。第二次世界大戦前の主要貨物は食料品、原材料、工業製品などであったが、大戦後は石油の占める比率が飛躍的に増大し、オイルタンカーの通航数は1975年に69隻、1977年に2000隻、1981年に3000隻、1983年には3602隻に達し、ヨーロッパで消費される石油の大半がこの水路を通って運ばれている。
 一方、通航料金がエジプトに与える経済効果は大きく、1975年に9900万ドルの収益であったものが1979年には5億8700万ドル、1982年には9億5600万ドル、1994年には約19億ドルに達した。通航料金は、在外エジプト人労働者からの送金と輸出品に並び、エジプトの重要な外貨収入源となっている。
 このように、レセップスが起工式にエジプト人労働者に向かって言った「あなたがたが運ぶものは、単なる土であるにとどまらないのであります。あなたがたは、家庭とこの美しい国に繁栄を運ぶのであります」ということばは真実のものとなった。[酒井傳六・鈴木聡士]

工事技術からみた歴史

スエズ運河はスエズ地峡部を開削して地中海と紅海を結ぶ全長162.5キロメートルの水平式運河である。
 最初の専門的調査は、18世紀末にナポレオンの命令によりル・ペールによって行われたものであるが、この調査の結果では、紅海のほうが地中海よりも9.9メートル高いということであった。これに対しナポレオン調査団に属する数学者のJ・B・ジョゼフ・フーリエとピエール・シモン・ラプラスは、二つの海は物理学的にみて同一水位にあるはずだと主張した。しかし先の測定値は以降50年にわたり、学者と技術者を拘束することとなった。そして1845年、技師リナン・ベイはスエズ地峡を調査し、1847年に地中海と紅海の間に水位差がほとんどないことを報告した。その後、1855年10月にはスエズ運河調査国際委員会がパリで結成され、さらに1859年4月25日、起工式が地中海の突端の地で行われた。
 この工事は壮大な夢であったが、土木技術上の目新しい試みはほとんどなかった。掘削した陸地の最高所でも標高15メートルにすぎず、運河の約5分の1は天然の湖水であり、路線も単調で北側はほとんど直線であった。土質は砂や粘土で人力掘削が可能であったため、1859年の工事開始後1863年までは、当時のエジプト総督サイード・パシャにより月々約2万5000人の労務者が提供され、ラクダによる土砂運搬が行われた。しかし、総督がサイード・パシャからイスマーイール・パシャにかわったことや、1863年にトルコの外務大臣からレセップスに対して労務者の強制労働の廃止、2万5000人の労務者を6000人に減らすこと、労務者の給料を上げることなどの申し入れがなされたため、その後は機械の導入が積極的に進められた。その代表的なものは蒸気機関を備えた60台のバケット浚渫(しゅんせつ)機であり、70メートルのシュート(樋(とい))によって、さらった土砂を両岸に積み上げることができた。
 しかし、二つの海の合流は単純なものではなかった。合流に伴う波動と衝撃は予想を超えるものであった。それは地中海の水位が紅海のそれより25センチメートル低かったことによるものである。堤防は多くの場所で崩れ、困難な堤防補強と再建工事が不安のなかで続けられた。1869年8月18日、ようやく水の動きが安定した。かくしてスエズ運河は、同年11月17日に約7500万立方メートルの総土工量を掘削して完成した。しかしその陰には12万人以上の犠牲者を出したといわれている。
 形状は薄い台形の断面形状であり、1869年の開通当初は、幅22メートル、深さ8メートル、喫水深5メートルであった。その後漸次拡張され、スエズ運河会社がエジプトにより国有化された1956年には延長171キロメートル、深さ13メートルないし15メートル、水表面の幅140メートルで、喫水深11メートルのところの幅は60メートル、ある地区では100メートルを超えていた。1975年11月からはエジプト政府によって第1期拡張工事が着手され、日本などの援助を受けて1980年12月に完成した。この工事の完成記念式典でサダト大統領は、「この拡幅・増深計画は技術、工事、資金を含め、日本の貢献によって実現できた」と日本の協力を讃えた。この工事の結果、深さ19.5メートル、幅160メートルとなり、原油積載量15万トン級のタンカーの通航が可能になった。エジプト政府はさらに第2期拡張工事を実施、これによりマンモスタンカーの航行も可能となった。その後、1994年、1996年、2001年に拡張工事を継続し、2010年時点においては、全長193.30キロメートル、深さ24メートル、幅205メートルとなり、原油積載量24万トン級のタンカーの通行が可能となった。[五十嵐日出夫・鈴木聡士]
『酒井傳六著『スエズ運河』(1992・朝日新聞社) ▽土木学会編『土木用語大辞典』(1999・技報堂出版)』

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世界大百科事典内のスエズ運河の言及

【運河】より

…第2次大戦後にはボルガ・ドン運河(1952)が開かれ,この両大河の航路はボルゴグラードの西方ではじめて連結された。 以上のような諸地域のほかに,世界の交通上きわめて重要なものにスエズ運河(1869)とパナマ運河(1914)とがある(国際運河)。前者は水平運河,後者は閘門を備えた階段状の運河であるが,ともに2大陸を連ねる地峡に開削されたので,海上航路を著しく短縮して世界の幹線航路に革命をもたらした。…

【クリッパー】より

…ティー・クリッパーは年を追って改良され,69年に出現したカティーサークで頂点に達した。しかし,同じころ開通したスエズ運河によって汽船での中国茶航路が開かれたため,ティー・クリッパーは急速に衰退した。汽船では燃料補給が困難だったオーストラリア航路に転進した帆船は,羊毛を運んでウール・クリッパーと呼ばれた。…

【国際運河】より

…また,国際河川の場合と違って,国際運河については,一般的な条約はなく,個々の条約で国際化が規定される。現存する国際運河は,スエズ運河パナマ運河である。 地中海と紅海を結ぶスエズ運河を国際化したのは,領域国トルコ(現在はエジプト)など9ヵ国の間で締結された1888年のコンスタンティノープル条約である。…

【植民地】より

…19世紀半ば〈開国〉を強いられたアラブ地域も,同様に分割と領有にさらされた。とりわけスエズ運河の開通(1869)は,アジア・ヨーロッパ間の貿易関係に革命的な変化をもたらしたのみならず,アラブ地域内部の構造変革を促進し,やはりモノカルチャー型経済の形成を強要することになった。 アジアにおいては,中国に対する〈門戸開放政策(門戸開放主義)〉が,中国の事実上の分割を招いた。…

【ポート・サイド】より

…エジプト北東部,スエズ運河の地中海側の入口にある都市。人口46万(1992)。…

【ロスチャイルド家】より

…1860年ナポリのロスチャイルド家は閉鎖され,フランクフルト,ウィーンでも家運は衰退に向かった。しかしパリでは67年クレディ・モビリエの瓦解後,ロスチャイルド家は再び指導的な地位を回復し,ロンドンでもクリミア戦争での公債引受け,スエズ運河購入にあたっての金融などで依然として力を発揮した。普仏戦争後の講和交渉でフランスの償金支払を保証し,また早期支払を可能にしたのもロスチャイルド家の金融力であった。…

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