イタリア語でマニエリズモManierismo。イタリア語の〈マニエラmaniera〉(〈手法,様式〉の意)に由来する語で,16世紀ヨーロッパ芸術の支配的様式をさす。
〈マニエラ〉は,14世紀以来イタリアの芸術理論書(チェンニーニ,ギベルティ)の中で,芸術家の個々の様式,あるいは一民族,一文化に特有の様式を示す言葉として,いかなる価値づけもなく使用されていた。マニエラに独自の価値を与えたのはG.バザーリ(《芸術家列伝》1550)である。彼は,15世紀の芸術家が単に自然を模倣しこれを整理する理法を知ったのに反し,16世紀の芸術家は〈マニエラを知る〉ことによって〈自然〉を超えた〈優美〉をもつにいたった,と述べ,ここでマニエラは,〈自然〉に対して,人間の〈イデア(理念)〉を付加する高度の芸術的手法と考えられるようになった。バザーリとその同時代の理論書では,ミケランジェロとレオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロの〈手法〉を知ることにより高度の理想美が実現できると考えられたが,これは,芸術表現において初めて,意識的に〈様式〉の自覚が行われたことを意味し,古代ギリシア以来のミメーシス(模倣)の理論に対する一つの変革であった。
しかし,17世紀のバロック古典主義,バロック自然主義のいずれもが,16世紀の主知的様式主義を芸術の堕落として敵視し,とくに美術理論家G.P.ベローリは,このマニエラを自然から離れた虚偽の人為的な芸術であり,芸術のデカダンスであると非難したため,新古典主義が主導権を握った17~18世紀を通じて,マニエラとマニエリスムの双方が著しく価値をおとしめられ,19世紀にいたるまで,マニエラは〈型にはまった同型反復〉,マニエリストは〈巨匠の模倣をする,創造性を欠く追従者〉として位置づけられた。マニエリスムの再評価は,19世紀後半以降1920年代にかけて,印象主義から表現主義,シュルレアリスムにいたる芸術運動の展開と呼応して行われた。すなわち,世界を合理的,客観的に把握し,これを調和と比例の形式美の中に表現することを芸術の理想とする古典的かつアカデミックな美学の崩壊に伴い,過去における反古典主義的芸術が復活したときに,マニエリスムも固有の価値を取りもどしたのである。リーグルA.Riegl,M.ドボルジャーク,フリートレンダーW.Friedlaenderは,ルネサンスとバロックの中間に,この両者とは異なる独自の様式的時代があったことを認め,それを1520年ころから80年代末までとした。批評家たちによって,マニエリスムの様式上の本質をなすものの把握は異なっているが,総じてこの時代の芸術には反ルネサンス,反古典主義的傾向が認められること,また,バロック美術の特色をなす直接的なリアリズムおよび感覚的直截(ちよくせつ)性はここには認められず,代わって様式的洗練と技巧主義,主観主義,アレゴリー表現,装飾主義などの諸特徴が見られること,が指摘されている。
マニエリスムの作品はいずれも,一方ではルネサンスに完成された客観描写の諸技法の極端な洗練もしくは過剰,不自然な用法を,他方では古典主義的限界を超えた新たな精神的表現への試みを示している。具体的にマニエリスムの特色をあげるならば,それは,人物表現における比例の無視といわゆる〈フィグーラ・セルペンティナータfigura serpentinata(蛇状姿態)〉の多用,遠近法の廃棄もしくはその歪曲,リアリズムによらず純粋な美的配慮による抽象的色彩配合,文学的・思想的意味を優先させた象徴的主題解釈などが指摘できる。明晰な空間と構成,直接的でわかりやすい主題解釈は,ルネサンスおよびバロックのものであってマニエリスムの特色ではない。マニエリスムを他の前後する両時代と識別する作業は,あくまでもこの時代に創造された芸術の実証的研究の結果によっており,今後の研究もその方向において行われるべきであろう。
マニエリスム芸術がいかにして起こったか,またその特質はどのような精神的・社会的原因に根ざすものであるかについては,19世紀末以来多くの批評家によって論ぜられてきたが,その説は多様である。しかし,ルネサンス古典主義の基礎を成していた精神的・社会的背景が16世紀初頭に大きく変化したことは明らかであり,マニエリスム成立の遠因はそこにあると考えられよう。その変化とは第1に,ルネサンス人文主義の根本にあった人間中心思想(これはラテン的世界の中心思想でもあった),スコラ哲学的宇宙観(天動説的宇宙観),中世的自治都市における市民的・共同体的倫理などの崩壊であろう。16世紀に発展するアルプス以北とスペインの絶対主義化と諸国のイタリア侵攻(1527年のローマ劫掠,30年のフィレンツェ攻略など)によるルネサンス・イタリア都市の崩壊,すでに進んでいた地中海を中心とする経済活動の衰退,これに伴うイタリアの凋落,地動説的宇宙観の登場,さらに決定的なものとして,ルターらの反撃によるローマ・カトリック教会の権威失墜などによって,ルネサンス文化を支えていた基礎が崩壊したと考えられる。これらの外的要因に加えて,レオナルド・ダ・ビンチの科学的省察はすでに中世的宇宙観から逸脱しており,ミケランジェロはキリスト教的禁欲と人文主義的現世肯定との相克を身をもって体験するという,ルネサンスの巨匠による個人的な精神的危機が彼らの芸術になんらかの変化を与えたことがあげられよう。さらに,極限まで達したルネサンス芸術内部における自律的な発展を指摘することも可能である。このように,マニエリスムはルネサンスの危機としてとらえることができるが,これらの危機が絶対主義の確立と宗教改革による混乱の収拾が行われた16世紀末とともに終わり,バロックへと移行したと考えることができる。
マニエリスムの様式的諸特徴を用意したのは,ほかならぬ盛期ルネサンスの巨匠たちであった。まずレオナルド・ダ・ビンチは,その明暗法の強烈さとスフマート,極度に優美な人物表現,姿態や表情における〈感情表現〉の重視などによって,15世紀の理性的な自然模倣と形式的簡潔さの限界を超え,主観的・神秘的領域に踏み込んだことによって,それに続く画家たちを危機におとしいれた。彼は直接の弟子はもたなかったが,16世紀の画家の多くがこれ以後精神性の表現を目ざすこととなった。また,彼の《アンギアリのたたかい》や《水の研究》などにみられる,動的な連続性やダイナミズムへの強い志向は,明晰な決定された形態の観念をこわし,目に見えぬエネルギーの表現へと絵画を向かわせた。1547年にフィレンツェのアカデミアの院長バルキBenedetto Varchi(1502-65)が行った〈パラゴーネparagone〉,すなわち〈絵画・彫刻優劣比較論争〉は,16世紀半ばにおいて非古典的・絵画的ビジョンと伝統的な線的ビジョンとが伯仲していたことを示す名高い事件であるが,この一方の根拠はレオナルドの生み出した新しいダイナミズムにもとづいていた。この方向はやがてバロックにおいて完全な勝利を占めることになる。
他方,〈パラゴーネ〉の一方の雄であったミケランジェロは,古代とルネサンスの規範である彫刻的形体と線による素描(ディセーニョ)の伝統を守っていたが,自己の主観的意図にもとづいて自然描写を無視するという傾向(システィナ礼拝堂の天井において〈原罪〉の同一空間内に同一人物が2回登場する),寓意的・象徴的意味の強調(同じく〈アダムの創造〉において,アダムの座す大地と神の天空を図式的に表す),合理的空間構成と人体比例の無視(同じく〈最後の審判〉における人物)など,古典主義の根本原則をすべて破壊する創作法によって,彼に続く芸術家の多くに,レオナルドがなした以上に,深刻な影響を与えることとなった。したがって,すでに16世紀に,マニエリスム的傾向を非難する古典主義的理論家に,マニエリストを〈ミケランジェロの模倣者たち〉と同一視する傾向があったのは当然のことといえる。初期マニエリストの画家のうち,ロッソ・フィオレンティーノ,とりわけポントルモはミケランジェロから決定的な影響を受け,古典主義の限界を脱したということができる。しかし,ミケランジェロの芸術が他を圧して16世紀を支配するようになったのは,ミケランジェロの以上の特徴が,〈自然模倣〉という原則から〈主観的表現〉への変化を示していたためである。この傾向は16世紀の精神的・社会的状況とも合致していたため,彼の芸術を理想とする理論書が次々と出版され,批評家たち(バザーリ,バルキ,ダンティV.Danti,ロマッツォ,F. ツッカロ)によって理論化,体系化されることによって,16世紀固有の美意識が作り上げられた。要約すれば,ミケランジェロを範とする美の理想は,〈自然(ナトゥラ)〉よりも〈理念(イデア)〉を重要視し,イデアによって直観された美を,数的比例による形体的美と区別して〈優美(プラトン的美)〉と呼び,芸術の目的をこの表現においた。ここから,自然や比例に価値をおかず,もっぱら美的完璧さと精神的内容の表出に力点をおいた芸術が優勢を占めることになった。
最後に,ラファエロの果たした役割であるが,彼は15世紀の末までに完成された古典主義的様式の諸要素を,折衷的に研究,摂取,総合し,あらゆる意味で完全な古典的作品を作り上げた。そして,その折衷的制作方法の中に,マニエリスムのもっとも根源的な〈手法主義〉の萌芽があった。したがって,ラファエロの工房で働いたジュリオ・ロマーノらは,既成の古典主義的手法を技巧的な手練をもって使用することにより,古典主義の基礎である〈自然〉から離れ,結果として〈様式主義〉または〈手法主義〉におちいっている。
以上のほか,マニエリスムの様式上の具体的な先例としては,16世紀初頭に発見された《ラオコオン》をはじめとするヘレニズム期のドラマティックな彫刻と,デューラーを代表とする北方の芸術家が伝えた非ラテン的精神主義などが指摘できる。両者とも,15世紀の古典主義を支えた世界観の外にあるものとして,この時代に発見されたものである。同様にボッティチェリやピエロ・ディ・コジモなど,ゴシック的要素をもった15世紀の画家たちも再生している。
マニエリスムの始源については,ミケランジェロの弟子によってローマに発生したとする説と,フィレンツェの1490年代に生まれたポントルモ,ロッソ・フィオレンティーノなどを創始者とする説とがあったが,今日では,以上に見たように,盛期ルネサンスのすべての局面に同時にマニエリスムの萌芽がみられると考えられている。このうち,時期的に最も早いものとしては,フィレンツェの盛期ルネサンスの様式上の完成者アンドレア・デル・サルトとその周辺に育ったポントルモ,ロッソ・フィオレンティーノ,パルマのコレッジョとローマのラファエロ主義の感化を受けたパルミジャニーノ,ラファエロの弟子ジュリオ・ロマーノ,ペンニGiovanni Francesco Penni(1488ころ-1528),ジョバンニ・ダ・ウーディネGiovanni da Udine(1487-1561ころ),ペリーノ・デル・バーガPerino del Vaga(1501-47),これらと独立してシエナにあってレオナルド風の明暗法をおし進めたベッカフーミなどがあげられる。ミケランジェロの影響はこれらすべてに及んだが,とくにロッソ・フィオレンティーノとポントルモに著しい。
これらのマニエリスム的傾向をもつ画家たちは,1527年以後の第2期マニエリスムと区別され,古典主義の制約に対する自由な創造性を追求した点で共通し,もっともユニークで革新的な芸術を創造したといえる。
マニエリスムの第2期は1527年のローマ劫掠に始まり,トリエント公会議の開催中(1545-63)にわたる反宗教改革の異端審問の時期にあたり,この間には,イタリアの全般的危機と新しい絶対王政の確立による新封建化という情勢を反映して,芸術はより制約を受け,アカデミックな,また宗教的な色彩を帯びた。ただし,それはローマにおいてであり,フィレンツェではトスカナ公国の宮廷を中心に洗練された宮廷的マニエリスムが栄え,これはフランスのフォンテンブロー派,オーストリア,ボヘミアなどの宮廷芸術に伝わり,国際的マニエリスムとなった。以上のように,ミケランジェロの〈最後の審判〉(システィナ礼拝堂)やパオリナ礼拝堂を代表とするローマの反宗教改革的危機意識を表現するマニエリスム(セバスティアーノ・デル・ピオンボ,ダニエーレ・ダ・ボルテラDaniele da Volterra(1509-66),ベヌスティMarcello Venusti(1512ころ-79)など)を第1の潮流とすれば,メディチ家宮廷を中心とする耽美的マニエリスムとその国際的伝播(ブロンツィーノ,バザーリ,アルチンボルド,スプランヘル,ブルーマールトAbraham Bloemaert(1564-1651),コルネリス・ファン・ハールレムCornelisz van Haarlem(1562-1638),ウィッテワールJoachim Wittewael(1560-1638),ホルツィウス)は,もう一つのグループとしてとらえられよう。この第2の潮流の特色は,極端に洗練された美的感覚と技巧性,および文学的,教養主義的なアレゴリー表現である。フランドルのP.ブリューゲル(父)は,世界と人間に対するシニカルな見解とその世界像をアレゴリーによって表す複雑な主題性において,この潮流の中に加えられよう。第3の傾向は,主としてベネチアに繁栄した独自の絵画であり,ティツィアーノ,ベロネーゼ,ティントレットがこれを代表する。ティツィアーノとマニエリスムとの関係は論議中であるが,彼の作品は16世紀の半ばをすぎるにつれて宗教的情熱が強烈となり,自由なタッチによる大胆な絵画的表現が強まるとはいえ,最後まで合理性と自然らしさの枠を超えることのなかったことからみて,むしろ〈プレ(先期)・バロック〉的傾向とみるほうがふさわしい。ベロネーゼもまた,大胆な仰角法や人工的な色彩を用いたものの,終始ルネサンス的現実性から離れることはなかった。一方,1566-67年ベネチアですごしたギリシア人画家エル・グレコには,明らかな非合理性,空間の無視,人物の歪曲,神秘主義がみとめられる。またティントレットは,光と闇,強い色彩,意表をつく角度や,極端な左右不均衡の構成を用いることで,合理性と自然らしさの限界をつき破り,主観的表現の深みに達した。後の二者は,トリエント公会議終了以後も活躍し,末期マニエリスムの二大巨匠として,〈プレ・バロック〉にもかかわっている。
彫刻では,盛期ルネサンスの技巧を洗練させ,パルミジャニーノと同じく美的奇想を重んじたチェリーニ,アンマナーティBartolomeo Ammanati(1511-92),ややおくれて最高の名人芸的技巧に達したジョバンニ・ダ・ボローニャがいる。ベネチアのビットーリアAlessandro Vittoria(1525-1608)およびサンソビーノは絵画におけるティツィアーノに当たる位置にいるといえよう。これらの遺産の中からベルニーニがバロックの彫刻を生み出すこととなった。
建築では,古代ローマ建築の修復および発掘と,ミケランジェロの示した範例にもとづいて,16世紀初頭にウィトルウィウスの復活に見られるような古典復興がおこり,ビニョーラ(《建築の五つのオーダーの規範》1562)およびパラディオ(《建築四書》1570)は古典的建築理論の大家であった。彼らは,古典建築の諸原理を知りつくし,またそれを主知的に利用したことによって,〈手法主義〉的なマニエリストと考えることもできる。さらに珍奇と驚異を目的とした奇想的建築ではリゴリオ,F.ツッカロがいる。しかし,彼らの空間が古典的明晰さと機能的簡潔さを超えて,イリュージョンと知的仕掛けにみちたものであったとしても,バロックのボロミーニ,グアリーニにおけるような,構造全体における反古典主義的な改革はみられない。
1570年代,すなわちトリエント公会議の終了によるローマ・カトリック教会の方針決定以後,芸術的活動は急速に教会中心の指導と統制のもとに置かれ,官能的,耽美的マニエリスムは終焉した。ミケランジェロの死(1564)もこれに拍車をかけ,反ミケランジェロ主義,反人文主義の傾向のもとに,北イタリアのボローニャ出身のカラッチ一族とロンバルディア出身のカラバッジョがイタリア芸術の中心になる。この時期(1580-90)をもって〈プロト・バロック〉の台頭,マニエリスムの終末とされる。ただし,1620年代まで,ローマではF.ツッカロ,カバリエーレ・ダルピーノCavalier d'Arpino(1568-1640)などのアカデミックなマニエリスト,フィレンツェではサンティ・ディ・ティートSanti di Tito(1536-1603)やチゴーリCigoli(本名カルディLudovico Cardi。1559-1613)などの,リアリズム的傾向と宗教性の強い〈改革派〉マニエリストが活躍した。また,フランスではJ.deベランジュやカロンAntoine Caron(1520ころ-1600ころ)などがマニエリスム的芸術を創造し,ブーエ,N.プッサンらの出現まで活躍を続けた。フランドルではP.ブリューゲル(父)の次男ヤンが細密なリアリズムによりマニエリスムとバロックの中間の地位を占める。
執筆者:若桑 みどり
20世紀の文学研究者が,ルネサンスとバロックとの中間に位置する,16世紀のある時代の西欧文学に見られる主知的で技巧偏重の文学傾向を,より有効な形で研究するために,美術史の領域より借用した肯定的概念。後にこれを他の世紀の,とくに20世紀の世界文学一般における類似した文学現象にも拡大適用する傾向が生じた。しかし,多くの研究家がめいめいに独自の定義を下すにしたがい,その概念はあいまいになり,諸家の共通尺度となるような諸説統合理論もまだ出ていないのが現状である。
16世紀マニエリスム文学に関しては,〈危機意識〉を強調する学者と〈洗練の極致〉の芸術・文学ととる学者に大別される。前者はおもにハウザー,サイファー,ローランドら主として精神分析や社会史に立脚する流派で,その説によると,マニエリスムはローマ劫掠(1527)等の社会危機に対する西欧の知識層の深刻な対応の姿であり,この文化動向は不安,緊張,神経症によって特徴づけられるという。その文学的形象の典型は,知と懐疑において過剰なハムレット,〈狂気の〉ドン・キホーテ等であり,マニエリスムの最高の作家はシェークスピアだとする。彼こそ,定型的人物,たとえば当時流行した憂うつ病者の類型たるハムレットのごとき人物と既存の常套的筋立てを利用しつつ,絶えず誇張と美辞麗句と語呂合せ,悲劇要素と喜劇要素の混交からなる独創的な技巧を駆使して,人生の測りがたさや,人間存在の夢幻性を浮彫にしたからだという。詩人では,シェークスピアのほかにJ.ダンがあげられる。〈魂は肉体を,肉体は衣を脱ぎすててこそ,はじめて悦びが満喫できるというもの〉(《床入り》)の一節の中で,彼は死に際して魂は肉体という汚れ衣を捨てさるという中世的通念を,裸身と性関係と法悦の比喩からなる恋愛詩に転換させたが,このほかにもペトラルカらの手本にならうと見せて,揶揄(やゆ)と逆説と謎ときの恋愛詩を書いた。フランス文学ではT.A.ドービニェの詩集《春》(1570-73執筆。1874刊)が筆頭にあげられる。〈われ,ディアーヌの姿絵を骸骨の裡におき,骨の間に眺めつつ,これを賞(め)ず〉は,自分を裏切った恋人の肖像画と骨,美と醜とを合体させ,この自然の人工的合成を賞味するプロテスタント詩人の偏執的着想を示す一節である。彼はペトラルカやロンサールに詩想の多くを負いつつも,少年期に始まった宗教戦争の不安と呪詛の体験を基底にすえ,手本を奔放に作りかえ,独特の詩風を作った。〈わが哀訴に苛立ちし空は,その償いに,輪舞する梟(ふくろう)と烏(からす)でかきくもるがいい〉といった,荒々しい頓呼法,願望文には,古典的な調和と秩序と美の詩風の片鱗も見いだすことはできない。
後者の〈洗練の極致〉は,手法(マニエラmaniera)を説くG.バザーリの唯美主義を重視するJ.シャーマンらの理論であり,マニエリストは身分上廷臣として宮廷内にとどまり,古典主義への反逆や前衛主義には無縁な人士であり,怪奇や不安,神経症など薬にしたくもなく,ただ既成の隠喩や寓意の合成的模倣に終始し,そこから洗練された人工美を作り出すのに腐心した芸術家・文人の謂(いい)だとしている。この論の眼鏡にかなう作品はまずT.タッソの《アミンタ》(1573)である。牧人アミンタが情なき女シルビアに恋し,やがて女が死んだと錯覚して,断崖より身を投げるが未遂に終わり,ついに彼女の心を得てハッピー・エンドという古代の田園詩とフェラーラの宮廷の趣味とがほどよく統合された田園劇(牧歌劇)であるが,抜群の着想と官能性とある種の唯美主義がその特徴である。その系に連なるフランスの詩人に《デリー》(1544)を書いたM.セーブがいる。彼はペトラルキスムや占星術,博物学を駆使して,恋愛感情の諸相とその昇華を歌ったが,その難解さ,官能性,凝縮されたイマージュはまさに〈唯美的マニエリスム〉の名にふさわしい。これにP.deロンサール,P.デポルトの一部の詩も加える必要があろう。
これらとは別に〈永続的マニエリスム論〉ともいうべき理論がある。E.R.クルティウスは美術史との対照を抜きにして,古代末期,16~17世紀,20世紀に主要な頂点を有する反古典的文学傾向を指す常数としてこの概念を使用し,ソフォクレス,ウェルギリウス,ラシーヌ,ゲーテの名を挙げて,語順転倒,奇妙な隠喩,同音異義語による言葉遊び等の技巧からなる装飾過剰の文体を,マニエリスムの特徴と規定した。他方,G.R.ホッケはこの師の精神史理論を社会心理学の方向へ組みかえ,幻想,偏執,神秘,奇怪といった特色を帯びた文化現象全体をマニエリスムと規定し,古典主義との関係では,対立よりも共存と補完性を強調し,その詩人としては,ゴンゴラ,マリーノ,ドービニェ,ランボー,マラルメ,ブルトン,シェークスピア,ダン,イェーツ,ツェラーンを挙げる。定義が膨張するにつれてバロックとの区別が問題となるが,M.レーモンはマニエリスム対バロックを技巧性対表現性,装飾性対機能性,偏心性対統一性,幻想の夢幻的表出対幻想の現実的表出,文人向き対大衆向きという基準で考え,混乱の収拾をはかった。
執筆者:成瀬 駒男
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イタリア語でマニエリズモ、英語でマナリズム。手法・様式を意味するイタリア語のマニエラmanieraを語源とする。一般には、既成の手法や形式を慣習的に踏襲して、独創性のないままに繰り返し器用に処理しようとする消極的態度をさすことばで、いわゆるマンネリズムの用語が流布している。しかし近年、ヨーロッパの盛期ルネサンスからバロックに至る間の芸術現象に対する特定の様式概念として注目され、その重要性が強調される。
芸術様式としてのマニエリスムの年代は、地域や芸術分野により差違があるが、ほぼ1520年ごろから1600年前後に及ぶ。20世紀の初めまで、この時代の芸術はルネサンスの古典的芸術を技巧的に模倣しただけの沈滞期の様式を示すにすぎないとみられていたが、その後の研究で盛期ルネサンスと異なる独立した芸術として再評価を受けるに至った。16世紀のヨーロッパは、宗教や科学、政治や経済など、社会や思想のあらゆる面から大きな動揺と不安の時代を迎え、精神的危機に直面していた。とくに前世紀以来、文芸復興の主導的役割を果たしたイタリアでは、それらを典型的に美術発展に反映している。調和・均衡・安定を重んじる規範的理想美に対する反発から、自然の模倣を無視して主知的ともいえる主観主義の傾向を強めていく。ラファエッロの晩年やミケランジェロの後期作品の影響も受けて、その様式は、洗練された技巧に加え、錯綜(さくそう)した空間構成、ゆがんだ遠近法、強い調子の明暗法を駆使して、幻想的な寓意(ぐうい)的表現、異常なまでにゆがめられたプロポーションや激越な運動感の描出、幻惑するような非現実的色彩法などをその特色とする。絵画を中心とするその発展は、普通、次の3段階に分けられる。
第1期(1520ころ~1540ころ)はポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノ、パルミジアニーノ、ベッカフーミBeccafumi(1485/1486―1551)らの活躍。第2期(1540ころ~1570ころ)はブロンツィーノ、バザーリ、彫刻のベンベヌート・チェッリーニ、建築ではビニョーラ、パッラディオら。このころイタリアのルネサンス美術がヨーロッパ全域の宮廷芸術に浸透したのに続いて、マニエリスムも国際様式として伝播(でんぱ)していった。フランスのフォンテンブロー派の成立はこの期に含まれる。第3期(1570ころ~1610ころ)には絵画のティントレット、彫刻のジャンボローニャGiambologna(1529―1608)など。またスペインの画家エル・グレコもあげられる。このほかネーデルラント出身者をはじめ、プラハ、ウィーン、ミュンヘンなどの各宮廷の庇護(ひご)のもとにマニエリスムは多くの芸術家の活躍を促した。当初の反古典的唯美主義から宮廷的アカデミズムを経て、しだいに硬直化した折衷主義へと移行したこの美術様式は、やがてふたたび現実的自然の肯定と人間生命の高揚に根ざした反マニエリスムの台頭によって、バロックへその道を譲ることになった。
[上平 貢]
『A・ハウザー著、若桑みどり訳『マニエリスム』全三巻(1970・岩崎美術社)』▽『W・フリートレンダー著、斎藤稔訳『マニエリスムとバロックの成立』(1973・岩崎美術社)』▽『若桑みどり著『マニエリスム芸術論』(1980・岩崎美術社)』
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…例えば,太陽の息子ファエトンの墜落の神話は反逆天使ルシフェルのアレゴリーと解釈するたぐいである。(2)ルネサンス,マニエリスム 盛期ルネサンスからマニエリスムにかけて,アレゴリー表現は開花期を迎える。とくにフィレンツェのフィチーノやピコ・デラ・ミランドラらの新プラトン主義者たちの果たした役割は大きく,〈聖書と神話との間に,かつて夢想もしなかった和解の可能性〉(セズネック)が提示された。…
…このように,経済的・政治的衰退期である16世紀から18世紀にかけて,イタリアはなおも三つのエポックに文化的指導力を発揮した。第1は,16世紀の,ルネサンス文化の最高の洗練である〈マニエリスム〉の成立とその伝播によってである。フランス,スペインをはじめとするヨーロッパ諸国はこの宮廷的文化を通して初めてルネサンス文化の波に浴したということができる。…
…中世になると,キリスト教によって本能の昇華が阻害され,裸体の表現がきびしく禁じられるから,ある点でエロティシズムはますます妄執的になり,悪魔崇拝や魔女迫害の強迫観念を生んだ。ルネサンスは人間の裸体を復興したが,エロティシズムという見地から絵画や彫刻作品を眺めるとき,その強烈さで頂点に立つのはマニエリスムであろう。風刺作家アレティーノと組んで,16枚の性交態位図を描いた画家ジュリオ・ロマーノも,16世紀マニエリストのひとりであった。…
…90年ころローマに行き,リアリスティックな静物画,風俗画で名声を得た。99年から1602年にかけて宗教画の最初の大作《マタイ伝》連作を描き,革新的な主題解釈,強烈な明暗効果,迫真のリアリズムによって,後期マニエリスムに衝撃を与えた。さらに《パウロの改宗》(1600‐01),《キリストの埋葬》(1602‐04),《聖母の死》(1605)などを手がけ,初期バロックのリアリズム様式を確立した。…
…フォシヨンもまた,あらゆる文化において古拙,均衡,過剰の3段階があり,バロックはその最終段階にあたると考えた(《形の生命》1934)。第3の見解は,バロックをマニエリスムの終結から,新古典主義の開始にいたるまでの歴史的な時代,およびこの時代の文化,芸術についてのみ,適用するというものであり,これは,マニエリスムの再発見と再評価をまって,16~17世紀の歴史的事実とそれについての判断がしだいに明確になった20世紀後半において,ようやく優勢を占めてきたものである。以上のように,バロックは今日,様式概念,普通概念および時代概念の3通りの用い方をされている。…
※「マニエリスム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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