マンチェスター(イギリス)(読み)まんちぇすたー(英語表記)Manchester

翻訳|Manchester

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

マンチェスター(イギリス)
まんちぇすたー
Manchester

イギリスイングランド北西部の大都市。人口39万2819(2001)。1974年に近郊諸都市をあわせた大都市圏自治体グレーター(大)・マンチェスター県が発足し、面積1287平方キロメートル、人口259万4778(1981)を擁したが、86年サッチャー保守党政権により大都市圏自治体機能は廃止された。アーウェル川に臨む内陸部に位置し、西方約50キロメートルには港湾・工業都市リバプールがある。とりわけ産業革命期にランカシャー地方の代表的綿工業都市として発展したが、綿工業が衰えた今日では、綿製品取引および綿布を加工し衣類を製造する工業の地位低下し、マンチェスター・シップ運河沿いに立地する石油精製、製粉、製鋼、化学、市街地に立地する印刷・製本などの工業の地位が相対的に上昇した。しかし今日マンチェスターのもっとも重要な都市機能は、ロンドンに次ぐイングランド第二の商業、金融、保険、行政、マスコミ、文化の中心都市としての働きであり、これらの機能においては依然としてランカシャーの中心都市である。市街には企業の事務所ビル、『ガーディアン』(旧マンチェスター・ガーディアン)紙を筆頭とするマスコミ各社、マンチェスター大学(1880創立)などの各種高等教育機関と研究所がある。また各種の図書館、博物館、美術館、演劇歌劇・音楽会の会場、イギリス最大の癌(がん)研究センターを含む充実した大病院などの施設も整っている。

[久保田武]

歴史

ケルト人の集落があったこの地に、紀元後79年に古代ローマ人が砦(とりで)を築いた。5世紀の前半にローマ人は去り、その後に残っていた町も870年に侵入したデーン人によって破壊された。町は半世紀を経て再建されたが、11世紀末につくられた土地台帳「ドゥームズデー・ブック」には、人家もまばらな地域と記されている。その後1330年になって、フランドル(現ベルギー)からきた移民が羊毛工業を始めたことが、この地の産業発展の原因となった。すでに16世紀の前半には「ランカシャーでもっとも活気があり、人口が多い町」と評されている。さらに17世紀の末にはフランスからキャラコ染めの技術が伝えられ、18世紀以降、イギリス木綿工業の中心地として発展した。綿工業の成長にあたっては、気候をはじめとする自然環境の影響も大きく、とくに石炭産地に近かったことは、この地で18世紀の末から産業革命が本格的に展開するうえで重要であった。マンチェスターと近郊のワースリーの炭鉱は、早くも1761年にブリッジウォーター公の運河(ブリッジウォーター運河)で結ばれている。1780年代以降、綿工業の機械化が急速に進み、多くの工場がつくられた。さらに1830年には外港リバプールとの間に鉄道が建設され、この町は世界の綿工業を支配した。この間、マンチェスターは急速に拡大し、19世紀初頭に10万にも達していなかった人口が、1851年には30万を大きく上回った。しかしこの町には1832年まで議員を選出する権利がなく、さらに38年までは自治都市(ミュニシパル・バラmunicipal borough)としての形態をとっていなかったため「国中で最大の村」ともいわれた。

 このように政治や社会の諸制度が経済の急速な変化に十分対応できていなかったという事情もあって、19世紀の前半にはこの町がイギリスの政治運動の一大中心地となった。1819年には議会改革を求める民衆を官憲が襲った「ピータールー事件」が起こり、1830年代後半から46年までは穀物法撤廃運動が強力に展開された。また1821年には自由主義的立場をとるイギリスの代表紙『マンチェスター・ガーディアン』が創刊され、コブデン、ブライトらマンチェスター学派の指導者は19世紀中葉のイギリス政治に大きな影響を与えた。マンチェスターは1847年に主教座都市となり、88年には特別市(カウンティ・バラcounty borough)に昇格したが、19世紀の末以降、イギリス経済における綿工業の地位の相対的低下によって、マンチェスターの影響力も弱まるに至った。

[青木 康]

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