スカルラッティ(英語表記)Scarlatti

デジタル大辞泉 「スカルラッティ」の意味・読み・例文・類語

スカルラッティ(Scarlatti)

(Alessandro ~)[1660~1725]イタリアの作曲家。多数のオペラオラトリオなどを作曲し、イタリア‐オペラの完成に貢献した。
(Domenico ~)[1685~1757]イタリアの作曲家・チェンバロ奏者。の子。500曲を超えるチェンバロソナタを作曲し、近代的奏法を創始した。

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精選版 日本国語大辞典 「スカルラッティ」の意味・読み・例文・類語

スカルラッティ

  1. [ 一 ] ( Alessandro Scarlatti アレッサンドロ━ ) イタリアの作曲家。一七世紀後半から一八世紀初頭にかけてオペラの作曲者としてナポリで活躍。モンテベルディの劇的な様式をひきつぎ、バロック音楽への橋渡しの役割を果たした。室内カンタータマドリガルなど多く作曲。(一六六〇‐一七二五
  2. [ 二 ] ( Domenico Scarlatti ドメニコ━ ) 作曲家、チェンバロ奏者。アレッサンドロの子。最初オペラ作曲家として世に出たが、のち教皇庁の礼拝堂楽長、ポルトガルの宮廷楽長を歴任し、多くのチェンバロ曲を書き、クラビーアソナタへの発展の道を開いた。バロック音楽からロココ音楽への様式の変遷を示すそのソナタは現在もピアノ曲として親しまれる。(一六八五‐一七五七

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改訂新版 世界大百科事典 「スカルラッティ」の意味・わかりやすい解説

スカルラッティ
Scarlatti

バロック時代のイタリアの音楽家一族。アレッサンドロとドメニコが特に有名。

(1)アレッサンドロAlessandro S.(1660-1725) パレルモ出身。12歳でローマに出て音楽を学んだ。G.カリッシミの弟子ともいわれる。1684年にナポリ王に招かれて王室礼拝堂楽長となる。フィレンツェほかで職を求めた一時期(1703-08)を除いてはナポリにとどまった。多数のオペラ・セーリアを作曲してナポリにオペラの隆盛を招いた。彼はイタリア風序曲形式(シンフォニア)の確立,ダ・カーポ・アリア(A B Aの3部形式)の確立,アリアとレチタティーボの機能の完全分離などによってナポリ風オペラの枠組みを作り上げた。花形歌手がベル・カント唱法でアリアを歌いあげて活躍するこのナポリ風オペラは,1660年以来のイタリアの音楽劇の集大成として,フランスを除くヨーロッパ全土に大流行し,オペラ史上に一時代を形成することになった。アレッサンドロは約115曲のオペラ(現存するのは約50曲)のほか,オラトリオ,セレナータ,カンタータなど劇的な声楽作品を多数作曲した。代表作にはオペラ《とりちがい》(1679),《ティグラーネ》(1715),《グリゼルダ》(1721)など。

(2)ドメニコDomenico S.(1685-1757) アレッサンドロの息子。ナポリ,ローマでオペラ作曲家,ハープシコード演奏家として活躍した後,1720年リスボンのポルトガル王家の宮廷楽長となる。同時に王家の子女の音楽教師としてハープシコードを教え,29年以後は,スペイン皇太子妃となった王女マリアバルバラに従ってマドリードに移り住んだ。宗教音楽と世俗音楽,声楽と器楽の広範囲にわたる作品があるが,特に重要で今日もよく演奏されるのは,おもにポルトガル,スペイン時代の作品といわれる580曲をこえる鍵盤楽器用ソナタ(単一楽章で簡単な2部形式)で,イタリアのピアノ奏者ロンゴAlessandro Longo(1864-1945)によって編集されている。
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百科事典マイペディア 「スカルラッティ」の意味・わかりやすい解説

スカルラッティ

イタリアの作曲家,ハープシコード奏者。A.スカルラッティの4男としてナポリに生まれる。1701年,父が楽長を務めるナポリ王室礼拝堂のオルガン奏者兼作曲家となる。ベネチア,ローマに出て多くのオペラ,教会音楽を発表,ヘンデルコレリと知り合った。1720年リスボンに赴き,ポルトガル王家の宮廷楽長となる。王家の子女のハープシコード教師も務め,またこの地でセイシャスを知る。1729年スペイン皇太子妃となった王女マリア・バルバラに随伴してマドリードに行き,以後スペイン王の宮廷に仕えた。主にこの時代に書かれた550曲を超えるハープシコード・ソナタ(当時の名称は練習曲)は1楽章のものだが,ロココ風の独創的技法に富み,のちのピアノ奏法の多くを先取りした傑作として名高い。その整理番号には今日,イタリアのピアノ奏者・作曲家A.ロンゴ〔1864-1945〕とカークパトリックによるものが主に併用されている。→ソナタハープシコード
→関連項目バロック

スカルラッティ

イタリアの作曲家。パレルモに生まれ,1672年ころ勉学のためローマに出る。1684年−1703年ナポリ王室礼拝堂楽長。このころからオペラ作曲家として名声を高め,ナポリにオペラの隆盛をもたらすとともに,その作品は国外でも上演された。1702年−1708年にはフィレンツェやベネチアで活動するが,1709年ナポリの職に復帰し同地に没した。その最大の功績はオペラの分野にあり,アリアレチタティーボの機能を明確に分離し,また,のちにイタリア・オペラの典型的な序曲となった急―緩―急の3部分からなるシンフォニアの形式を確立した点が特筆される。約115曲のオペラ(現存するのは約50曲)のほか,800曲以上のカンタータ(セレナータ),オラトリオミサ曲,器楽曲などを残した。D.スカルラッティはその4男。→ハッセ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スカルラッティ」の意味・わかりやすい解説

スカルラッティ(Domenico Scarlatti)
すかるらってぃ
Domenico Scarlatti
(1685―1757)

18世紀イタリアの作曲家。アレッサンドロ・スカルラッティの息子。父と同様、オペラ作曲家であるが、チェンバロ、オルガンの卓越した奏者でもあり、主としてポルトガル、スペイン時代に書かれた500曲以上のチェンバロ・ソナタは「エッセルチツィ」(練習曲集)とよばれ、きわめて重要な歴史的意義をもっている。1685年10月26日ナポリに生まれ、1701年、父の指導下にあった同地の宮廷楽団のオルガン奏者兼作曲家となる。ベネチアでガスパリーニに師事したのち、09年にはポーランド王妃の、さらに14年にはポルトガル大使の、それぞれローマでの楽長となっている。14~19年には教皇庁ジュリア礼拝堂楽長も務めた。20年ポルトガルのリスボンに移り、公女マリア・バルバラの音楽教師となるが、公女のスペイン皇太子フェルディナンドとの結婚に伴い、セビーリャを経て、33年以降マドリードに移り、57年7月23日、同地で世を去った。

樋口隆一


スカルラッティ(Alessandro Gaspare Scarlatti)
すかるらってぃ
Alessandro Gaspare Scarlatti
(1660―1725)

イタリア、バロック期の作曲家。114曲のオペラと800曲を超えるカンタータを書き、ナポリ楽派の祖とされる。1660年5月2日パレルモに生まれ、12歳でローマに出て、クワンツの記述によるとカリッシミのもとで学び、元スウェーデン女王クリスティーナのローマにおける宮廷楽長となる。84年ナポリ宮廷の第一楽長、1707年ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会楽長となり、オットボーニ枢機卿(すうききょう)の楽長も務めるが、翌年ナポリの第一楽長に戻っている。しかし17年からふたたびローマ、22年からロレトで過ごしたのち、23年ナポリに戻り、25年10月22日、同地で世を去った。彼の弟子から、息子ドメニコをはじめ、ジェミニアーニ、J・A・ハッセなど、18世紀の音楽史を代表する人物が輩出した。

[樋口隆一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スカルラッティ」の意味・わかりやすい解説

スカルラッティ
Scarlatti, Pietro Alessandro Gaspare

[生]1660.5.2. パレルモ
[没]1725.10.24. ナポリ
イタリアの作曲家。オペラおよび室内カンタータの大家。 12歳の年,姉妹とともにローマにおもむいて音楽を修め,B.パスクィーニや A.コレリと交友を結んだ。最初のオペラ『生写しの人』 (1679) の成功で世に知られ,1684年ナポリの宮廷楽長,1707年ローマのサンタ・マリア・マジョーレ聖堂の楽長を歴任。 08年末から新しいナポリ副王に呼戻されて宮廷楽長をつとめた。 17~22年ローマに滞在,その間晩年の作品を上演した。レチタティーボとアリアを組にした場面の設定,ダ・カーポ・アリアの形式的な完成,イタリア序曲の創始など,18世紀イタリア・オペラの発展に彼が尽した功績は大きい。作品には 110曲以上のオペラ,約 660曲のカンタータのほかに,シンフォニア,室内楽曲,モテト,マドリガル,歌曲などがある。

スカルラッティ
Scarlatti, Giuseppe Domenico

[生]1685.10.26. ナポリ
[没]1757.7.23. マドリード
イタリアの作曲家,チェンバロ奏者。アレッサンドロの息子。父や F.ガスパリーニに師事。チェンバロ演奏にすぐれ,1709年にローマでヘンデルと演奏を競い合った。同年ローマでポーランド女王マリア・カシミラに仕え,15~19年サン・ピエトロ大聖堂のジューリア礼拝堂楽長。 21年リスボンにおもむいてポルトガル王に仕え,王女マリア・バルバラにチェンバロを教えたが,王女がスペイン王室に嫁すると,随伴してマドリードに移った。 550曲以上に及ぶチェンバロのための作品は,クラビア・ソナタの源として,鍵盤音楽史において大きな地位を占めている。そのほか,オペラ,コンチェルト,カンタータ,ミサ曲,スタバト・マーテル,サルベ・レジーナなどの作品がある。

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