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スチュアート スチュアートStewart, Balfour

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スチュアート
Stewart, Balfour

[生]1828
[没]1887
イギリスの物理学者,気象学者。エディンバラ大学助手を経て,キュー天文台台長 (1859~71) 。一時気象台に勤務ののち,マンチェスターのオーウェンズ・カレッジ自然哲学教授 (70) 。ロイヤル・ソサエティ会員 (62) 。心霊研究協会を創設し会長 (85~87) 。マンチェスター文学・哲学協会会長 (87) 。偏光の放射法則 (60) ,太陽黒点の研究のほか,地磁気の変動が上層大気中の電荷の流れによるものであることを示唆し (60) ,のちの電離層研究の道を開いた。また分光分析の発展を基礎づけた熱放射の研究によりロイヤル・ソサエティのランフォード・メダル受賞。 P.テートとの共著『見えざる宇宙』 The Unseen Universe (75) がある。

スチュアート
Stewart, Charles

[生]1778.7.28. フィラデルフィア
[没]1869.11.6. ニュージャージー
アメリカの海軍軍人。 1798年海軍に入り,1800年カリブ海で対フランス作戦に従事。 12年アメリカ=イギリス戦争において,アメリカ海軍の新鋭フリゲート艦『コンスティチューション』号を指揮して勇名をはせ,15年イギリスの軍艦『ケイン』号,『レバン』号を奪取した。

スチュアート
Stewart, Dugald

[生]1753.11.22. エディンバラ
[没]1828.6.11. エディンバラ
イギリスの哲学者。スコットランド学派 (→常識哲学 ) に属する。 1772~85年エディンバラ大学教授,85~1820年同大学道徳哲学教授。最初,エディンバラ大学でファーガソンに学んだが,のちグラスゴー大学で T.リードに学び,彼の学説を奉じた。主著『人間精神の哲学』 Elements of the philosophy of the Human Mind (3巻,1792~1827) 。なお,W.Hamilton編の全集 (全 11巻,54~60) がある。

スチュアート
Stewart, Robert Michael Maitland

[生]1906.11.6. ケント,ブロムリー
[没]1990.3.10. ロンドン
イギリスの政治家,著述家。オックスフォード大学卒業。 1945年労働党下院議員。 47~51年陸軍次官,51年供給政務次官,64~70年教育・科学相,経済相,外相 (2期) を歴任した。主著『現代の政府』 Modern Forms of Government (1959) 。

スチュアート
Stuart, Charles Edward; the Young Pretender

[生]1720.12.31. ローマ
[没]1788.1.31. ローマ
イギリスの王位要求者。小王位僭称者,若王位要求者と通称される。国王ジェームズ2世の孫,大王位僭称者 J.F.E.スチュアートの子。ローマで育ったが,オーストリア継承戦争でイギリスがフランスと開戦したのを機に,1743年パリにおもむき,フランスの軍事援助を得て王位奪回のためイギリスに侵寇しようとしたが嵐のため果さず,以後 L.G.マレーと連絡を取って再度計画を練り,45年フランス軍とともにナントを出航。途中フランス艦隊はイギリス艦隊に撃退されたため,従者7人だけを伴ってスコットランドに上陸,「四十五年の反乱」を起し,一時はイギリス政府を狼狽させたが,カロデンの戦いに敗れたのち,5ヵ月逃げ回ってフランスに戻った。その後もスペインその他に援助依頼に回ったが実らず,48年アーヘンの和約の取決めでフランスからも追放され,フィレンツェ,ローマで後半生をおくった。

スチュアート
Stuart, Gilbert (Charles)

[生]1755.12.3. ノースキングストン
[没]1828.7.9. ボストン
アメリカの肖像画家。若年より S.キング,C.アレクサンダーに絵を学んだ。 1775年ロンドンに渡り,アメリカの画家 B.ウェストに師事。 82年同地にアトリエを開き成功。 93年ニューヨークに帰り,翌年からフィラデルフィアに住み,著名な人々を描いて当代の代表的肖像画家となった。彼は生涯に約 1000点の肖像を描いたと伝えられるが,最も有名なものはボストンにある G.ワシントン未完の肖像 (1796) である。

スチュアート
Stuart, James Denham

[生]1712.10.21. エディンバラ
[没]1780.11.20. エディンバラ
スコットランドの経済学者。エディンバラ大学で法律を学び,弁護士となる。 1735~40年ヨーロッパに遊学,帰国してジャコバイトの乱 (1745~46) に連座,パリなどで長い亡命生活をおくる。 63年帰国,71年には反逆の罪を許されたが,この間にイギリスで最初に「政治経済学」を書名に冠した主著『政治経済学原理の研究』 An Inquiry into the Principles of Political Economy (2巻,67) を執筆した。これは重商主義の最終的段階にあって重商主義的政策体系の総合化を試みたものであり,特にそれを有効需要の視点から体系化した点で重商主義的見地から一歩前進した理論として評価されている。

スチュアート
Stuart, James Ewell Brown

[生]1833.2.6. バージニア,パトリック
[没]1864.5.12. バージニア,イエロータバーン
アメリカ南北戦争期の軍人。 1861年北軍の軍職を辞して南部連合軍に入り,第1,2次ブルランの戦い,62年「七日会戦」,フレデリックスバーグ,チャンセラーズビル,ゲティスバーグの戦いなどを歴戦,陸軍少将に昇進。 64年5月 11日ペンシルバニアへの進入を指揮,戦闘中に重傷を負って翌日死亡。

スチュアート
Stuart, James Francis Edward; the Old Pretender

[生]1688.6.10. ロンドン
[没]1766.1.2. ローマ
イギリスの王位要求者。大王位僭称者,老王位要求者と通称される。ジェームズ2世と王妃メアリーの子で,誕生に関し偽王子との説が流れ,名誉革命の近因の一つになった。この革命でフランスに送られ,父母からカトリック教徒として育てられ,1701年父の死後ルイ 14世からイングランド王ジェームズ3世と宣言された。 08年王位要求の軍を起そうとフランスから出帆したが,上陸の機を失して不成功に終った。スペイン継承戦争ではフランス軍に従軍,オウデナルデの戦い,マルプラケの戦いに参加。「十五年の反乱」で王位奪回をはかったが失敗。 19年ポーランド王ヤン・ソビエツキーの孫娘マリア・クレメンティーナと結婚,翌年息子 (小王位僭称者) が生れたが,24年離婚。後半生はアビニョン,マドリードにも住んだが,大半はローマで過した。

スチュアート
Stuart, John McDouall

[生]1815
[没]1866
スコットランドの探検家。 C.スタートのオーストラリア探検 (1844~46) に製図者として参加。 1858~62年にはみずから前後6回の探検旅行を行い,60年には大陸中央部まで到達。 62年最後の探検ではこの大陸を初めて南から北へ縦断した。

スチュアート
Stewart, James

[生]1908.5.20. ペンシルバニア,インディアナ
[没]1997.7.2. カリフォルニア,ビバリーヒルズ
アメリカ合衆国の映画俳優。フルネーム James Maitland Stewart。愛称 Jimmy Stewart。内気だが正義感の強い人物の演技に定評があった。プリンストン大学で建築学を専攻し,卒業後マサチューセッツ州のファルマスで学生演劇集団「ユニバーシティ・プレーヤーズ」に加入。ブロードウェーの舞台を何度か踏んだのち,スペンサー・トレーシー主演の『舗道の殺人』The Murder Man(1935)で映画デビューを果たす。フランク・キャプラ監督の『スミス都へ行く』Mr. Smith Goes to Washington(1939)で初めてアカデミー賞にノミネートされ,その後のキャリアが決定づけられた。『フィラデルフィア物語』The Philadelphia Story(1940)でアカデミー賞主演男優賞を受賞。1941年陸軍航空隊に入隊,大佐にまで昇進したのち 1945年に除隊。ハリウッド復帰後第1作となったキャプラ監督の『素晴らしき哉,人生!』It's a Wonderful Life(1946)で,再びアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。アルフレッド・ヒッチコック監督作品にもたびたび出演し,『裏窓』Rear Window(1954)や『めまい』Vertigo(1958)などの傑作を生み出した。アンソニー・マン監督とは 8本の作品でコンビを組み,『グレン・ミラー物語』The Glenn Miller Story(1954)は代表作の一つとなった。1985年,アメリカ国民に与えられる最高の名誉である大統領自由勲章を授与された。

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百科事典マイペディアの解説

スチュアート

米国の肖像画家。ロード・アイランド州ノース・キングストン近郊生れ。1775年渡英し,ベンジャミン・ウェストに学んだが,ゲーンズバラやジョシュア・レーノルズの影響をより濃く受けた。

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世界大百科事典 第2版の解説

スチュアート【James Denham Steuart】

1712‐80
イギリスの経済学者。スコットランドの名門貴族の出で,エジンバラ大学法律学を学び,卒業後弁護士の資格を得たのちヨーロッパ大陸に遊学亡命中のスチュアート王家の嗣子チャールズ・エドワード・スチュアート(1720‐88)と知り合い,熱心な支持者となる。帰国後,チャールズが王家の復活を企てて起こしたジャコバイト反乱(1745)に荷担し,支援活動のために再び大陸に渡る。内乱失敗後大逆罪に問われ,1763年まで大陸で亡命生活を送る。

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大辞林 第三版の解説

スチュアート【James Denham Steuart】

1712~1780) イギリスの経済学者。ジャコバン派の反乱に荷担し大陸に亡命、帰国後「政治経済学原理」を著し、発生史的構成により重商主義経済理論の体系化を行う。

スチュアート【Rod Stewart】

1945~ ) イギリスのロック歌手。1964年にソロ-デビュー、66年ジェフ=ベック-グループへ参加。独特のハスキーな歌声で人気。

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世界大百科事典内のスチュアートの言及

【重商主義】より

…この意図は,D.ヒュームやJ.タッカーを経てA.スミスにつながる経済思想であった。
【主要な理論家・思想家】
 重商主義期の主要な理論家・思想家としては,以上に挙げた人たちのほかに,イギリスでは,労働価値説を萌芽的に説き古典派経済学の最初の人と評価されているW.ペティ,私的所有権の根拠を労働に求めその見地に立脚してT.ホッブズからの前進を示し同時に貨幣・利子論の分野でも貢献したJ.ロック,ロックの貨幣・利子論の系譜に属する自由貿易論者J.バンダーリント,重商主義的性格を残しながらも特異な思想家として主著《蜂の寓話》(1714)を著したB.deマンデビル,古典派経済学の生誕を用意した関係にあるR.カンティヨン,J.ハリス,スミスの師F.ハチソン,さらに有効需要重視の観点から経済学の体系化を試み《経済学原理》(1767)によって〈最後の重商主義者〉と呼ばれることになったJ.スチュアートなどを挙げることができる。 イギリス以外の後進資本主義国だったフランス,ドイツ,アメリカなどは,イギリスの世界市場支配とその産業革命の進展に影響されつつ,その特殊な後進的社会構造を資本主義化したために,重商主義の語をこれらの国における歴史的体制概念として使用することは困難である。…

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