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マリ・アントアネット マリ・アントアネットMarie-Antoinette

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マリ・アントアネット
マリ・アントアネット
Marie-Antoinette

[生]1755.11.2. ウィーン
[没]1793.10.16. パリ
フランスルイ 16世の妃。神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの四女。 1770年5月ベルサイユでのちのルイ 16世と結婚。軽率,浪費家で,常に諸改革に反対し,また青年貴族たち,とりわけスウェーデン人 H.フェルセンとの情愛におぼれたため,国民の間に人気がなく,1785年に起こったダイヤモンド首飾り事件は王妃の不評を決定的にした。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マリ・アントアネット
まりあんとあねっと
Marie Antoinette
(1755―1793)

フランス国王ルイ16世の妃。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女帝マリア・テレジアとの娘。1770年、政略結婚によりブルボン王家の王太子ルイの妃となり、74年、夫の即位によって王妃となる。二男二女のうち、一男(ルイ17世)一女が成長。美貌(びぼう)、純情な反面、軽率、わがままで、ベルサイユの宮廷生活を享楽し、その浪費などから「赤字夫人」「オーストリア女」とよばれ、1785年、王妃をめぐる無実の詐欺事件である首飾り事件も国民の反感を買った。スウェーデン貴族フェルセンとの情事は有名。1789年フランス革命が起こると、これに反対、宮廷反革命勢力を形成し、ミラボー、ラ・ファイエットら立憲王制派との接近をも拒んだ。同年、民衆がベルサイユに行進した十月事件でパリに移され、1791年6月、王家のパリ脱出計画に加担したが失敗、王権の失墜を促進した(バレンヌ逃亡事件)。さらに外国反革命勢力の干渉を望み、1792年4月からの革命戦争に王権の勢威を賭(か)けたが、かえって92年、王宮襲撃の八月十日事件によってタンプル塔に幽閉され、王制廃止、共和制成立となった。ルイ16世の刑死後、1793年8月、コンシェルジュリ監獄に移され、10月、侮辱的な裁判を経て、反逆罪をもって刑死。威厳と気品をもって処した。[山上正太郎]
『アンドレ・カストロ著、村上光彦訳『マリ=アントワネット1、2』(1972・みすず書房) ▽シュテファン・ツヴァイク著、藤本淳雄・森川俊夫訳『マリー・アントワネット1、2』(1998・みすず書房) ▽パウル・クリストフ編、藤川芳朗訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(2002・岩波書店) ▽シュテファン・ツヴァイク著、高橋禎二・秋山英夫訳『マリー・アントワネット』上下(岩波文庫) ▽シュテファン・ツヴァイク著、関楠生訳『マリー・アントワネット』上下・新装版(河出文庫) ▽シュテファン・ツヴァイク著、中野京子訳『マリー・アントワネット』上下(角川文庫) ▽アントニア・フレイザー著、野中邦子訳『マリー・アントワネット』上下(ハヤカワ文庫)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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