フィリピン東方の東西約3200キロ、南北約1200キロに点在する島々からなる。第1次世界大戦に参戦した日本は1914年、ドイツ領だった太平洋の南洋群島を占領、20年から委任統治が認められ、45年の敗戦まで支配。南洋群島はその後、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島に分かれた。2015年4月、天皇、皇后両陛下は戦後70年の節目で、太平洋戦争で日米が激戦を交わしたパラオを慰霊のため訪問。晩さん会には「兄弟国」として同連邦、マーシャル諸島の大統領夫妻も招かれた。
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中部太平洋のカロリン諸島に位置する連邦国家。全体の陸地面積は702平方キロメートルであるが、607を数える島はどれも小さく国内最大のポンペイ島でも334平方キロメートルである。ミクロネシアの広範な海域に散在する複数諸島の連合体だけに、島々には独自の言語や文化が形成されている。かつて異島間の共通語は日本語であったが、第二次世界大戦での日本の敗戦、アメリカ軍の占領以後は英語が使用されている。人口12万(2002年推計)、11万0728(2009年、世界銀行)で、1986年11月にアメリカ施政下の国連信託統治領から独立した。首都はパリキールで、1989年11月にコロニアから遷都した。
[小林 泉]
東西3000キロメートルの最西端にあるヤップ諸島、中央のチューク諸島(旧称トラック)、その東のポンペイ島(旧称ポナペ)、最東端のコスラエ島(旧称クサイ)で4州を構成している。ヤップ諸島以外の各州の本島となる島は中央部に丘陵や山岳を有する火山島だが、ヤップ諸島だけが古い地質の陸島で、紀元前と推定される土器遺跡なども発掘されており、東南アジア方面からの人類移動がそのころから始まっていたことを思わせる。しかし、日常の人々の暮らしでは、交易などの多少の交流があったにせよ諸島間の一体性はなく、それぞれの島嶼(とうしょ)形態や植生、気候風土の違いにより地域ごとの言語や生活習慣・文化が発展した。
諸島間の違いをいっそう広げたのは、西洋人との接触後にたどった歴史的展開の個別性であった。たとえば、日本統治時代の日本人移住者の影響の強いチューク諸島では、住民の2割以上が日系人となり、日系人大統領や日系人酋長を複数輩出する諸島になった。島の伝統をかたくなに守り続けたヤップ諸島では伝統社会の構造が残っている。また、コスラエ島では島特有の伝統構造が消え、敬虔(けいけん)なキリスト教信仰者の多い島になった。連邦国家を形成するうえで、こうした異質性は国家を豊かにする多様性でもあるが、統一を難しくする不安定要因にもなっている。
[小林 泉]
1525年、ポルトガルの探検家がインドネシア探索中にヤップ本島とウルシー環礁を「発見」、1529年にはスペイン人がポンペイ島に、1565年にはチューク島に寄港して、島々は西洋人の知るところとなった。1595年、スペインがポンペイ島の領有権を宣言したが実質的な統治はなかった。19世紀に入るとポンペイ島近辺には捕鯨船団や貿易商、プロテスタント宣教師らが頻繁に行き交うようになり、これを見たスペインは1886年、カロリン諸島全体とマリアナ諸島まで含めた地域の領有権を再宣言し、ポンペイを中心にキリスト教カトリック布教を活発化させ、軍隊も送って本格統治を試みた。この時期すでに、日本からもコプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの)貿易のためにポンペイ島、チューク諸島に進出していた日本人がいた。2007年に大統領に就任したイマニュエル・モリEmanuel Mori(1948― 、在任2007~ )の曽祖父である森小弁(もりこべん)(1869―1945)は、そのなかの一人である。
しかし1899年、米西戦争に敗れたスペインは、アメリカに奪われたマリアナ諸島のグアムを除き、すべてのミクロネシア領有権をドイツに売却。ドイツはコプラ生産に力を注いだが、1914年に第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとミクロネシア全島は日本に占領された。日本はこの地域を南洋群島と称して統治を始め、1920年には国際連盟の委任統治領に認められた。
これにより現地民への日本語教育や神社の建立などの日本化を進めた。ポンペイには最盛期の1940年時点で8048人、チュークには4128人の邦人(海外居住日本人)が居住したが、コスラエやヤップへと渡る民間邦人は少なかった。
太平洋戦争時、日本海軍はチューク諸島に太平洋艦隊基地を置いたが、アメリカ軍の徹底空爆を受け全滅した。ラグーン(サンゴ礁内の海域・礁湖)には60余隻の艦艇がいまも沈んでいる。1945年の日本の敗戦で、域内の邦人はすべて強制退去させられ、島々は国際連合信託統治領としてアメリカの統治下に入った。アメリカは、日本的影響をことごとく排除する一方、地元民に英語を身につけさせ、アメリカ式民主主義を植えつける行政を熱心に行った。
信託統治終了後の島々の政治地位について、アメリカとの交渉が始まったのが1969年である。当初、信託統治領ミクロネシアは一丸となって自治または独立を目ざす方針を立てていたが、アメリカとの交渉途中で、諸島ごとの思惑の違いが顕在化。それがマリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島の離脱につながった。その結果、残った4地区をもってミクロネシア連邦を形成し、1986年にアメリカとの自由連合関係の下に独立を果たしたのである。
[小林 泉]
政体は4州で連邦を構成する共和制。議会は一院制で、各州から1人選出される4年任期議員と州の人口比例で選出される2年任期議員10名の計14名で構成される。正副大統領は4年任期議員のなかから、議員による投票で選出される。正副大統領を出した州は、補充選挙を実施して不足を補う。
人口比により議員数の多いチューク州選出議員が連続して大統領職を独占しないように各州輪番制合意ができている。また、過去には不信任などで大統領職を追われるような政治混乱もなかった。だが、これは政治の安定というより、大統領にさほどの権限が集中していないことによる。大統領が率いる中央政府は、外交や対米交渉、政府収入の各州分配に関する業務が主で、州内行政への権限を有しないからである。また、財政の根幹となすアメリカからの財政援助金も協定で各州政府の受領額が決まっている。中央政府に州をコントロールする権限はなく、「五つの政府がある国」と表現されたりする。各州は独自の憲法を有し、直接選挙で選出される4年任期の知事と州議会の下で統治されている。
首都はポンペイ島のパリキールに置かれ、各州から集まった議員や官僚が働いているが、独立後四半世紀が過ぎても依然として一国家のなかで州の壁が取り除かれていない。それは国家的な企業等がないことや使用言語、習慣の違いから、各州間の人的交流が進まないからである。
国際政治では、積極的に対外関係の拡大を図ろうとしており、2012年時点で63か国との外交関係を維持している。ミクロネシア5か国(キリバス、ナウル、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ)のなかで、他の4か国がいずれも台湾を国家承認しているが、ミクロネシア連邦は中国と外交関係を結んで北京に大使館を設置している。
[小林 泉]
「自由連合国は、憲法の下に主権を有するが、防衛と安全保障についてはアメリカが全面的権限と責任を負う。同時に、アメリカは15年間にわたり財政支援を行う」。これが、ミクロネシア三国(ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ)がアメリカと結んだ協定の骨子である。経済協定は2001年で終了したが、計画通りに経済自立への基盤が整わなかったため、2004年から20年間に限り財政支援の継続協定が結ばれた。「自由連合」の名称由来は、どちらか一方の申し出で自由に協定の解消ができるところから来ており、協定自体に有効期限はない。当初、アメリカとの自由連合関係は独立性を損ねる危険があるとの懸念もあった。しかし、軍隊も自国通貨ももたない小国にとって、いまでは国家存立の前提になっている。
[小林 泉]
財政は、アメリカからの協定援助金(コンパクトマネー)を基本に成り立っている。独立後15年間で経済自立の達成を目ざしたが実現できず、さらに20年間の援助が約束された。貨幣経済と伝統的自給経済が混在するが、貨幣経済の原資は公的部門や外国援助から発生するもので、域内産業はきわめて乏しい。政府はこうした現状を、漁業や観光業の開発で打開しようとしている。周辺海域が好漁場のため外国漁船からの入漁料収入は年間2000万ドル超、国家歳入の30%にものぼる。政府はこれだけの漁業資源を自ら地場産業化すれば、一気に経済構造が好転すると考えている。
国民1人当りのGNI(国民総所得)は2220ドル(2009)。産業のないわりにこの水準を保てるのは、財政援助のほかにも国外に出た人たちからの送金が大きく貢献しているからである。国内には仕事が少ない。しかし、自由連合関係は、就労を含めてアメリカへの出入りが自由であり、公用語も英語だからアメリカ行きにあまり抵抗がない。こうした条件が若者の海外転出傾向を後押ししている。通貨はアメリカ・ドル。
言語は英語が公用語で共通言語として使われており、地域ごとにチューク語、ヤップ語、コスラエ語などの言語も使われている。宗教はキリスト教のカトリック、プロテスタントが多いが地域伝統信仰も色濃く残っている。
教育制度は初等教育が8年、中等教育が4年で、教育言語は英語。国民の90%が小学校を卒業する。国内の高等教育機関としては、首都のあるポンペイ州にミクロネシア短期大学があり、教養教育や教員養成などを行っている。本格的な大学教育を求める者は、奨学金を得てグアムやハワイ、アメリカ本土の大学に進学する。国民の高等教育への進学率は20%弱。
[小林 泉]
太平洋戦争後長い年月が経過し、日本語を話す世代は少なくなったが、ミクロネシア連邦住民の親日度は依然として高い。自治政府時代の1984年(昭和59)には東京事務所を開設し、1988年(昭和63)の外交関係樹立とともに大使館に昇格させるなど、日本との関係を重視している。日本も1995年(平成7)にポンペイ島に公館を開設し、2008年(平成20)には大使が常駐する大使館に昇格させた。
2011年時点で、日本の援助によるポンペイ空港の滑走路延長工事が進められているが、これが完成すれば日本からの直行便就航が可能となる。2009年までの累積ODA(政府開発援助)供与は255.64億円である。
[小林 泉]
『八坂由美著『ミクロネシアで暮らす』(2000・明石書店)』▽『奥野歩著『わたし、南の島で先生しました』(2004・翔雲社)』▽『小林泉著『南の島の日本人』(2010・産経新聞出版)』
基本情報
正式名称=ミクロネシア連邦Federated States of Micronesia
面積=702km2
人口(2010)=11万人
首都=パリキールPalikir(日本との時差=+2時間)
主要言語=英語,チュウック語,ポーンペイ語
通貨=米ドルUS Dollar
アメリカの国連信託統治下にあったミクロネシアの7行政区のうち,カロリン諸島のポーンペイ(ポナペ),チュウック(トラック),コシャエ(クサイエ),ヤップの4行政区で構成される連邦。1986年独立した。
各島とも16世紀にスペイン人に発見され,スペイン,ドイツの統治を経て,第1次大戦後日本の委任統治領となった。日本人の移住,島民への徹底した日本語教育の結果,年輩の世代は日本語を話し,日系人も多い。トラック諸島には日本海軍の連合艦隊基地が置かれた。第2次大戦後アメリカの国連信託統治領となったが,1979年5月,上記4行政区はミクロネシア連邦として自治政府を発足させ,主都をポーンペイ島に置いた。初代大統領にはトラック出身の日系人トシオ・ナカヤマが就任した。ナカヤマは当初は全ミクロネシアの連邦化を志向したが,他諸島の離脱により4行政区のみの連邦にとどまり,アメリカの軍事基地がない未開発地域の集合体となってしまった。1986年11月3日,アメリカとの自由連合協定Compact of Free Association(防衛・安全保障についてのみアメリカが全権をもつが,同時に経済援助を行うという協定)が発効し,独立した。一院制の国会があり,大統領を選出する。91年国連に加盟した。
15年間の自由連合協定期間中,最初の5年間は年6000万ドル,6~10年目は年5100万ドル,最後の5年間は年4000万ドルがアメリカから供与される。産業は自給自足の農業と漁業が中心で,貨幣経済下にあるのは国民の30%にすぎず,その半分は公務員である。日本,韓国,台湾などのカツオ,マグロ漁船の入漁料が収入源となっているものの,歳入の70%はアメリカなどの援助で,経済的自立は困難である。協定に基づくアメリカからの援助が切れる21世紀には,日本への依存度がさらに高まると予測され,1989年に東京に大使館を開設した。日本は95年に大使館を設け,港湾整備や技術協力に力を入れているが,連邦が4州に分かれて広大な海洋に広がっているので,効果はまだあがっていない。
執筆者:青木 公
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…第1次大戦以後は日本の委任統治領,第2次大戦以後はアメリカ合衆国の信託統治領となった。1986年にヤップ,トラック,ポナペ,コスラエはミクロネシア連邦として,94年にはパラオがパラオ共和国(ベラウ)として,それぞれ独立した。【青柳 真智子】。…
※「ミクロネシア連邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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