日本大百科全書(ニッポニカ) 「スカルラッティ」の意味・わかりやすい解説
スカルラッティ(Domenico Scarlatti)
すかるらってぃ
Domenico Scarlatti
(1685―1757)
18世紀イタリアの作曲家。アレッサンドロ・スカルラッティの息子。父と同様、オペラ作曲家であるが、チェンバロ、オルガンの卓越した奏者でもあり、主としてポルトガル、スペイン時代に書かれた500曲以上のチェンバロ・ソナタは「エッセルチツィ」(練習曲集)とよばれ、きわめて重要な歴史的意義をもっている。1685年10月26日ナポリに生まれ、1701年、父の指導下にあった同地の宮廷楽団のオルガン奏者兼作曲家となる。ベネチアでガスパリーニに師事したのち、09年にはポーランド王妃の、さらに14年にはポルトガル大使の、それぞれローマでの楽長となっている。14~19年には教皇庁ジュリア礼拝堂楽長も務めた。20年ポルトガルのリスボンに移り、公女マリア・バルバラの音楽教師となるが、公女のスペイン皇太子フェルディナンドとの結婚に伴い、セビーリャを経て、33年以降マドリードに移り、57年7月23日、同地で世を去った。
[樋口隆一]
スカルラッティ(Alessandro Gaspare Scarlatti)
すかるらってぃ
Alessandro Gaspare Scarlatti
(1660―1725)
イタリア、バロック期の作曲家。114曲のオペラと800曲を超えるカンタータを書き、ナポリ楽派の祖とされる。1660年5月2日パレルモに生まれ、12歳でローマに出て、クワンツの記述によるとカリッシミのもとで学び、元スウェーデン女王クリスティーナのローマにおける宮廷楽長となる。84年ナポリ宮廷の第一楽長、1707年ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会楽長となり、オットボーニ枢機卿(すうききょう)の楽長も務めるが、翌年ナポリの第一楽長に戻っている。しかし17年からふたたびローマ、22年からロレトで過ごしたのち、23年ナポリに戻り、25年10月22日、同地で世を去った。彼の弟子から、息子ドメニコをはじめ、ジェミニアーニ、J・A・ハッセなど、18世紀の音楽史を代表する人物が輩出した。
[樋口隆一]