オーストリアの作曲家。古典派の作曲家たちのなかで最年長であり、77歳の長寿を全うしたハイドンは、近代的な弦楽四重奏曲の案出、交響曲の完成、交響的なミサ曲の確立など、古典派音楽の基盤を築くとともに、当時のあらゆる楽種に数多くの名作を残した。同時に、ハイドンは当時最大の人気作曲家であり、その真価は20世紀後半に至って初めて再認識されつつある。
[中野博詞]
ハイドンの一生は、18世紀後半の音楽家たちがたどる典型的な歩みでもある。車大工を父に、貴族の侍女を母に、1732年3月31日オーストリアの小村ローラウに生まれたハイドンは、音楽に関しては無から出発する。ハインブルクとウィーンの教会の少年合唱隊員となり、一般教養と音楽の基礎を身につける。17歳のころに合唱隊を離れ、ウィーンで音楽家としての自活が始まる。作曲はほとんど独学。音楽の個人教師、そして仲間たちとの楽団による門付(かどづけ)で生計をたてる。
当時のドイツ、オーストリアにおける音楽家の最高の就職は、王侯貴族のお抱え楽師になることであった。ウィーン社交界の花形トゥーン伯爵夫人の音楽教師を皮切りに、25歳のころにはフュールンベルク男爵のワインツィールの居城に招かれ、最初の弦楽四重奏曲群を、27歳のころにはボヘミアのモルツィン伯爵家の楽長となって最初期の一連の交響曲を作曲する。
そして、ハイドンの音楽活動を決定づけたのは、29歳の年のハンガリーの大貴族エステルハージ侯爵家副楽長への就任である。エステルハージ家の4代の君主に、5年間の中断があるとはいえ、72歳まで実に38年間にわたって仕える結果となった。最初の5年間の副楽長時代は、アイゼンシュタットの居城で世俗音楽を担当し、交響曲に関してはバロックから前古典派に至るあらゆる様式を試みながら、交響曲独自の様式を模索する。34歳から58歳に至る楽長時代は、ハイドンともっとも息のあった君主ニコラウス侯の統治下であり、最新の設備を誇るオペラ劇場と人形芝居劇場を備えたエステルハーザ宮殿が、音楽活動の中心の場となる。従来の器楽を中心とした世俗音楽に加えて、教会音楽とオペラの作曲指揮がハイドンに課せられる。とくに、エステルハーザ宮殿のオペラ公演は充実を極め、女帝マリア・テレジアも絶賛を惜しまなかった。また、50歳代に入るとハイドンの名声はヨーロッパ全土に広まり、フランス、スペイン、イタリアからも作曲を注文される。
ハイドンが仕えた3人目の君主アントン侯は音楽に関心がなく、ハイドンに名誉楽長の称号を与え、自由な活動を許す。その結果、58歳から63歳にかけて、ロンドンの演奏会主催者ザロモンの招きで2回にわたってイギリスに渡り、ザロモンが主催する演奏会のために12曲の「ザロモン交響曲集」を作曲指揮する。イギリス国王がハイドンにイギリス永住を勧めたほど、ロンドンにおけるハイドンの人気は圧倒的であった。
4人目の君主ニコラウス2世侯の希望によって、オーストリアに帰国したハイドンは、エステルハージ家のために六曲のミサ曲を作曲するとともに、ハイドン音楽の総決算ともいうべき二大オラトリオ『天地創造』と『四季』を発表し、大作曲家の名声を高める。
71歳の年に最後の弦楽四重奏曲を未完で筆を置き、ヨーロッパ各地から贈られた栄誉に包まれながら、1809年5月31日、77年間にわたる音楽的生涯をウィーンで閉じた。
[中野博詞]
ハイドンは、つねに新たな音楽の可能性を追求し続けたきわめて創造的な作曲家であった。しかし、自己の創作意欲が赴くままに、自由に創作したわけではない。当時の作曲活動が一般に注文に応じて行われたように、ハイドンは多くの場合、演奏家の技量や注文主の音楽趣味はもちろん、演奏される場や音楽の時流に至るまで、さまざまな条件を考慮しながら作曲活動を展開していったのである。その意味では、与えられた条件のなかで、つねに新たな独自の音楽を生み出していったところにこそ、ハイドンの偉大さがあるといえよう。したがって、五十数年間にわたって作曲されたハイドンの莫大(ばくだい)な数に上る作品には、多彩な様式変遷がみられる。それは、第一期・模索(1765年以前)、第二期・シュトゥルム・ウント・ドラング(1766~73年)、第三期・聴衆への迎合と実験(1774~80年)、第四期・古典的完成(1781~90年)、第五期・円熟(1791~95年)、第六期・晩年(1796年以降)の六期であり、こうしたハイドンにおける様式変遷は、そのまま古典派の音楽様式の流れと一致する。
なお今日、ハイドンの作品は、20世紀後半にハイドンの全作品の目録を初めて完成したホーボーケンが付した番号、いわゆるホーボーケン番号でよばれる。
[中野博詞]
『大宮真琴著『ハイドン』新版(1981・音楽之友社)』▽『M・ヴィニャル著、岩見至訳『ハイドン』(1971・音楽之友社)』▽『A・C・ディース著、武川寛海訳『ハイドン――伝記的報告』(1978・音楽之友社)』
オーストリアの作曲家。ヨーゼフ・ハイドンの弟。兄と同様ウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年合唱隊の出身。作曲は独学。ザルツブルクで、宮廷オーケストラのコンサートマスターとして、さらに大聖堂のオルガン奏者として活躍。モーツァルトとも関係が深い。作曲に関しては、ミサ曲をはじめとする教会音楽の分野で本領を発揮したが、交響曲やオペラにも作品を残している。
[中野博詞]
オーストリアの作曲家。18世紀中葉から19世紀初めにかけて,音楽様式そのもの,あるいは社会における音楽のあり方が大きく変わる時代に生き,新しいいわゆる〈古典派〉様式の成立に最も重要な貢献をなし(古典派音楽),数多い傑作を残した。彼は存命中から声望高く,また彼の音楽が当時の音楽様式を代表するような模範的存在であったこともあって,彼の名をかたった偽作はことのほか多い。そのため作品の整理と作品全集の出版は困難をきわめ,1958年以来20世紀末の完結を目ざしてケルンのハイドン研究所が《ハイドン全集》の刊行に取り組んでいる。西洋音楽史における大きな峰であるこの大家は,生誕250年を過ぎてようやくその全貌を現しつつある。
ハイドンはウィーンから南東へ約50kmにあるローラウという町に生まれた。おそらく1740年にウィーンに出てきて,約20年間そこで暮らす。そのうち最初の約10年間はシュテファン聖堂で少年合唱団員として過ごし,変声期を迎えてそこを追い出されたあとの約10年は,主として定職のない音楽家としての,いわば放浪生活であった。すなわち,彼の音楽家としての出発点は,ウィーンの宮廷楽長として大きな影響力のあったJ.J.フックス(1741没)亡きあと,終わりつつあるウィーンにおける後期バロックと,ウィーンに住む若手作曲家の周辺で始まりつつあった初期古典派音楽とにあった,といえよう。
1750年代の終りころ,ボヘミアのモルツィン伯爵家の楽長として雇われたが,まもなく楽団解散のため失職。61年よりアイゼンシュタットのエステルハージ侯爵家に副楽長として就職し,66年に前任者の死によって楽長に昇格。1762年に新しく当主となったニコラウス侯が90年に死んで楽団が解散されるまで,侯爵家の音楽生活の責任者としての務めを果たす。1750年代末から書き始めた交響曲を,とくにエステルハージ時代にほとんど休みなく量産し,このジャンルがのちに西洋音楽の最も代表的な曲種となる素地をつくった。ハイドンは一般に〈交響曲の父〉などといわれているが,このジャンルの成立は,もとより一人の作曲家に帰せられるものではないし,また当時おそらく1万曲にも及ぶ交響曲創作が行われた。とはいえ,産声をあげたばかりのこのジャンルの育成に彼が大きく貢献したのは事実である。
1750年代後半に10曲の作品を書いていた弦楽四重奏曲の分野では,1769年ころから72年に集中的に18曲(いわゆる作品9,17,20の3曲集)を作曲,81年以後再びときどき創作に向かっている。また1765年ころ以後,ニコラウス侯の好んだ弦楽器バリトンのために,侯のその楽器に対する情熱がさめる73年ころまで,150曲を軽く超える作品を書いた。1766年以後,楽長昇進によって教会音楽の作曲もハイドンの職務となり,また同じ年に離宮エステルハーザにオペラ劇場が完成したことによってオペラの創作も増えてくる。また人形劇場の完成に伴い,70年代にはマリオネット・オペラも作曲されるようになったが,それは一時的なものに終わり,また現存している作品はきわめて少ない。
76年からエステルハージ侯爵家ではオペラ活動がいっそうの華やかさを増し,音楽生活の中心となっていく。それに伴い楽員たちが増強される一方,ハイドン自身にとっても他人のオペラの上演者としての仕事が増していく。こうした侯爵家における趣味の変質とともに,80年代に入って彼はむしろ邸外のために音楽を供給するようになる。そうしてパリからの注文に応えて書いた6曲のいわゆる《パリ交響曲集》や,スペインから依頼のあった管弦楽曲《十字架上のキリストの最後の七言》や,出版を目的としたと思われる弦楽四重奏曲集などが生まれる。侯爵の死によって永年の宮廷仕えから解放されたハイドンは,興行主ザロモンの招請に応えて,90年12月にロンドンへ向けて出発する。以後95年まで,2度にわたる計約3年のロンドン滞在で,一挙に広範な公衆の前に登場した。ここに,伯爵家の小さな楽団と,限られた特定の聴衆のために奉仕していた前半生からの,劇的な転換があった。それは同時に,大きな影響力をもつ印刷楽譜の出版に1780年以後積極的にかかわることができるようになったこととも重なり合って,彼を貴族社会の音楽家から,近代市民社会のそれへと変貌させることにもつながった。ロンドンで演奏するために書いた12曲の交響曲集《ザロモン・セット》はこのジャンルにおける彼の全創作(106曲)をしめくくる総決算となった。
95年8月末以後彼は,楽団を再建したエステルハージ侯爵(ニコラウス侯の孫)に再び楽長として仕えたが,このニコラウス2世はウィーンの邸宅に住むのを好んだので,彼は音楽需要の高いウィーンを離れることなくすんだ。こうして,この宗教音楽好きの新しい侯爵の要求に応じて,彼の晩年を飾る6曲のミサ曲が生み出される一方,相変わらず弦楽四重奏曲など,出版を目的とした器楽曲が書かれ続けた。この時期にはまた,彼が到達した芸術性と彼の芸術が獲得した民衆性をみごとに結合させたものとして,二つのオラトリオ,《天地創造》(1798)と《四季》(1801)が書かれた。1803年以後創作活動から引退した。
執筆者:大崎 滋生
オーストリアの作曲家。F.J.ハイドンの弟。1745年ころ,兄を追ってウィーンに出てシュテファン聖堂の聖歌隊員となる。57年にはグロースワルダイン(現,ルーマニアのオラデヤ)の司教宮廷楽団楽長となった。63年ザルツブルクの大司教宮廷楽団のコンサート・マスターに任命され,以後同地で生涯を送った。モーツァルト父子と同僚であり,個人的にも親しく交流した。宗教的ジングシュピール《第一戒律の責務》は,W.A.モーツァルトとM.ハイドンとアドルガッサーA.C.Adlgasserの合作である。77年ザルツブルクの三位一体教会オルガン奏者を兼務,そしてW.A.モーツァルトがウィーンに去った後,ザルツブルク大聖堂オルガン奏者の地位を彼から引き継いで兼務するようになる。作曲家としては教会音楽の作曲に傑出していたといわれる。とりわけ1771年に大司教の死に際して書かれた《ハ短調レクイエム》は有名で,兄の葬儀の際にも演奏された。なおこの作品は20年後のモーツァルトの《レクイエム》と多くの著しい類似を示している。ほかに大司教が宮廷で使用するための交響曲,ディベルティメント,その他の室内楽,またアマチュアのために書いたたくさんの男声4声のための重唱曲なども残っている。兄の作品と混同されるものも多かったが,それらは一応今日では整理されている。
執筆者:大崎 滋生
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1732~1809
ドイツの音楽家。交響曲の父と呼ばれ,端正な古典的シンフォニーを創造するとともに,主題の明確なソナタ形式を完成した。弦楽四重奏曲やオラトリオでも有名。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…交響曲という不可侵の威厳が確立されていたわけでもなかった。交響曲は特定の聴衆の趣味や,演奏の目的・機会等のもろもろの現実的制約に従って構想された(例えばハイドンはエステルハージ侯家宮廷楽団のそのときどきの楽員構成に応じて作曲しなければならなかった)。同一作品ないし楽章が,別の機会のために換骨奪胎されて他の作品に転用されたり,セレナーデなど他のジャンルからの寄集めにすぎないものもあった。…
…狭義には1770‐1830年のハイドン,モーツァルト,ベートーベンを中心とする約60年間のウィーン古典派音楽をさす。このうちベートーベンは古典派音楽を完成しつつ次に来るロマン主義への志向を示している。…
… イタリアのベネト地方の田園生活の四季を歌いあげたソネットが付随する。(2)ハイドンの晩年のオラトリオ《四季Die Jahreszeiten》(1801) 台詞はスコットランドの詩人J.トムソンの原作をG.B.vanスウィーテン男爵がドイツ語に編作したもの。小作人シモン,娘ハンネ,若い農夫ルーカスを主人公に,合唱,管弦楽を駆使して,季節によって推移する田園の牧歌的情景と大地に根ざした生活の営みを歌い上げる。…
…小人数の奏者から成る演奏団体。〈管弦〉と訳されるが,実体は弦楽器のみの編成,弦楽器にチェンバロを加えた程度の編成の団体も多い。人数は一定しないが,弦楽器のみの場合の十数名から,管楽器を含む場合でも二十数名程度の団体が一般的である。バロック時代から,古典派初期までは,ほとんどこの程度の編成の団体がオーケストラと呼ばれていた。19世紀に入ってオーケストラはしだいに大型化し,19世紀末には巨大なものとなったが,20世紀に入ってから一種の反動として室内管弦楽団が復活した。…
…盛期古典派では,交響曲と同様,舞曲楽章としてメヌエットが,さらにベートーベンではスケルツォが組み入れられ,4楽章のソナタも出現した。 作曲家としては,前古典派ではさまざまな楽派が独自の様式を形成していったが,とくにイタリアのG.B.サンマルティーニ,D.アルベルティ,L.ボッケリーニ,スペインで活躍し550を超える鍵盤ソナタを残したD.スカルラッティ,スペインのA.ソレル,ウィーンのG.C.ワーゲンザイル,マンハイムのJ.シュターミツ,北ドイツの多感様式の代表者フリーデマン・バッハ,ハイドンに影響を与えたエマヌエル・バッハ,J.G.ミュテル,パリのJ.ショーベルト,ロンドンで活躍し若いモーツァルトに影響を与えたJ.C.バッハ,そしてベートーベンに影響を与えたM.クレメンティらの名はよく知られている。盛期古典派では,クラビーア・ソナタの傑作群がハイドン(五十数曲),モーツァルト(25曲),ベートーベン(32曲)の3巨匠によって生み出された。…
…83年ザルツブルク帰郷を挟み,84年暮れにはフリーメーソン結社に加わる。このころハイドンにささげられた6曲の《ハイドン四重奏曲》やピアノ協奏曲などの力作,傑作が多数生み出されている。ニ短調の《ピアノ協奏曲》(第20番。…
…こののちロマン派の作曲家には,シューマン,リスト,ワーグナーをはじめとして,著述活動に携わる者が多く出た。ホフマンはハイドン,モーツァルト,ベートーベンの音楽に純粋なロマン主義の表れを認めた。とくにベートーベン(第3,第5,第6,第7,第9交響曲)はロマン派全体にとって偉大な模範となり,ロマン主義の理想像ともされたのであった。…
…モーツァルトの《ピアノ・ソナタ》(K.331)の第3楽章のトルコ行進曲は最も有名であるが,そのほかモーツァルトの《バイオリン協奏曲第5番》(K.219)もフィナーレにこの語法を取り入れている。また,M.ハイドンも付随音楽《ピエタス》(1767)にトルコ行進曲を含み,《ザイール》(1777)にもトルコ組曲が含まれている。ベートーベンにも《トルコ行進曲》と通称されるピアノのための《六つの変奏曲》作品76(1809)があり,その主題は,祝典劇《アテネの廃墟》作品113(1811)のトルコ行進曲にも用いられている。…
※「ハイドン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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