タタール(英語表記)Tatar

精選版 日本国語大辞典 「タタール」の意味・読み・例文・類語

タタール

[1] 〘名〙 (Tãtar Tatar)
① 蒙古民族中の一部族韃靼(だったん)とも呼ばれ、蒙古族総称ともなる。
ロシア連邦内に居住するトルコ系諸種族の総称。主に回教・シャーマニズムを信奉する。蒙古系の韃靼とは別。
[2] (Tatar) ロシア連邦に属する自治共和国。ボルガ川の中流域及びその支流カマ川の下流域を占める。住民の大部分はトルコ系タタール人とロシア人。石油などの地下資源が豊富で、精油石油化学、林産加工などの工業がさかん。首都カザン。

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デジタル大辞泉 「タタール」の意味・読み・例文・類語

タタール(Tatar)


モンゴル系の一部族の名称。のち、モンゴル族の総称。韃靼だったん。→モンゴル
ロシア連邦内に居住するトルコ系諸種族の総称。タタール人。
タタールスタン

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百科事典マイペディア 「タタール」の意味・わかりやすい解説

タタール

歴史的には,ヨーロッパ,とくにロシアを脅かした内陸アジアの遊牧諸民族を指して,脅威と差別感をもって使われた呼称。13世紀にモンゴル軍とともに西進したキプチャク・ハーン国のトルコ系諸民族と,ブルガル人などの現地民が混血して残存した人びとをさすことが多い。シベリア・ハーン国のシベリア・タタールタタールスタン共和国で多数を占めるカザン・タタール(多くブルガル人との混血),クリム・ハーン国のクリミア・タタールなどがあり,広くは北カフカスに住み遊放民を含むアストラハン・タタール(別称ノガイ),アルタイ山脈の北部に住むアルタイ・タタール(アルタイ人)も含まれる。
→関連項目イワン[3世]クリミア半島シンフェロポリソビエト連邦タタール語韃靼バシコルトスタンボイスモンゴル[人]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タタール」の意味・わかりやすい解説

タタール
Tatar

(1) 8世紀初めにオルホン川流域に建てられた突厥碑文に初めてタタールの名がみえるが,8世紀中頃バイカル湖南東方面に居住しキルギス族を圧迫,オルホン川流域に進出した九姓タタールと,それ以東フルンブイル地方にわたって遊牧していた三十姓タタールとがあり,10世紀に両者は契丹の支配下に入った。金代にいたり後者に属していたモンゴル部が興起,1202年チンギス・ハンがタタール部族を討滅,モンゴル高原を統一すると,他部族もモンゴルを称したが,中国の宋人はなおモンゴルの遊牧諸族を韃靼と称した。 (2) 明代に滅ぼされて北走した元朝の子孫は,西方のモンゴル系の別部オイラート (瓦剌)を打ち破って,内モンゴルに覇権を確立した。明代の中国人はそれら元朝の子孫を韃靼と呼んだ。タタールは明初何度も明軍の攻撃を受け,オイラートにも圧迫され衰退したが,15世紀末ダヤン・ハン (達延汗)がタタールを統一,それを基盤に 16世紀中頃アルタン (俺答)は明に侵入して苦しめ,オイラートを外モンゴルから一掃,青海地方をも征服し,これらの地方へモンゴル族が移住,それが今日のモンゴル族の分布につながった。またチベットに遠征し,ラマ教のモンゴル族への流布の契機をつくったのも彼である。 (3) 13世紀にモンゴル族の侵入を受けたヨーロッパ人は彼らを悪魔 (タルタル) と称し,モンゴルとその支配下のチュルク系民族をタルタル,タタールと呼び,以来今日でも旧ソ連邦のヨーロッパ・ロシア,カフカス,シベリアのチュルク系住民はタタール人と総称されている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「タタール」の解説

タタール
Tatarlar[タタール],Tatary[ロシア]

ヴォルガ・ウラル地方のトルコ系ムスリム民族。タタールスタン共和国の主要な民族で,ロシア連邦内にも広く居住。歴史的にはカザン・ハン国の遺民で,1552年のイヴァン4世による征服以来ロシア化の抑圧を受けた。18世紀末からはロシア‐中央アジア間の通商をになって,経済・文化的な復興を実現。ロシアでは長く征服者モンゴル人の異名としても用いられた。

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世界大百科事典 第2版 「タタール」の意味・わかりやすい解説

タタール【Tatar】

モンゴル系の遊牧部族。その本拠地はモンゴル東部,セレンゲ,ケルレン川流域。その名は8世紀前半に建てられた突厥(とつくつ)碑文に初めて現れ,九姓タタール,三十姓タタール(トクズ・オグス)と称されている。また唐代の文献にもウイグルの支配下にあった韃靼(だつたん)の名が見えている。840年ウイグルが滅亡すると,モンゴリアには統一政権は生まれず,タタール部をはじめとする大小の遊牧集団が勢力争いを繰り返した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「タタール」の解説

タタール
Tatar

唐から明まで東モンゴルにいたモンゴル系の部族の呼称。中国では韃靼 (だつたん) と音訳
明代では北方に逃れた元朝の子孫をさす。ロシアやヨーロッパでは,モンゴル・ツングース・トルコ系遊牧民族など,北方民族の総称として用いられる。

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世界大百科事典内のタタールの言及

【ハンティ族】より

…人口2万2300(1989)。ハンティ族は,北群(オビ川流域の河口からシェルカリまで),南群(オビ川沿いにさらに南下してイルティシ川流域のトボリスクまで),東群(ハンティ・マンシースクからオビ川中流域沿いに支流のバスユガン川流域まで)に三分され,文化的にも北群はマンシ族に,南群はタタールに,東群はセリクープ族により近い。しかしアス・ヤフAs‐jax(ハンティ語で〈オビ川の民〉を意味する)に由来する旧称オスチャークがかつてはハンティ族だけでなく,マンシ族の一部やセリクープ族(旧称オスチャーク・サモエード),ケート族(旧称エニセイ・オスチャーク)をも包摂したように,そこには言語的差異を超越する文化的共通性(例えば,川筋に半定住する狩猟・漁労民)が反映されていると思われる。…

【モンゴル族】より

…契丹は6世紀後半に突厥(とつくつ)の支配をうけたもののだいたい独立を保ち,10世紀初めに契丹帝国を,また中国の華北に進出して遼を建国した。遼の滅亡後,モンゴリアには,モンゴル系の部族としてタタール,ケレイト,フンギラト,メルキト,ウリヤンハイ,オイラート,モンゴル等の名が見られる。このうちタタール(韃靼)の勢力が強かったことから,中国ではモンゴリアのことを韃靼(だつたん)と呼ぶようになった。…

※「タタール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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