トンブクトゥ(英語表記)Tombouctou

デジタル大辞泉 「トンブクトゥ」の意味・読み・例文・類語

トンブクトゥ(Tombouctou)

トンブクツ

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改訂新版 世界大百科事典 「トンブクトゥ」の意味・わかりやすい解説

トンブクトゥ
Tombouctou

西アフリカ内陸,現在のマリ共和国中部に14~16世紀を最盛期として栄えた交易都市。トンブクトゥは初め,サハラ砂漠ラクダ遊牧民トゥアレグ族の宿営地だったといわれる。ガーナ王国のあと,その東のニジェール川大湾曲部に栄えたマリ帝国の時代に,サハラを南北に越える交易路も東に移った。サハラ砂漠の南縁と,ニジェール川が最も北に張り出した部分の接点に位置するトンブクトゥは,北からのラクダの輸送の終点,南から舟で運ばれてくる商品の終結地として,交易上重要な位置を占めた。とくにサハラ砂漠の大塩床タガザからラクダのキャラバンで運ばれてくる岩塩は,トンブクトゥを経由してニジェール川を舟でさかのぼり,セネガル川上流の黒人の国で金と交換され,金はまたトンブクトゥを経由して,ラクダのキャラバンで大量に北アフリカへ運ばれていった。トンブクトゥを中心としたこの塩金交易は,マリ帝国の繁栄の基礎となった。

 黄金の帝国マリ,その象徴としての交易都市トンブクトゥのうわさは,伝説化して地中海世界に伝えられ,イスラムを経て間接にしか情報を得ることができなかったキリスト教世界の人々にとって,幻想にまで肥大していった。15世紀末から16世紀末まで,マリ帝国に代わってニジェール川大湾曲部を支配し,さらに版図を広げたソンガイ帝国の時代に,トンブクトゥの商業はいっそう盛んになった。北アフリカから多くのアラブ系商人が来住し,イスラムの学者・宗教指導者(ウラマー)も招かれて,いくつものモスクや大学や100を超すコーラン学校がつくられ,商業都市としてだけでなく,宗教・学芸都市としても,トンブクトゥは有名になった。おそらく14世紀初めに建てられ,その後たびたび改築されたジンガリベリ(大モスク)は,現在まで残っているこの町で最古のモスクである。その他,14~15世紀の建立以来何度かの改修や再建を経て現在見ることのできるものに,サンコーレ,シディ・ヤハヤなどのモスクがある。

 マリ帝国,ソンガイ帝国の時代を通じて,都市として長い生命を保ったトンブクトゥは,一度も政治上の王都となったことがない。イスラム教徒である商人に信任されたカディ(法官)が司法・行政権ももち,帝国の王から派遣された代官はいたが,町は大幅な自治を享受していた。

 16世紀末,サハラの塩床をめぐる紛争がもとでサード朝モロッコの攻撃を受けてソンガイ帝国が崩壊したのちは,トンブクトゥはかつての繁栄を取り戻すことはなかった。黄金幻想につき動かされて,何人ものヨーロッパ人探検家がこの町に到達しようとして命を落とした。1828年ようやくこの町に到達して生還した初めてのヨーロッパ人となったフランスのカイエが見たのは,すでに荒廃した泥の町にすぎなかった。

 現在はマリ共和国の一地方行政都市(人口約1万)であり,外国人観光客も多い。サハラの塩床タウデニから,岩塩をラクダのキャラバンで運んできて,南のサバンナ地帯の社会に売るムーア(モール)人のほか,フルベ,トゥアレグ,ソンガイ,ベラなどの諸族が,牧畜,農業,商業,工芸製作などを行っている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トンブクトゥ」の意味・わかりやすい解説

トンブクトゥ
とんぶくとぅ
Tombouctou

西アフリカ、マリ中部にある古都。英語ではティンブクトゥTimbuktuという。ニジェール川中流の湾曲部北岸に位置する。人口3万4600(2002推計)。スーダン地方の代表的歴史都市で「神秘の都」と称せられた。この都市は1988年に世界遺産文化遺産(世界文化遺産)として登録された。1990年に危機遺産リスト入りしたが、改善措置がとられたため2005年にリストから削除。しかし武装勢力による破壊などを受け、2012年にふたたび危険遺産リスト入りしている。市街はニジェール川から数キロメートル北のサハラ砂漠にあり、ニジェール川とは水路で結ばれている。12世紀まで遊牧民の泊地であったが、その後サハラ隊商路とスーダン地方との接点として発展し、サハラの塩と南の地方の金、象牙(ぞうげ)、コーラ、奴隷との交易が行われた。14世紀にはモスクが建設され、多くの巡礼者が訪れるようになり、マリ帝国マンサ・ムーサ王の時代に大発展を遂げた。北アフリカ諸国やエジプトなどと隊商路で結ばれ、コーランを教える大学も設置され、文化の中心地でもあった。1468年ソンガイ帝国の支配下に入り、最盛期の16世紀前半には、4万5000の人口をもつ西アフリカ最大のイスラム都市であった。当時この町を訪れたレオ・アフリカヌスは「ここには、多くの裁判官、学者、聖職者がいる。北アフリカ諸国からの書籍(手稿本)の需要が多く、他の商取引より大きい」と述べている。1590年、塩山をめぐる紛争から、サード朝モロッコが軍を送って占領し、ここをモロッコ太守領の首都とした。このころから隊商路の拠点が東のガオに移り衰微した。ヨーロッパには長く「幻の都市」として知られ、1828年フランス人ルネ・カイエRené Caillié(1799―1838)が苦労のすえ到達した。19世紀末にはフランス領となった。現在は単なる地方都市で、古いモスクが過去の栄華をしのばせている。皮革、建具などの手工業がある。空港、河港があるが観光客は空路で訪れる。

[藤井宏志]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トンブクトゥ」の意味・わかりやすい解説

トンブクトゥ
Tombouctou; Timbuktu

トンブクツー,チンブクツーともいう。マリ中部のオアシス都市。トンブクトゥ県の県都。バマコ北東約 700km,ニジェール川北方約 13kmのサハラ砂漠南縁に位置。月平均気温 22~36℃。年降水量 211mm。雨季 (6~9月) 以外はほとんど降水をみない。サハラ砂漠縦断路の中継地にあり,古くからサハラ遊牧民とスーダン地方西部の諸民族との交易地で,12世紀にはマグレブで産する工芸品と西スーダン,ギニア湾沿岸地方で産する金,コーラナッツ,奴隷などを交易する隊商の基地として繁栄。 1310年マリ帝国の王がモスクを建て,イスラム文化,教育の中心地となり,「黄金の都」と呼ばれた。ソンガイ王国のアスキア・ムハンマド (在位 1493~1528) の時代に最盛期を迎え,コーラン学校 180,人口 100万といわれたが,ヨーロッパ人による大西洋岸航路の開発と,1591年からのモロッコ軍の占領により次第に衰退。 1827~28年にフランスのルネ・カイエが探検したときの記録によれば,想像よりはるかに小さい町になっていたという。岩塩,米,雑穀,家畜などの集散地。織物,皮革加工が行われる。南 9kmのニジェール川沿岸に河港カバラがあり,上流のバマコ,下流のガオと船便で結ばれている。近年はサハラ砂漠の南下による乾燥化が進んでいる。 1988年世界遺産の文化遺産に登録。人口3万 1925 (1987推計) 。

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世界遺産詳解 「トンブクトゥ」の解説

トンブクトゥ

1988年に登録された世界遺産(文化遺産)。1990年に危機遺産リストに登録されたが、その後、改善措置がとられたため2005年に削除された。しかし2012年にふたたび危険遺産リストに登録された。西アフリカのマリ共和国中部のニジェール川沿いにある。もともとは砂漠の遊牧民として知られるトゥアレグ族が特定の季節に利用する宿営地だったが、アフリカ内陸の黒人と北アフリカからやってくるベルベル人やムスリム商人が出会うサハラ交易の拠点となり、サハラ砂漠で採れる岩塩とセネガル川上流の金の交易などで発展し、「黄金の都」と呼ばれた。15世紀中頃にはイスラム文化が花開き、100以上のコーラン学校やモスクなどのイスラム施設が建設され、当時の建築物の多くが今日まで残されている。このような重要な交易地としての文化が評価され、世界遺産に登録された。しかし、大干ばつ被害などにより、砂漠化が進行し、1990年に危機遺産リストに登録された。その後、改善措置がとられたため2005年に削除された。ところが2012年1月、トゥアレグ族がさらにマリ共和国からの独立を求め、アザワド解放民族運動とイスラム過激派組織アンサル・ディーンがマリ北部を制圧するマリ北部紛争が勃発。トゥアレグ族がアザワド国の独立を宣言し、5月にはアンサル・ディーンがトンブクトゥに侵入し、世界遺産に登録されている3つの墳墓を破壊。マリ政府が危険遺産リスト入りを要請し、これが承認された。◇英名はTimbuktu

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百科事典マイペディア 「トンブクトゥ」の意味・わかりやすい解説

トンブクトゥ

マリ中央部,ニジェール川左岸の都市。トゥアレグ人の宿営地に由来。サハラ砂漠から地中海への交通の要地で,とくにマリ帝国ソンガイ帝国治下の14―16世紀には金や塩,奴隷の集散地として繁栄。ヨーロッパではその栄華が伝説となった。また,北アフリカから多くのイスラム学者が招かれてスーダン地方西部のイスラム文化の中心ともなった。その都市遺跡は1988年世界文化遺産に登録。現在は付近の農産物の集散地である。約3万人。
→関連項目ニジェール[川]ミスラタ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「トンブクトゥ」の解説

トンブクトゥ
Tombouctou

西アフリカ,現マリ共和国内,ニジェール川が湾曲する部分の北側,サハラ砂漠の南縁に位置する町。マリ帝国からソンガイ帝国にかけての時代,北からの岩塩,南からの金,奴隷などの交易地として栄え,イスラームの大学まであった。西アフリカ文明の象徴としてヨーロッパにも知られた。19世紀に探検家ルネ・カイエはヨーロッパ人として初めてこの町を訪れて生還し,その記録を発表した。すでに町は荒廃していて,かつての面影はなかった。

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知恵蔵mini 「トンブクトゥ」の解説

トンブクトゥ

西アフリカ・マリ共和国中部のニジェール川沿いにある都市。英名はティンブクトゥ。砂漠の遊牧民トゥアレグ族によって築かれ、12世紀頃から岩塩や金の交易の要衝として発展し、「黄金の都」とも呼ばれた。15世紀中頃にはモスクや学校が多数建設され、イスラム文化の拠点としても栄えた。歴史的価値の高い建造物を今に伝える都市遺跡として、1988年にユネスコの世界文化遺産に登録された。しかし、90~2005年には砂漠化による侵食と埋没、12年からは同都市を実効支配したイスラム過激派による破壊を理由に、ユネスコ世界遺産委員会が危機遺産に指定している。13年に仏軍とマリ政府軍が同都市を奪還したことにより、今後、治安の回復を待って文化財の調査が行われる予定。

(2013-1-31)

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旺文社世界史事典 三訂版 「トンブクトゥ」の解説

トンブクトゥ
Tombouctou

ニジェール川中流に位置する交易都市
サハラ砂漠の南縁にあたり,北からのラクダ輸送と南のニジェール川からの舟の輸送の結節点として繁栄。マリ王国の時代にはサハラのテガザでとれる岩塩をセネガル川上流でとれる金と交換するサハラ縦断交易の拠点となり,ソンガイ王国時代には多くのモスクや大学も建設されて宗教・学芸の中心ともなったが,ソンガイ王国滅亡後は衰退した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のトンブクトゥの言及

【アフリカ】より

…その後マリという名で総称される,おそらくいくつかの王朝の接合された帝国が発達した。マリ帝国は,金の主産地であるセネガル川上流とギニア山地から現在のニジェール川大湾曲部をおもな版図とし,サハラを越えての交易路はガーナ時代より東へ移り,サハラ南縁の中継地として,トンブクトゥが栄えた。 トンブクトゥにはイスラムのウラマー(学者)も多数来住し,交易都市としてだけでなく宗教・学芸都市としても広く名を知られるようになった。…

【カイエ】より

…フランスの探検家。ヨーロッパ人として初めて,アフリカ内陸の幻の都トンブクトゥに到達して生還した。貧しいパン屋の息子として生まれ,早く母を失い,アルコール中毒の上に盗みぐせのあった父も獄死して,11歳のとき孤児となった。…

【ニジェール[川]】より

…現在も沿岸にマリの首都バマコやニジェールの首都ニアメーをはじめ,代表的都市が立地する。中流・上流地方には10世紀ころからガーナ王国,マリ帝国,ソンガイ帝国などが興隆し,ジェンネ,ガオ,トンブクトゥなどの交易都市が栄えた。また下流のニジェール・デルタでは17~18世紀にベニン王国が栄えるなど,ニジェール川は西アフリカの歴史と深く結びついていた。…

【マリ】より

…ニジェール川上では,ボゾ族Bozoが船上生活を送り,漁労を行っている。ニジェール川の大湾曲部には,ジェンネ,モプティなどの町が繁栄したが,なかでもトンブクトゥはマリ帝国の時代に商業的繁栄とともにイスラムの学問の都市として名声が鳴りひびいた。トンブクトゥからガオにかけての地域には,ソンガイ族が住んでいる。…

【マリ帝国】より

…その名を継いで1960年に独立したマリMali共和国の地域をおもな版図に,14世紀を最盛期として栄えた。イスラム化された北アフリカのかなたにある黒人アフリカの〈黄金の都〉として,ヨーロッパ世界の幻想をかきたてたトンブクトゥは,マリの栄華を象徴した。しかし,この商都が帝国の首都ではなく,マリの君主の都がどこにあったのかさえ不明なことからもわかるように,帝国といっても,統一国家としての組織化は弱く,いくつかの地方に盛衰した王朝の,交易路と交易拠点を覆う〈勢力圏〉とみるべきである。…

※「トンブクトゥ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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