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ホフマンスタール Hugo von Hofmannsthal

百科事典マイペディアの解説

ホフマンスタール

オーストリアの詩人,劇作家。17歳で早熟の天才としてウィーンの文壇にデビュー,《ティツィアーノの死》(1892年),《痴人と死》(1893年)などの韻文劇を発表,また《詩集》(1907年)にまとめられた象徴主義的な抒情詩でドイツ近代詩を世界的水準に高めた。
→関連項目ゲオルゲ新ロマン主義世紀末ばらの騎士バレーズラインハルト

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世界大百科事典 第2版の解説

ホフマンスタール【Hugo von Hofmannsthal】

1874‐1929
オーストリアの詩人,劇作家。ユダヤ系の銀行家の父と,南ドイツの農民の血を引く母とのひとり息子として,ウィーンに生まれる。きわめて早熟な文学的才能で,高校生時代からロリスその他の匿名で発表した詩劇や詩は,その措辞の華麗かつ典雅な完成度によって,19世紀末のウィーン文壇を驚倒させた。そのみごとな成果は,個人の能力の結実というより,むしろ長く豊かなヨーロッパ文化の伝統が,少年の無垢な感受性のうちにとめどなく流れこみ,おのずから凝固したという印象を与える。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ホフマンスタール
ほふまんすたーる
Hugo von Hofmannsthal
(1874―1929)

オーストリアの詩人、劇作家。2月1日、ウィーンに生まれる。16歳の高校生時代から優れた詩作を発表し、早熟の天才児として文壇を驚かせた。当時の作品として、生の世界の秘密に触れる数々の叙情詩と韻文劇『チチアンの死』(1892)、『痴人と死』(1893)、『皇帝と魔女』(1897)、小説『672夜の物語』(1895)などが知られる。1902年、28歳のとき、17世紀イギリスの文人チャンドス卿(きょう)がフランシス・ベーコンにあてた書簡という設定のエッセイ(いわゆる『チャンドス書簡』)を発表した。ことばに対する深い懐疑を披瀝(ひれき)する一方、ことばをもたぬ動物との生命の一体化の経験を語る不思議な文章で、20世紀文学のその後の歩みを暗示した魅力ある作品として知られる。
 以後、彼の活動はもっぱら戯曲に向けられ、ソフォクレスの改作『エレクトラ』(1903)、『オイディプス王』(1905)、オトウェーの改作『救われたベニス』(1905)などを発表した。またイギリスの古い神秘劇による『イェーダーマン(人おのおの)』(1911)はいまでもザルツブルク音楽祭で毎夏上演される。また『エレクトラ』はリヒャルト・シュトラウスがオペラ化して成功し、これを縁にオペラのリブレット(台本)を書くようになった。2人の共同作業によって『ばらの騎士』(1911)、『ナクソス島のアリアドネ』(1912)など五つのオペラが生まれた。
 散文では、1919年に寓話(ぐうわ)小説『影のない女』を完成している。またマリア・テレジアの治世にベネチアへの旅に出たウィーンの一青年の物語『アンドレアス』も書き進めていた。いずれも初期の『672夜の物語』につながる魔法的な空間を生み出すことに成功しているが、『アンドレアス』のほうは、多くのプランを残したまま未完に終わった。20世紀のドイツ語圏の小説が語られる際、全体の4分の1ほどが書き上げられているにすぎないこの小説の名がしばしば口にされるのは、その散文の比類ない美しさと、主人公のささやかな体験のかなたに予感される大いなる視野への期待ゆえであろう。
 第一次世界大戦に際し、多額の財産を戦時公債に献じたため、敗戦とインフレにより戦後は経済的にも不如意の日々が続いた。その苦しさだけではなく、オーストリア帝国の崩壊は、この詩人の精神に大きな衝撃を与えた。ザルツブルク音楽祭の推進者となるなど、伝統を通じて秩序の回復を願う姿勢が強固になったが、その積極的な姿勢の背後に、後期の喜劇の傑作『気むずかしい男』(1921)や問題作『塔』(1927)にうかがわれる深いペシミズムがあり、それが晩年のホフマンスタールの精神の基調をなしていたといえよう。
 1929年7月15日、自殺した長男の葬儀の直前、卒中に襲われ、ウィーン郊外の自宅で、喪服に身を固めたまま息を引き取った。[松本道介]
『富士川英郎他訳『ホーフマンスタール選集』全4巻(1979~80・河出書房新社) ▽川村二郎著『チャンドスの城』(1976・講談社) ▽川村二郎編訳『ホフマンスタール詩集』(1994・小沢書店) ▽川村二郎訳『チャンドス卿の手紙・アンドレアス』(講談社文芸文庫) ▽ホフマンスタール台本、R・シュトラウス作曲、志田麓・寺本まり子訳『ナクソス島のアリアドネ』(1983・音楽之友社) ▽R・シュトラウス、ホフマンスタール著、大野真監修、堀内美江訳『オペラ「薔薇の騎士」誕生の秘密――R・シュトラウス/ホフマンスタール往復書簡集』(1999・河出書房新社) ▽檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』(岩波文庫)』

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世界大百科事典内のホフマンスタールの言及

【ザルツブルク音楽祭】より

…1877年から行われていた〈モーツァルト祭〉を前身として,1920年に発足。この年には,発起人の一人でもあった劇作家H.vonホフマンスタールの戯曲《イェダーマンJedermann》が上演されたのみであったが,翌年からモーツァルトの作品の音楽会を加え,しだいに今日のような音楽を主軸とした催しとして発展した。現行の内容は,オペラ公演,オーケストラ演奏会,モーツァルト・マチネ,歌曲の夕べ,独奏者演奏会(リサイタル),室内楽演奏会,セレナード,教会コンサート,演劇公演,バレエ公演等からなり,世界のトップ・クラスの出演者が顔をそろえる。…

【チャンドス卿の手紙】より

…オーストリアのホフマンスタールが1902年に発表した,架空の書簡体散文。17世紀イギリスの文人貴族フィリップ・チャンドス卿が友人にあてて,文学活動を断念するにいたった経緯を書き綴るという体裁をとっている。…

【ドイツ文学】より


[政治性と多様化]
 プロイセンによって強行された1871年のドイツ統一以後,この軍事的・政治的統一に欠落していた文化的内実を回復するために,ますます国民文学の意識の強化がはかられ,文学研究を通じて国粋主義の核がおかれたが,その反面,ゾラ,イプセン,ワイルド,トルストイなど多数の外国作家の受容が行われ,ドイツ文学は思想と表現の幅を急激に広げると同時に,内部に深刻な緊張を胚胎した。この間,自然主義はリアルな庶民生活の描出によってとくに現代演劇への端緒をひらき,ホフマンスタールたちの開拓した詩劇風の一幕物は,デカダンスの思想と芸術に表現の場をあたえ,ウェーデキントがフランスから移植した文学寄席(キャバレー)は,新しい大衆芸術の芽を育てた。この時期には一方で作家たちが芸術界のエリートという自覚をもち,一部では宗教にも代わるような高い精神の営みに従事する意識を抱くようになったが,他方では一般的な生活水準の向上と技術の進展によって,文学の大衆化がかつてないほど進んだ。…

【道徳劇】より

…イギリス(系)の《エブリマンEveryman》《忍耐の城The Castle of Perseverance》,フランスの《酒宴の報いLa condamnation de banquet》などがよく知られた作品である。たとえばイギリス系(もともとオランダにあったものといわれる)の《エブリマン》はH.vonホフマンスタールの改作(1911)や,近代の復活上演でも知られているが,その内容は,不意に死神におそわれたエブリマン(人間一般の擬人化)があわてふためき,家族,友情,富などに身代りや援助をたのむが無駄で,最後には聖母マリアの取りなしでやせ細った善業と知恵と信仰にともなわれて死出の旅路につくといったものである。天使のコーラスと司祭の結辞と神への祈りで劇は終わる。…

※「ホフマンスタール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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