翻訳|Slovakia
基本情報
正式名称=スロバキア共和国Slovenská Republiká/Slovak Republic
面積=4万9037km2
人口(2010)=543万人
首都=ブラティスラバBratislava(日本との時差=-8時間) 主要言語=スロバキア語(公用語),ハンガリー語
通貨=スロバキア・コルナSlovak Koruna(2009年1月よりユーロEuro)
東ヨーロッパの共和国。チェコと連邦を構成していたが,1993年1月,分離・独立した。スロバキア語ではスロンベスコSlovensko。面積4万9235km2,人口529万(1992)。うちスロバキア人が約451万9000で全体の約86%を占め,ハンガリーと接する南部に約57万人のハンガリー人が住むほか,チェコ人約5万9000,ウクライナ人約3万0500その他が住んでいる(1991)。公用語は西スラブ系のスロバキア語。ブラティスラバ(首都)地区と西スロバキア,中部スロバキア,東スロバキアの4行地区から成る。領土のほぼ北半分はタトリ山地,スロンベンスケー・ルドホリエSlvenské Rudohorie山塊を含むカルパチ山脈の北西部におおわれ,山地に源を発する水量豊かな河川の大半は南に流れ(モラバ川,バーフVáh川,フロンHron川,ニトラNitra川,イペルIpel川など),ドナウ川に注ぎ込む。それらの河川の下流域にはティサTisa平原などの肥沃な平原が広がり,ブラティスラバ,オストラバ,コシツェなどの重要な都市はいずれもドナウ水系に位置しており,ハンガリー,バルカン諸国との文化的・経済的結びつきの強さを示している。北部の山地では鉱工業,林業が,南部の平原ではテンサイ,ジャガイモ,小麦,トウモロコシなどが栽培され,ドナウ川の水運を利用する商品作物として重要な農産物供給地になっている。
この地域にスラブ人が移住してきたのが6世紀半ばで,9世紀はじめ以降,スロバキアは東モラビアとともに西スラブ族の建てた大モラビア大国の中核となったが,帝国が906年にハンガリー人の攻撃を受けて崩壊すると,1918年までハンガリー王国の支配下に入り,この地域の西スラブ族は,ボヘミアに拠って自立したチェコ人とは異なる歴史を歩み,スロバキア人として固有の民族性を形成した。その後1241-42年にはモンゴルの攻撃を受けたため,ハンガリー国王は全土を統合できなくなり,国土は大領主(マグナート)によって分割統治されることになった。スロバキアも,14世紀にアンジュー家のハンガリー王が中央集権制を導入するまで,チャーク家などのマグナートの支配を受けることになった。15世紀のボヘミアのフスの宗教改革に際しては,この地にもフスの教説が流布し,のちにはフス派軍の侵攻をみ,さらにはチェコ兄弟団の運動がこの地に広まるなど,ボヘミアとの結びつきを強めていった。
1514年ハンガリーで大農民反乱(ドージャの乱)が勃発すると,スロバキアの人口の大半を占める農民も騒乱に巻き込まれたが,まもなくハンガリー政府によって過酷に鎮圧され,彼らはハンガリー農民と同様,土地所有権を否認され,農奴として永久に土地に緊縛されることになった。この農民反乱はまた,1526年のオスマン・トルコ勢力のハンガリー遠征の契機をつくり,モハーチの敗北によってハンガリーの領土は,オスマン帝国直轄地域,トランシルバニア公国,ハンガリー王国の三つに分割され,そのうちスロバキアを含むハンガリー王国はオーストリアのハプスブルク家のもとに編入された。スロバキア人農民はトルコ人の手をのがれたハンガリー人貴族と土着のスロバキア人貴族との二重の搾取を受けた。こうしてスロバキアでは封建的諸関係が長く全土をおおったために,近代化が著しく遅れた反面,民族性が保持され,古い農村文化が守られることになり,やがて〈スラブのゆりかご〉としてスロバキアはスラブ学者の注目を集めることになった。
18世紀末から19世紀初めにかけて,啓蒙主義,ドイツ・ロマン主義の影響を受けてスロバキア民族覚醒運動がJ.コラール,ヨゼフ・シャファーリクなどの知識人を中心にしており,民謡・民話の収集をはじめ,スラブ人の過去の栄光をたたえる数々の著作が発表された。1844年には詩人で言語学者のシュトゥールが中部スロバキア方言を基にしてスロバキア文語をつくり,民族運動が促進されると,スロバキア語による定期刊行物出版の許可,教育機関におけるスロバキア語の使用許可をめぐってハンガリー政府との角逐がおこり,スロバキア人はしだいに政治的に目覚めていき,やがてハンガリー政府に対して自治要求を出すにいたった。48年革命のさなかにスロバキア人は独自の民族議会の開設をハンガリー政府に迫ったが,ハンガリーの中央集権化政策はこの種の民族運動を容認せず,一時期芽生えたチェコ人との連帯の動きも停止してしまった。67年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が形成され,ハンガリーがスラブ人を抑えて帝国第2位の地位につくと,ハンガリー化はいっそう強化され,大学におけるスロバキア語の授業,民族的文化団体などが相次いで廃止された。こうした中でスロバキア人には,ドイツ人と政治的対立を先鋭化させているチェコ人との連帯意識も生じ,1905年に成立したフリンカの率いるスロバキア人民党は,チェコ人指導者で哲学者のマサリクの思想に啓発されて,チェコ人との政治的連合を考えるにいたった。18年5月30日,マサリクはアメリカ在住のスロバキア人組織とピッツバーグで協定を結び,スロバキア人はチェコ人と共通国家を形成する用意のあること,スロバキア人は新国家内で自治を保証されることなどが約束された。
18年11月14日にチェコスロバキア共和国が成立したが,中央政府はその後スロバキアの自治を保証せず,スロバキア人は行政,経済,文化の面でチェコの侵害を著しく受けたと意識し,スロバキア国内の民族主義政党による反チェコ運動が起こった。なかでも最も激しく中央政府の政策を批判したのは,スロバキア人民党で,カトリック聖職者,地方のジョアジーや農民の間で多くの支持を集め,自治の希求を強めた。彼らの運動は,ハンガリーの領土回復主義者やドイツのナチスによって支持されたため,チェコスロバキアの存立の基盤を揺るがすものであった。中央政府はスロバキアの分離傾向に歯止めをかけるべくスロバキア人民党と幾度か交渉を重ねたが,いずれも失敗に終わった。38年9月のミュンヘン協定によってチェコがナチス・ドイツに併合され後,フリンカの後継者ティソJozef Tiso(1887-1947)は,ジリナŽilina協定(10月)でポドカルパッカー・ルス(ルテニア)とともにスロバキアの完全自治を宣言したが,オーストリアを併合したドイツはハンガリーの領土要求を受け入れた結果,11月のウィーン裁定でスロバキアは,ハンガリーにスロバキア南部の1万0423km2と住民約86万(約60%はハンガリー人)を譲った。同年11月23日にスロバキアはチェコと連邦制を成立させたが,翌39年3月14日,ヒトラーとの交渉により,チェコからの分離独立を宣言した。スロバキアは40年には日独伊三国同盟に,41年には防共協定に加盟し,枢軸国の仲間入りを果たしたものの,第2次世界大戦下の43年,地下の共産党,民主主義政党,亡命政府の間で成立した〈スロバキア国民評議会〉の指導でパルチザン活動が活発になり,45年ソ連軍によって解放された。スロバキアは戦後チェコスロバキア人民民主主義国として再出発した。
→チェコスロバキア
執筆者:稲野 強
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