ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フリードリヒ3世」の意味・わかりやすい解説
フリードリヒ3世
フリードリヒさんせい
Friedrich III
[没]1493.8.19. リンツ
神聖ローマ皇帝 (在位 1440~93) 。ハプスブルク家の出身。シュタイエルマルク公としてはフリードリヒ5世。ドイツの分裂と混乱のさなかに即位し,ドイツの国政改革を企てたが失敗。国内には反対派も多く,弟のアルブレヒト6世との間にも広大なオーストリアの領地をめぐって争いを続けた。その頃オスマン帝国がオーストリアを脅かしはじめたが,国内掌握力の乏しいフリードリヒはこれに対抗する力がなかった。さらにハンガリー王で甥のラースロー5世が死ぬと,ハンガリーとボヘミアはハプスブルク家の支配を離脱した。 1485年マーチャーシュ1世コルウィヌスの反乱にあい,フリードリヒはウィーンから追放され,オーストリア,シュタイエルマルク,ケルテルンの大部分をハンガリー王国に併合された。彼の唯一の成功は,ブルゴーニュ公シャルル (豪胆公) の一人娘を息子マクシミリアン (のちの皇帝マクシミリアン1世 ) の妃に迎えたことで,この結果やがてハプスブルク家はブルゴーニュ東部 (フランシュコンテ) とその属領ネーデルラントを併合し,将来の発展が可能となった。
フリードリヒ3世[ドイツ皇帝]
フリードリヒさんせい[ドイツこうてい]
Friedrich III
[没]1888.6.15. ポツダム
プロシア王,ドイツ皇帝 (在位 1888) 。ウィルヘルム1世の子として,プロシア皇太子では初めての大学教育を受けた。 1858年イギリスのビクトリア女王の長女ビクトリアと結婚以来明確な自由主義的傾向を示し,プロシア=オーストリア戦争,普仏戦争などで軍を指揮したが心身ともに弱く,むしろ学芸に親しんだ。 62年父王が議会と衝突して辞意を決したときも,彼は王位を受けず,この危機にビスマルクが首相に任命された。しかしビスマルクの憲法闘争の時期には,しばしば反対意見を表明した。父の死により 88年3月9日,自由主義者や大衆の期待のなかで即位したが,喉頭癌を病んでおり在位 99日で死去。
フリードリヒ3世(美王)
フリードリヒさんせい[びおう]
Friedrich III, der Schöne
[没]1330.1.13. グーテンシュタイン
ドイツの対立王 (在位 1314~30) 。アルブレヒト1世の次男。 1308年以降オーストリア公。 14年 10月 19日,4名の選帝侯によってドイツ王に選ばれたが,翌日5名の選帝侯がバイエルン公ルートウィヒ (のちの皇帝ルートウィヒ4世 ) を選んだため8年に及ぶ内戦となり,22年敗れて捕虜となった。ローマ教皇に破門されたルートウィヒは 25年フリードリヒを共同統治者とし,教皇によるフリードリヒのドイツ王承認を条件に 26年に退位することを提案したが,教皇,選帝諸侯,フリードリヒの弟レオポルト1世ら全当事者がこの案を受入れなかったため,フリードリヒは同年オーストリアへ引退した。
フリードリヒ3世[ファルツ伯]
フリードリヒさんせい[ファルツはく]
Friedrich III, Pfalzgraf
[没]1576.10.26. ハイデルベルク
ファルツ伯兼選帝侯 (在位 1559~76) 。最初カトリックの教育を受けたが,ルター派の妻を迎え,彼自身は 1546年カルバン主義に改宗。 59年ファルツ伯の地位を継ぐと,61年以降組織的にカルバン主義を領内に広めた。しかし長男ルートウィヒを頭目とする領内ルター派貴族の抵抗もあり,55年のアウクスブルクの和議ではカトリックとルター派のみが認められたので,カルバン派としての彼の地位は不安定であった。プロテスタント諸侯を糾合してハプスブルク家に対抗しようと企てたが成功しなかった。フランスの宗教戦争に際しては,ユグノーの求めに応じて援軍を送っている。
フリードリヒ3世(賢公)
フリードリヒさんせい[けんこう]
Friedrich III, der Weise
[没]1525.5.5.
ザクセン選帝侯 (在位 1486~25) 。 M.ルターの庇護者として知られる。ルネサンス的教養を積み,宮廷所在地ウィッテンベルクを芸術活動の中心として,デューラーや L.クラナハら多くの芸術家の庇護者となった。 1502年にはウィッテンベルク大学を創立。皇帝マクシミリアン1世のもとでは,マインツ選帝侯とともに帝国改造運動のリーダーとなり,カルル5世の皇帝選挙でも重きをなした。 08年ルターをウィッテンベルク大学の教授に,18年には P.メランヒトンをギリシア語の教授に迎え,宗教改革運動の庇護者となった。
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